自分史の原点

2004年4月9日 恋愛
新天地の「あたらしき村」建設を目指した武者小路実篤の第一歩はここ土々呂から始まった。

大先輩との延岡の営業の帰りに私も涙で同じところに立った。
かれの希望膨らむ想いいとはまったく違う心境ではあるが・・・。

数奇な運命のいたずらと世間の仕打ちを受け、お天道様を正視できぬ状況下に追い込まれた小さきわが身。

青春を懐古しての嗚咽に震える昭和45年の自分がここに立っている。

社会改革者としての立身を目指し青春を謳歌していた私の残像である。
矢つき、刀おれ、世捨て人の自分と光り輝いていたあの頃、の残滓。
何一つ変わらぬたたずまい、

太古より年代を経た岩肌に寄せ打つ波は悠久よりの遅々たる自然。
幾度と流した伊吹おろしを思っての思慕の涙。・・・妙見浜。

ほほの塩っぽさは、懐かしさとわが人生への悔悟の涙か
走馬灯のように記憶はめぐる。

土々呂の三松公園はその頃、自ら.気付ずこうともしなかった
日本漁業史に燦然と輝くブリ大臣、たる日高亀市翁の銅像がある。

もちろんこの公園も氏の寄贈になる。
渋い高級な料亭の三松閣跡を管理する古老が親切に教えてくれた。

ブリ大臣の一族が経営してきたこの三松閣も
今は、吉田病院のケア施設。

風格あった、かやぶき屋根は下作な物となり、泣きながら佇んでいる。
医は仁術どころか医は算術の資本の論理がここにもあった。
・・・・・
土々呂沖には、毎日のようにブリの大群が押し寄せていた。だが浜の漁民たちは、従来の1本釣り漁法に頼るしかなく、

何とかこれをまとめて獲りたいというのが、亀市の父・嘉右衛門のかねてからの夢だった。

1875(明治8)年、「ブリ沖廻し刺網」を完成。
この漁法はロンドンで開かれた、日英博覧会にも出品され、
見事1等賞の栄に輝く

1910(同43)年彼はさらに長男・英三郎と共に、「大謀網」を考案、
漁期を通し18万2千匹のブリを水揚げする。
こうしていまもつかわれているブリ定置網漁業は新時代を切り開いた。

私もその利益をいただいた。漁協の好意のプレゼント役徳であった。
今は、情緒のない社会でワイロというのかもしれない。 

年末にはこの天然ブリを西都までバイクで運んだ。
未舗装をもあった国道10号線をである。

宮崎の水産業が隆盛も極め、近海カツオ、マグロの水揚げ量は日本一となっているのは,ここに起因しているといっても過言ではない。
今では、神宮の杜の宮崎県博物館でうかがい知れる。

鯛名の猿田彦の石碑を通り、赤水湾のブリ御殿を見ると
築かれた富の偉大さ、財産がわかろうというものだ。

京都、二条城を思わす遠景にブリ大臣のお屋敷を眺む。船着場を持つ日高家の広大な屋敷は赤水湾の要塞。

これでは、長崎沖に浮かぶ姿に似て、さながら軍艦島。
いまは、さしずめ、湖畔に立つビル・ゲイツの要を呈していること
であろうて。

ふるさとの、なまりなつかし、ていしゃばに、ひとごみのなかに、そをききにいく 石川啄木だった?か。
貧苦のどん底でもがき苦しむなかの、望郷の鎮魂歌である。

時代の変化、時の流れに左右されない人間の・さ・が・、永久の課題であろう。

このことが、洋の東西を問わないのは、「望郷」の映画の
ジャン・ギャバンで観ることが出来る。

温故知新は隣国たる国の周恩来は時の総理を尋ねる前に日中国交回復の立役者田中真紀子の父たる目白の田中角栄を訪ねた。
このことに私はこの国の品格を感じた。

郷土の生んだ県北北川のあの名訳『チップス先生さようなら』の菊池 重三郎で見て見ても
故郷に思いを込め異常なほど故郷こだわっている。

島崎藤村との親交で「なんとなくクリスタル」の田中康夫の長野にも深い思い入れがある。
『故郷の琴』では「ひゅうがの項」に冒頭こう記した。

 「たとえ生涯の5分の1にしかあたらない歳月を過ごしたにしても、わたしの生まれたのは日向であり、日向に育ったのだ。
そして本籍を移す問題が身近に何度か起こったときも、なぜか気がすすまないままに拒み続けて今日に及んだが・・・・
案外わたしの心の支えになっていたかもしれない」

故郷の山河や人々に接した喜びが、あふれるように、痛いほど描かれている。
懐かしき人との再会した喜びや悲しみ、思い入れたふるさとの土への愛情が満ち溢れている。

「生きるということが、これほど切なく、別離が逢う歓びにくらべて、どんなに辛いことか、身に沁みて哀しかった」とも述べている。
先哲の名文は心を打ち、涙と記憶を増幅させる。

 いかに齢老いても
 私の心は まだ愛のなかに
 幼年の日を灼いた
 あの無邪気な熱を持っている
  E・ヴェルハーレン
 『故郷の琴』の扉に書かれた詩である。

 「地平線はやや右に傾き、一ツ葉海岸の松林はそれとはっきり見えるほど色濃く、空の広さはまるでオランダの画だ。
燦めく瞬いていた星の光りは、いつか消え失せ、空がほんのりと色づき始めると、大淀川もやがて朝靄にかすんだ眠い目を
こすり始める。こんな夜明けの天地が呼吸(いき)づく風景を、宮崎の人よ、あなたは知っているであろうか」
・・・・
  ・・・
国のはじめたる日向のその海岸線は、総延長398kmにもおよび、
町を形作ってきた義人が他にもある。

今では400戸にもなる開拓の町川南町の通り浜である。
ここでも、たくさんの魚を頂いた。当時の組合長は・・・

通山浜の一つ松児童公園内の碑文は、網代幸吉とその協力者三浦甚助、細島から移住した3家族を、集落開拓の祖として、その功績を伝えている。

高鍋の元町長の網代家のご先祖さん?網代幸吉の働き大である。
わが故郷、山田を救った鬼塚源吾の如きと同じであろうか。

ふるさと宮崎に裏切られても必死で第二の人生を成功裏に収めようと
もがく初老のピエロがいる。

大自然を守ろうとの太陽光発電の普及にかけている。
夜、全員でのミーテングで確かな手ごたえを得る。

分析を深め絶対食える売上をはかってみせる!

大先輩の粋な計らいで英気を養えた。

敵を知り己を知らば百戦危うからず
明日からがんばらねば。

  出身魚の呼び名

○ボラ ハク→オボッコ(イナッコ)→スバシリ→イナ→ボラ→トド
○コハダ ジャコ(シンコ)→コハダ→コノシロ
○スズキ コッパ(デキ)→セイゴ→フッコ→スズキ→オオタロウ
●ブリ 東京近海  ワカシ(ワカナゴ)→イナダ→ワラサ→ブリ
○関西     モジャコ→ワカナ→ツバス→ハマチ→メジロ→ブリ
○紀州近海  ワカナ→ツバス→イナダ→ハマチ→ブリ(オオウオ)
○瀬戸内海  ツバス→ツカナ→ハマチ→メジロ→ブリ
○丹後地方  マンリキ(イナダ)→マルゴ→ハマチ→ブリ

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