ゴールデン街
2003年10月10日九州の各県は、そのまま江戸期の藩を引きずっており、お城跡地が、そのまま県庁所在地となっている。
肥後は熊本、薩摩が鹿児島、肥前が佐賀と
いうように名前を変えただけである。
ただし、宮崎だけは、違うのである。
明治を迎えるとき、延岡の内藤、高鍋、
串間の秋月、佐土原の島津、日南の伊東、都城、
小林の島津、米良の菊池、宮崎市内は、複雑で
天領地、内藤、伊東となっていた。
よって、いまだまとまりが無く、
言葉、食文化に違いが生じている。
換言すれば、いまだ他国なのである。
宮崎の県民性、後進性の根本である。
その、延岡の地に行った。
文豪漱石にしてうらなり先生が赴任していく先の・・猿とと人間が、同居しているところ・・・
である。
若」大将のハンドルさばきは、実に丁寧。
それでも、時間通りについた。
野口記念館、や、市役所の天下一の旗には活気を感じた。
藩主、内藤家なり、素封家の谷氏の寄進した能面がこんな財産になっているとは、驚いた。
昭和45〜48年頃にもこれらの、文化財はすでにあった。そのころは、宝の持ち腐れ。
町おこしに一役買っているようである。
縣城、の城山での野外の薪能は多くの観光客を呼んでいる。
食い意地の張っている、
私には、ひたすら鮎やなの鮎料理である。
ついたのが、約束通り、の13時。
日本一の企業の方と、大貫、じゃ無かった西階球場の、ある、野田町のお客さん宅に直行である。
この道路は、青春時代、駅伝大会で颯爽と駆け抜けるたところである。青春の重いでは、どこでもほろ苦い。
そして今日は、太陽光発電の伝道者である。
すでに何社かとの競合であるようだ。
アパなら、勝てるのだが,あくまでも下請け工事業者である。
屋根の状況を一目4メートル×10メートルでパネル24〜30枚と判断。
屋内の電気配線を見聞きして回る。
再度、来訪できることの約束を取り付けて辞した。
さぁ鮎やなである。
塩焼き4匹、せごし、生臭い川魚の独特をご相伴にあずかった。
しめて7000円は痛かったが、何十年ぶりの味では、安いものだ。
この時節のこの街中で鮎が取れる清流が何処にあろう。野口尊の起こした今の旭化成。
本業より、陸上の日本代表を数多く輩出したことのほうが、名高い。
「靴が、ぬけちゃいました。」
でオリンピック世界5位?、の谷口浩美
。宗兄弟、
遠くは、ベルリンの広島兵庫、日出国。
日本記録の児玉、森下、上げればきりが無い。
その勇姿はシンボルの赤煙突のそばの競技場で見られたものだ。
土台、歴史に支えられていない宮崎は、ある意味で延岡がその中心といえるのかもしれない。
日向の全支配者は、日下部氏に始まった。、
鎌倉以前の荘園制のころ宇佐の神官の田部氏の
嫡流の土持氏は宣綱の代その日下部氏の氏久の娘の養子になる。
そして、日向のほとんどを従える。
薩摩の荘が全国一で二番目に広い荘園であった。
伊東氏や島津氏との領地争いもありながら、700年支配した。
その土持氏も大分の大友宗麟と島津氏との間でにあり、ついに大友氏に滅ぼされる。
朝鮮の役を得て、高橋元種が27年間、有馬78年間、三浦20年間、牧野35年間を経て、
頼朝政権時の御家人の内藤氏が1747年に延岡に入り、明治まで続く。
不夜城の世界一の東京でも、とりわけ歌舞伎町の東新宿。ゴールデン街の傍。
その歌舞伎町の3丁目の末広亭のあるところの隣。わからねぇだろうな。
否!歌舞伎町1丁目のアルタ。タモリの笑っていいとも!と言った方がわかりがいい。これだ!これ!
その歌舞伎町の3丁目。
その花園神社が元の位置の名残である。
尤も、元の位置は、今より、20メートル南の伊勢丹にあったそうだ。
ここは、徳川御三家、尾張藩邸があったという。その花園で花園神社が名前の由来。
もともと、この地は、内藤家の領地であった。内藤新宿、追分新宿と言った。
新宿の名も内藤家、敷地前にできた新しい家。に由来する。
正蔵、のちの彦六や円生の落語に出てくるところだ。
甲州街道の一番目の宿は、高井戸であった。日本橋から16KMもある。
<東海道の高輪、品川と比べるがいい。10月1日の日記の通りである。>
そこで、内藤家のまえに宿屋を作った。
その後、内藤新宿は宿場町として栄えることとなったが、同時にその性質上、岡場所
(官許の遊里以外で私娼のいた場所)としても栄えることとなった。
「岡場所遊郭考」には
「甲州街道旅籠屋飯盛女あり、明和(1764〜71)安永(1772〜80)のころは殊の外盛なり・・・
(中略)美服を着し紅粉の装いあたかも吉原におとらぬ春花をおきたり。・・・」
とあるように華美反映の姿がうかがえる。
また「高松文書」(東京都公文書館蔵)には、
「飯盛女を抱える旅籠屋は、寛政11年(1799)には上町(新宿3丁目あたり)には20軒、
中町(同2丁目あたり)には16軒、下町(同1丁目あたり)に16軒あり、中には大間口之旅籠屋追々建増仕るべく候」とある。
上野、吉原に劣らぬ賑わいであるのが現在の下地として会ったのだ。
ゴールデン街の内藤陳さんの店『深夜+1』で飲んだ経験を私は持っている。
この店では、遠距離訪問者は優先的に席に座らせてもらえるという暗黙のルールがある。
もちろん、その栄誉に浴した。
残念ながら、内藤家とのお話はできないでいた。
内藤さんしらない?有名なボードビリアン。
カーボーイ姿で二丁拳銃。
なぜかあの世でしか見れない早野凡平さんの芸を思い出す。
もう一度いおう!
トリオ・ザ・パンチの、「ハードボイルドだど!」の人。やはり知らない?
もぉ最後、日本冒険小説家協会会長の、内藤陳さん。
なんやかんやで、この片田舎の宮崎は、ナント世界一の歓楽街の分家であったと言いたかったわけ。
天下一の能面がなにを語っているのか。
きずいてほしい と訴えていたのか。
わたしには、太陽光発電の普及をガンバレといっている。
もう病的なぐらいである。
地球環境はそれぐらいないと守れない。
肥後は熊本、薩摩が鹿児島、肥前が佐賀と
いうように名前を変えただけである。
ただし、宮崎だけは、違うのである。
明治を迎えるとき、延岡の内藤、高鍋、
串間の秋月、佐土原の島津、日南の伊東、都城、
小林の島津、米良の菊池、宮崎市内は、複雑で
天領地、内藤、伊東となっていた。
よって、いまだまとまりが無く、
言葉、食文化に違いが生じている。
換言すれば、いまだ他国なのである。
宮崎の県民性、後進性の根本である。
その、延岡の地に行った。
文豪漱石にしてうらなり先生が赴任していく先の・・猿とと人間が、同居しているところ・・・
である。
若」大将のハンドルさばきは、実に丁寧。
それでも、時間通りについた。
野口記念館、や、市役所の天下一の旗には活気を感じた。
藩主、内藤家なり、素封家の谷氏の寄進した能面がこんな財産になっているとは、驚いた。
昭和45〜48年頃にもこれらの、文化財はすでにあった。そのころは、宝の持ち腐れ。
町おこしに一役買っているようである。
縣城、の城山での野外の薪能は多くの観光客を呼んでいる。
食い意地の張っている、
私には、ひたすら鮎やなの鮎料理である。
ついたのが、約束通り、の13時。
日本一の企業の方と、大貫、じゃ無かった西階球場の、ある、野田町のお客さん宅に直行である。
この道路は、青春時代、駅伝大会で颯爽と駆け抜けるたところである。青春の重いでは、どこでもほろ苦い。
そして今日は、太陽光発電の伝道者である。
すでに何社かとの競合であるようだ。
アパなら、勝てるのだが,あくまでも下請け工事業者である。
屋根の状況を一目4メートル×10メートルでパネル24〜30枚と判断。
屋内の電気配線を見聞きして回る。
再度、来訪できることの約束を取り付けて辞した。
さぁ鮎やなである。
塩焼き4匹、せごし、生臭い川魚の独特をご相伴にあずかった。
しめて7000円は痛かったが、何十年ぶりの味では、安いものだ。
この時節のこの街中で鮎が取れる清流が何処にあろう。野口尊の起こした今の旭化成。
本業より、陸上の日本代表を数多く輩出したことのほうが、名高い。
「靴が、ぬけちゃいました。」
でオリンピック世界5位?、の谷口浩美
。宗兄弟、
遠くは、ベルリンの広島兵庫、日出国。
日本記録の児玉、森下、上げればきりが無い。
その勇姿はシンボルの赤煙突のそばの競技場で見られたものだ。
土台、歴史に支えられていない宮崎は、ある意味で延岡がその中心といえるのかもしれない。
日向の全支配者は、日下部氏に始まった。、
鎌倉以前の荘園制のころ宇佐の神官の田部氏の
嫡流の土持氏は宣綱の代その日下部氏の氏久の娘の養子になる。
そして、日向のほとんどを従える。
薩摩の荘が全国一で二番目に広い荘園であった。
伊東氏や島津氏との領地争いもありながら、700年支配した。
その土持氏も大分の大友宗麟と島津氏との間でにあり、ついに大友氏に滅ぼされる。
朝鮮の役を得て、高橋元種が27年間、有馬78年間、三浦20年間、牧野35年間を経て、
頼朝政権時の御家人の内藤氏が1747年に延岡に入り、明治まで続く。
不夜城の世界一の東京でも、とりわけ歌舞伎町の東新宿。ゴールデン街の傍。
その歌舞伎町の3丁目の末広亭のあるところの隣。わからねぇだろうな。
否!歌舞伎町1丁目のアルタ。タモリの笑っていいとも!と言った方がわかりがいい。これだ!これ!
その歌舞伎町の3丁目。
その花園神社が元の位置の名残である。
尤も、元の位置は、今より、20メートル南の伊勢丹にあったそうだ。
ここは、徳川御三家、尾張藩邸があったという。その花園で花園神社が名前の由来。
もともと、この地は、内藤家の領地であった。内藤新宿、追分新宿と言った。
新宿の名も内藤家、敷地前にできた新しい家。に由来する。
正蔵、のちの彦六や円生の落語に出てくるところだ。
甲州街道の一番目の宿は、高井戸であった。日本橋から16KMもある。
<東海道の高輪、品川と比べるがいい。10月1日の日記の通りである。>
そこで、内藤家のまえに宿屋を作った。
その後、内藤新宿は宿場町として栄えることとなったが、同時にその性質上、岡場所
(官許の遊里以外で私娼のいた場所)としても栄えることとなった。
「岡場所遊郭考」には
「甲州街道旅籠屋飯盛女あり、明和(1764〜71)安永(1772〜80)のころは殊の外盛なり・・・
(中略)美服を着し紅粉の装いあたかも吉原におとらぬ春花をおきたり。・・・」
とあるように華美反映の姿がうかがえる。
また「高松文書」(東京都公文書館蔵)には、
「飯盛女を抱える旅籠屋は、寛政11年(1799)には上町(新宿3丁目あたり)には20軒、
中町(同2丁目あたり)には16軒、下町(同1丁目あたり)に16軒あり、中には大間口之旅籠屋追々建増仕るべく候」とある。
上野、吉原に劣らぬ賑わいであるのが現在の下地として会ったのだ。
ゴールデン街の内藤陳さんの店『深夜+1』で飲んだ経験を私は持っている。
この店では、遠距離訪問者は優先的に席に座らせてもらえるという暗黙のルールがある。
もちろん、その栄誉に浴した。
残念ながら、内藤家とのお話はできないでいた。
内藤さんしらない?有名なボードビリアン。
カーボーイ姿で二丁拳銃。
なぜかあの世でしか見れない早野凡平さんの芸を思い出す。
もう一度いおう!
トリオ・ザ・パンチの、「ハードボイルドだど!」の人。やはり知らない?
もぉ最後、日本冒険小説家協会会長の、内藤陳さん。
なんやかんやで、この片田舎の宮崎は、ナント世界一の歓楽街の分家であったと言いたかったわけ。
天下一の能面がなにを語っているのか。
きずいてほしい と訴えていたのか。
わたしには、太陽光発電の普及をガンバレといっている。
もう病的なぐらいである。
地球環境はそれぐらいないと守れない。
コメント