未 来

2003年8月8日
昨夜から午後2時過ぎまで夜来の暴風雨が止み、台風一過。実に心地よい風が吹いている

暦の上では今日より立秋。
道理で急激な変化が起こっている筈だ。

先人の教えは不思議なほど生きている。
「残暑見舞い」と言葉も変わるわけである。

はたして宮崎は避けたが、かって、室戸、伊勢湾と言った超大型でそれぞれ、3036人、5098人の被害者を出さないことを祈るのみである。

これらは9月下旬であったが、これも地球環境の変化からくる出来事のようである。

午前中の台風状況の中、我がアパは道路を隔てた隣接地に引越したので、部屋の整理、かたずけで机の位置、ソファーの位置を確認しながら、新たなレイアウト。

洋の東西を問わずの格言「新しき酒は新しき皮袋に盛れ」に従い心機一転。

残り5ヵ月で結果を出さなければならない。
私とすれば中断していたこの日記の再度の挑戦である。

7月4日から開設して有り難いことに1000のヒットを実現できた。

あらためて24時間社会の到来を実感させられた。夜の夜中でもヒットしてるのだもの「ワタ<シ>・・、ワカンナイ!」

不景気と言われているがビジネスチャンスでもあるはずである。

日本人の年間飲食消費は80兆円である<日経8/8>、

しかし農業の生産額は10兆円と言われているがその差70兆円は、輸入や流通や加工、外食に回っていることになる。

ここいらにキーポイントがあるはずだ。
安藤新知事はここいらから宮崎の展望を見出してほしい。

つまり歴史を見つめなおしての新たな県政つくりである。

私は持論を曲げないものがある。
それは宮崎は5つの歴史があるということである。

よって、どうもまとまりが悪い状況があるということだ。

他の県は旧360余州がそのまま廃藩置県として県に衣変えしただけなのである。

伊東氏の日南、天領の地の中央部、島津氏の県央西北部、秋月氏の一ツ瀬左岸地域、そして内藤氏の県北部。

さまざまな歴史の中にそれぞれの生活があったからである。

当然生活慣習が違い、食の生産物を含めて違いがあるのでる。

言葉さえまったく違うのだ。
そこで遠うまわしながら、日向の歴史をさかのぼることからはじめざる得ないのだ。

日本三大敵討ちの富士の裾野の話はこうである。

鎌倉幕府を開いた源頼朝は富士の裾野の鷹狩の最中である。

家臣たる工藤祐経も参加しているが隙を見て親の仇として曽我兄弟がこれを討つ。

工藤家は伊豆のイトウの守護でもあり、地名の伊東を姓とし、日向の守となり、日向の地を拝領する。

そして日向に下り、西都市の都於郡に城を構える。伊東48城の本丸である。

後に浮き船の城と言う。
観光名所の山城の綾城や山之口城が復元されているが、48支城の一つで、いまだ本城たるこの城の復元はない。

それをいいことにNHKは歴史を改ざんしたのである。
そうでなければ、日向の歴史に無知である。

西田敏行が演じた西郷隆盛の第1回は織田信長がローマに少年使節を4名遣わした場面から始まった。

宮崎が最初であったのである。
その正使は伊東マンショであり日南の伊東家の出であると現地撮影をしながら全国放映した記憶が私にはある。

歴史が何十年もずらされている。マンショは西都の生まれのはずである。

伊東氏は隣国の島津氏を凌ぎ、朝廷工作で従三位の地位の格式も整え、もじどうり、南九州の覇者となったであった。

伊東氏はその後えびのの川で武将全員で見張りも立てず、水浴中である。

間者を送り込んでいた島津方がこの機とばかり切り込んだ。

伊東氏は猛将で恐れられていた、家老の荒武をはじめ主力を失い、その後、嫁の実家の大分の大友宗麟を頼り豊後落ちとなり、滅亡となる。

その後秀吉の朝鮮征伐で功をあげた息子は日南の地に領地を拝命し伊東氏の復興を遂げ、幕末にいたるのである。

私の友人の伊東さんは直系で何振りかの名刀を所領され、拝見させてもらったことがある。

たの4藩にしても同様の歴史がある。いずれ書いていきたい。

さて宮崎の歴史の一部を見てきたが、九州の先例地を学んでみたい。

九州で元気のいいところとして黒川温泉が急遽クローズ・アップされているが旅館経営者のゴトウさんの仕掛けが実っただけである。

湯布院ではまず観光は人を呼ぶことでなく生活者の自立であるとの事から始まった。

ナカタニさんやノグチさんゴトウさんがそれぞれのしごとをきっちりやりぬき地元の生活の場を築いた。

そこから雇用も生まれてくる。地元で取れた食材を使ったホテルでの持てなし。・・・

宮崎ほどそれにかなったものがそろっている県がどこにあるものぞ。

野菜、さかな、牛肉、そして椎茸などの
山采、・・・

ワイン、ウナギ、地鶏・・・それがただ点とでしかない。

協力し合って町を形成する形にならない。
市町村の再編議論が進んでいるが、視点が欠落している。

44市町村を県は束ねきっていないのである。
それぞれの独自性の中の合併であるべきだ。

そして何かをはじめようとするときの県民の後進性が惹起してくる。

日南去ってまた日南<一難さってまた一難>
ネットワークの時代にこれではだめである。

目を大きく転じよう。

日本人の食料の自給率は30パーセントを割り、
今や27パーセントで食の安全が危ない。

それは狂牛病で示されたことである。
日本全体の活力をどれだけ削いだ物か。

宮崎の生きる道はこのあたりにヒントが隠されている。

行政は先例をみるのが間違いないが、あちこちに成功事例がある。

九州で元気のいいところとして黒川温泉が急遽クローズ・アップされているが旅館経営者のゴトウさんの仕掛けが実っただけである。

綾町は確かにその実践の地である。
農と食と工がいいハーモニーを奏でている。
広葉樹を守る運動もここから考えるべきである。

私どもの太陽光発電の普及を信頼される生活状況として広く全国に発信するのである。

全国一の日射量を誇る文字通りの「日向の国」に名実ともするべきである。

それにつけても補助が北郷町だけとは情けない。
輝ける未来はあるのであろうか。

自然を崇め、循環型社会の実現の如何が未来を決める。

地震、雷、火事、親父。
自然の猛威には誰も立ち向かう事は出来ない。

自然エネルギーの太陽光発電を同じである。

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