挽回

2003年10月31日
越地吹雪の自叙伝まがいをずいぶん昔読んだ記憶がある。

越地吹雪の芸名は、生い立ちの郷里から、名ずけられた、宝塚の芸名である。

その様な経過からして当時は、そう期待されてなずけられたわけではないようだ。

お相撲さんが、故郷の山、川となずけられたり、
落語家の出世名以前の前座名や、たけし軍団が、

その人の特徴でなずけられるのと同じ程度でなずけられたようだ。

それを本人の努力で不出世のビッグネームにしたようである。

歌ってよし、踊ってよし、演じてよしとその名はかんぜんと輝く。

私のLPにも当然所属していた。
この人のシャンソンがいい。

安奈淳<56歳>はそのごの塚フアンの忘れえぬ名。

オスカー、アンドレの「ベルサイユノバラ」である。一世を風靡した。

今朝の生活ホットモーニングはその安奈淳。約束を巧くずらして暫し、テレビ。

長島一茂の「私はあきらめない」のほうが、番組上よかったのでは・・・・

3年前のことだ。我慢してた病気が、熱海で発病。
担がれて聖路加病院に担ぎ込まれる。

「いくら息を吸っても呼吸にならない。
呼吸困難で、危篤状態。

主治医がよかった。松井雅夫内科部長が担当医。
膠原病の診断である。

私のなくなられた先輩で芝立さん。
足とかを指で押すと元に戻らずズーットひっこんだままであった。

原因不明のままで亡くなられたが、どうも膠原病であった。なにも女性ばかりではないと今思う。

そのころは、医学の遅れで、奇病扱いであった。
膠原線維が巧く動かないので、もとにもどらず、腫れ、浮腫んた状態。

ステロイドを通常のの10倍をも投与。
2ヶ月で回復。20KGも体重が、落ちたそうだ。

尿がたまっていたのだ。

聖路加病院は宮崎の医師ビタミンの父高木覚兼が創立者であったはずだ。宮崎がんばってる〜。

アンドレ役の泰名由梨さんが見舞いにいくも
人間不信でうまくコミュニケがとれず・・・と思い出を述べておられた。

倦怠感、無力感、人間不信・・・何度もの自殺未遂があった。身体、気力がついていかない。

薬の副作用との戦いがリハビリの中心であった。

レポーターは日本一の方である。
吹田明日香。・・・・・

よかった!番組おろされずにいたのだ。
実は10月24日暴力事件の翌日の朝、生活ホット・モーニング。

この時に大ポカをやってしまっていたのだ。
9時18分頃である。

それはこうである。

老夫婦の取材で亡くなられた旦那さんを
孫を連れ、星をさし、
「あれが、死んだ爺ちゃんですよ!」

の取材での話をしだしたら、感極まり、
声が出なくなり、泣き出してしまったのだ。

清水恵子アナもオドオド。巧くつながない。
・・・ほんの何分か声のない画面だけ。

私は、0570−066−066とか0985−32−8111に緊急電話である。

これこそが、生番組であり、名リポーターである。番組を交番させないでほしい旨強く訴えた。

民放なら、お咎めなしであろうが、NHKは役所適でやりかねないからである。

心配してたが、笑顔で、今日は涙なくがんばっていた。

日南で集金を一部出来、夜商社さんに届けた。
同業の方に会う。

日南から、都城に似まわり、現地の実寸取り。
どうも発電効率悪そうな家。

三股の現場は、完了していた。福岡からの、応援もあった。

今月もおしまい。
メンテの仕事を出してきた、●興は、金を払わぬ。

逃げ回っている。
担当の米部長は辞めている。

挽回が出来ない月末。
アパには方向性の出た月では、あった。

私の首筋は左右に触れない。
財布と同じ状況で体力が大変である。

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