熱海・伊豆

2003年9月13日
会社の社員研修で、伊豆、熱海にいる。
埼玉、金沢、長野等全国にいるメンテ要員が一同に会した。

息子と変わらぬ年齢の若いスタッフばかりで眩しい。

全てが私の再起にふさわしい地なのかもしれない。

それがこれまた不思議な縁なのである。
この地は・・・・・

まず、この地は我が日向のご先祖様の本家の地であることだ。

日本3代敵討ちのひとつ「曽我兄弟」。
源頼朝の富士の裾野の鷹狩での場面である。

討つ側の十郎、五郎は知ってる人も多いが、討たれる側の工藤祐経は、知られていない。

彼は、伊東の地にちなみ、伊東の姓を名乗る。
日向の地の領地をもらっていたが、

三代目にして初めて日向の西都の都於郡に本城を築いて赴任する。

島津軍を各地で破り、さらに凌ぐ勢いで日南、都城をも抑え日向48城を築く。

本城は浮き船の城と言う。
従3位の宮廷地位さえしめた。

通常、「いとう」は「伊藤」の字をあてる。
特異な人のみ「伊東」なのである。

「祐」「すけ」もそうであり、伊東の家に伝わる
名前にあてる字の一字である。

天正9年間まではまさに日本の歴史に日向は大きな影響を与える。

天下の覇者、織田信長は宗教にも寛大であった。
世界え乗り出す尖兵として、ローマに正使を派遣することになった。

はじめてのローマへの使節はナント少年であり、
4名の正使の長は都於郡の城の出身の14歳の伊東マンショが勤めた。

作家の遠藤周作の作品郡に数々登場し、豊後の大分の覇者たる大友宗隣に関する話にそれも出てくる。

その後の豊臣、徳川と為政者の政策で歴史から抹殺された日本の裏面史である。

世界史はキリストを中心とする宗教の歴史でもあるわけだが、日本は孤高を守り通したため

このことは、大きな歴史の流れの中での正史としての扱いは歴史に薄い。

このようなことは伊豆から全ては発している。

言葉、慣習など調べてみれば数々のものが明らかになり、西都市と伊東市は姉妹都市になるのかもしれない。

また、伊豆は「平家にあらずんば、人にはあらず」の世相のなか雌伏10数年、北条氏の助力もあり、源頼朝が旗揚げしたところでもある。

敵方たる平家の地元の有力者、北条氏の娘政子とのロマンスの地でもある。

修善寺は八万太郎の異名をもつ弓の源頼家だまし討たれの怨念の寺でもある。

その栄華の源氏も3代実朝は甥の公暁にうたれ、あえなく滅んでしまう。

醍醐天皇ともうまくいっていたのに、母たる政子の実家の北条に義理の立てすぎで起った悲劇でもある。

家の繁栄、没落は子をなしえる女たる妻の姿勢で決まるものである。

所詮人間社会をも動物の本能のなせる世界に過ぎぬ。

熱海は関東の奥御殿どころか世界の避暑地で会ったはずだが、

観光は不景気の時最初に削られるお金である。
よって見るも悲惨な状況である。

ココ熱海は若富士国体の最中でビーチバレー等3会場なのだが、お客さんが少ない。
小泉総理には理解できないであろう

熱海がこれほどまでに有名になったのは
「金色夜叉」と丹名トンネルの開通によるものが大きのではなかろうか。

あらすじ・・アラカルト

金の誘惑にひかれた婚約者、鴫沢宮に裏切られた
一高生間貫一は、学業を止め、金力の鬼、金色夜叉となって社会に報復しようとする

しかし、心は充たされ・・・・・ない。
最晩年の尾崎紅葉(一八六八‐一九〇三)が心血を注いだ、渾身の大作。

『金色夜叉』は、毎朝の新聞の配達を待ちかねる読者の絶大な支持を受けて、

明治三〇年一月から明治三五年五月まで、五年以上にわたって『読売新聞』に断続的に連載された。

未完であったが高弟、小栗が完結させた。

下巻には、「続篇金色夜叉」「続続金色夜叉」「新続金色夜叉」を収録。


大海の 磯の沖によする波
われて
        砕けて
         さけて
           散るかも
万葉20卷は歌人が貴族とかであり、特にその内容は「あわれ」とかが特筆し

、無骨な武士が登場するのが珍しい。
それも源氏3代将軍の実朝の歌だから異例である。

幼少の私はガキ大将で「男女三歳にして席を同じゅせず」の教育の最後の世代である。

社会的にはその教育は、すでに終わっていたが、男ばかりの家庭環境と田舎の男尊女卑の風潮で育ったゆえの環境のなせる技である。

兄が図書館から借りていた谷崎の細雪や卍のエロテックな場面を拾み読むなかで少しやさしさの必要性ににめざめたが、ガキ大将をまだ任じていた。

中学校で習ったのが最初の万葉の世界。
その中でカバのあだなの児玉先生のこの歌の説明を聞き身をピーンと張ったのを鮮烈にいま思い出す。

「ナーヌ将軍の作とナ。」
喧嘩調では行けないこと。
ものの奥を知ること。
広い人間愛を考える芽をほんの少し開眼したものだ。

弱きもの。貧しきもの。への手を差し伸べる根底は優しさである。四季にめをやり、平々凡々に自分らしく生き抜くこと。

そのきっかけとなったものである。

いま太陽光発電ぬ出会いおなじような思いを持っている私はなんと幸せものであろう。

城が崎は金曜サスペンスの舞台でしか現代人にとっては認識が無いのであろう。

星野哲郎の歌碑は城が崎ブルースと2ッもある。
佐藤千夜子の{雨が降る〜降る〜♪〜城ゲ崎にぃ〜しずかに}

歌なんかもう歴史の外のようである。
NHKの連続ドラマ「いちばん星」で紹介されたので覚えておられる方も多いかと思いはずだ。

日本で最初のレコード・スター歌手・佐藤千夜子は1897年(明治30年)3月13日、山形県天童市生まれ。

山田耕筰、中山晋平、野口雨情らと一緒におこなっていた「新民謡・新童謡コンサート」に歌手として参加、

この企画の中で生まれた「波浮の港」が1928年ビクターからレコードとして発売。

これが日本の商業レコード第一号。
同年、古賀政男の「影を慕いて」を歌い、これによって古賀政男はメジャーデビューすることができた。

(この曲自体は藤山一郎版リバイバルが大きくヒットする)

1929年には、最大のヒット曲「東京行進曲」をはじめ、「愛して頂戴」「紅屋の娘」などのヒットを次々と飛ばす。わたしの持ち歌に全て入っている。

「東京行進曲」は菊池寛の同名小説を映画化したものの主題歌で、日本初のタイアップ曲であり、また「歌謡曲」というジャンルを確立した曲であると
される。

この曲のプロモーション・スタッフはレコードを持ってカフェなどを回り、たくさん掛けてもらって曲をヒットさせ、それが映画のヒットに
もつながった。映画の主演は入江たか子です。

これだけの大きなヒットを飛ばしたにも関わらず、佐藤はこの年の秋、突然

イタリアに渡ってしまいます。
その理由については「いちばん星」では中山
晋平との不倫問題を決着させるため、としていましたが、

異説では当初から
希望していたオペラ歌手になるためともされます。

しかし佐藤はイタリアで成功することはできず、失意の内に帰国。その後は

日本国内で復帰を目指すもそれも果たせず(流行歌手というのはたいがいそ
ういうものですが)、1952年ちょっとした事件を起こして新聞沙汰となり、

事実上芸能界から引退しました。

1968年12月21日、ガンのため死去。

天童市の天童民芸館は佐藤の生家を再現したものだそうです。地元では佐藤
を記念したイベントなども時々おこなわれているようです。



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