山里・川原ノスタルジー
2004年5月2日 読書
連休2日目は雨日和。すげれぬのは私自身を投影しての涙雨。
久子の影はどうも生涯ついてまわるのであろうか。
何たることか。ひねくれもんたる私の責任なのか。
それがあるか。誰が兄弟の葬式に出られぬものがあろうか。
病気さ。PTSDなのだ。
今日の読売だったか、NHKお天気キャスターの倉島厚の言葉、
「80パーセントでいい。無理しない。行動は納得してのみ・・」
自殺寸前、欝病から生還した極意を書いていた。
八十八夜。立春からかぞえて八十八日目にあたる。すぐに立夏。
瑞穂の国たる農業国家には春から夏に移る節目の日で
活動を始める特別の日。縁起のいい日
八十八夜は二十四節気以外の雑節のひとつ。雑節とは、
節分・入梅・半夏生・二百十日・土用・彼岸
と同じような季節の変化の目安とする特定の日の総称。
タバコ農家に育った私には霜よけの変わりの麦の穂の畝に
タバコの苗を植え付けをはじめる日であった。
趣味の園芸でないプロ農家たるタバコ作付けは手で穴を掘らない。
手作業ではあるが、グルッと廻して穴を先にあけて回る機械を使う。
一個ずつ移動するのだが、等間隔に畝の上の穴明けは大変だ。
背も低く機械の方が高いので途中からは大変な作業であった。
川原集落、(当時は部落の言葉であった。)はいろんな
作物を作っていた。
「八十八夜の別れ霜」というように、この頃から霜もなく安定した気候となり、茶摘み、苗代のもみまき、
蚕のはきたてなど川原集落の農家は農作業の目安とした。
「八十八夜の忘れ霜」「さつき寒」とも言い、急に気温が下がって
霜が降り、農作物や果樹に思いがけぬ被害を与えることを警戒した。
山田地域、川原部落一の働き者で大家族総出の我が家は
他の同じ農家より農作業が早い。
よって忘れ霜は実に怖かった。一年のタバコ収穫に影響する。
タバコ作付け後の深夜、何度、霜よけ作業に出動したことか。
深夜、真っ暗な中、星の瞬きの光のみでの作業である。
それも目指す作付け地はあちこちにある。
移動は、自転車か、ひたすら、走るのである。深夜に。・・
風が吹いてる間はまだいい。
風がやむと絶対に作業が必要となる。
まだ、小学生ナのである。
学校の先生!居眠り許してヨ!このような状況を知っていたの?
川原集落(当時は部落の言葉であった。)はいろんな作物を作っていた。
無事終了すると「あおんさま」のお祭りである。
神楽88番が舞われた。
もちろん春、秋に催された。剣道、相撲の大会があった。
神楽のメインは蛇斬り、である。
真剣の刀を使っての舞、・・・乱れ、高まる笛、太古、鐘。
稲わらで作り上げた2匹の大蛇を時間をかけ舞いながら切る。
頭を捕るとチョットした英雄。大人を敵に廻して必死で狙った。
家に持ち帰ると馬頭観音に知らせ、
牛、馬、ニワトリ、ヤギ、うさぎに食べ与えた。
家畜たちの、一年の無病息災を祈った。
お払い済みなので効果が?あった。
神楽は何も高千穂の専売特許ではなかった。
川原集落のあちこちには、神々が住んでいた。
父母たちの記憶では「ヤクサン馬場」もありの賑わいであったという。
香具師、店もならび、地区毎の牛馬がお参りし大層な賑わいであった
そうな。
大正期の後半頃のことであろう。
小字にヤクサン馬場が残っているはずだ。アッ!土地改良してる!
霜なくて曇る八十八夜かな 正岡子規
立春から数えて八十八日目、八十八とい字を組み合わせると米という字になることから、
川原集落とっても特別重要な日。
この日、苗代に種籾を蒔く。
「ハチヤブリ」というところがあるそうだが・・・
お供え物を盗むように食べ歩き、持ち帰るのは、
食のない頃ゆえ、実に楽しくまちどうしかった。
また、この日に摘んだ茶を飲むと、命が延びる、中風にかからない、といわれていた。
釜入り茶を全員総での作業で分業である。
摘みに行く人、釜でいる人、蒔きもやし係、釜揚げ後の作業は
竹で編んだカゴで揉む。
熱い!否!熱すぎるのでひたすら神経を集中して揉む。
物理的現象には勝てぬので手は焼けど状態。
ソリャそうであろう。茶ッ葉の水分が7〜80.90度もなっている
状態を揉むのである。
何度かその行程を繰り返しチャッパは鉄板で造られた
容器の中に収められた。
かつての日本の夏前の季節感を浮かび上がらせた。
手を使ったりおじゃみ捕りをしながら遊び、唄った。
久子の歌を聞いたことがある。
嫁にいつ他後だったか。
♪ ♪
夏も近づく八十八夜、
野にも山にも若葉が茂る。
「あれに見えるは
茶摘ぢやないか。
あかねだすきに菅の笠。」
二、♪
日和つづきの今日此の頃を、
心のどかに摘みつつ歌ふ。
「摘めよ、摘め摘め、♪
摘まねばならぬ、
摘まにや日本の茶にならぬ♪
明治45年(1912年)
『尋常小学唱歌 第三学年用』
昭和7年(1932年)『新訂尋常小学唱歌 第三学年用』
文部省唱歌 作詞作曲不詳
京都の宇治田原村の茶摘歌をベースにしているとされ、
二番目の歌詞に出てくる「日本」は、もともとは「田原」だった。
この頃の我が家の庭にはどこの家よりも多くの鯉が泳いだ。
兄弟が多いのでエッヘンと威張ってすごせた。
当節は鯉ヘルペスで肩身の狭いだろうかもしれない
♪
甍の波と雲の波 重なる波の中空を
橘かおる朝風に 高く泳ぐや鯉のぼり♪
開ける広きその口に 舟をも呑まん(のまん)様(さま)見えて
ゆたかに振う(ふるう)尾鰭(おひれ)には 物に動ぜぬ(どうぜぬ)姿あり
♪
百瀬(ももせ)の滝を登りなば たちまち竜になりぬべき
わが身に似よや男子(おのこご)と 空に躍るや鯉のぼり♪
913年(大正2年)の「尋常小学唱歌(五)」
に発表された文部省唱歌。
担任先生の恥ずかし、楽しの家庭訪問の季節でもあった。
順番を決めて集落毎の訪問を手をつないで引き連れて我が家へとつれてきた。
成績は良かったので自慢ではあった。先生と仲良く、自分のものに時間の共有が出来るのが
嬉しかったのかもしれない純情な時期であったようだ。
えのきの実で竹製鉄砲を打ち合う戦争ごっこをした。
神社は戦場である。
境内でなく神聖な建物の内と外で打ち合った。
よくも怒られなかったものよ。
神聖な神社障子のサンは大人たちの補修が間に合わなかった。
我が家の手伝いで時間がない中であったのだが、
寸暇を利用して集落単位の仲間で遊んだ。
仲間たちよ!なにしている?
怪我を包帯で優しくしてくれた。久子!ねぇちゃん!
もう一度、みんなで、たったの一日だけすご・・・そ!貧乏だったが
岩男、ツユ子の子供たる我ら7人。何故、死ぬんだ!
もう一度すご・・・そ!
手伝いのデカンの人も。
もちろん山田のモミギのカネイチさんは欠かせぬ。
後ろのおじちゃん花子オバチャンもそうだ。
マムシに食われ死んだ大利のオバチャンにも会いたい。
季節の変わり目は精神が可笑しくなる。精神科が儲かる。
どうやら真実のようである。
タバコ植えには高校生の頃の忘れぬ思い出がある。
この幸せをもって生きていきたい。
久子の影はどうも生涯ついてまわるのであろうか。
何たることか。ひねくれもんたる私の責任なのか。
それがあるか。誰が兄弟の葬式に出られぬものがあろうか。
病気さ。PTSDなのだ。
今日の読売だったか、NHKお天気キャスターの倉島厚の言葉、
「80パーセントでいい。無理しない。行動は納得してのみ・・」
自殺寸前、欝病から生還した極意を書いていた。
八十八夜。立春からかぞえて八十八日目にあたる。すぐに立夏。
瑞穂の国たる農業国家には春から夏に移る節目の日で
活動を始める特別の日。縁起のいい日
八十八夜は二十四節気以外の雑節のひとつ。雑節とは、
節分・入梅・半夏生・二百十日・土用・彼岸
と同じような季節の変化の目安とする特定の日の総称。
タバコ農家に育った私には霜よけの変わりの麦の穂の畝に
タバコの苗を植え付けをはじめる日であった。
趣味の園芸でないプロ農家たるタバコ作付けは手で穴を掘らない。
手作業ではあるが、グルッと廻して穴を先にあけて回る機械を使う。
一個ずつ移動するのだが、等間隔に畝の上の穴明けは大変だ。
背も低く機械の方が高いので途中からは大変な作業であった。
川原集落、(当時は部落の言葉であった。)はいろんな
作物を作っていた。
「八十八夜の別れ霜」というように、この頃から霜もなく安定した気候となり、茶摘み、苗代のもみまき、
蚕のはきたてなど川原集落の農家は農作業の目安とした。
「八十八夜の忘れ霜」「さつき寒」とも言い、急に気温が下がって
霜が降り、農作物や果樹に思いがけぬ被害を与えることを警戒した。
山田地域、川原部落一の働き者で大家族総出の我が家は
他の同じ農家より農作業が早い。
よって忘れ霜は実に怖かった。一年のタバコ収穫に影響する。
タバコ作付け後の深夜、何度、霜よけ作業に出動したことか。
深夜、真っ暗な中、星の瞬きの光のみでの作業である。
それも目指す作付け地はあちこちにある。
移動は、自転車か、ひたすら、走るのである。深夜に。・・
風が吹いてる間はまだいい。
風がやむと絶対に作業が必要となる。
まだ、小学生ナのである。
学校の先生!居眠り許してヨ!このような状況を知っていたの?
川原集落(当時は部落の言葉であった。)はいろんな作物を作っていた。
無事終了すると「あおんさま」のお祭りである。
神楽88番が舞われた。
もちろん春、秋に催された。剣道、相撲の大会があった。
神楽のメインは蛇斬り、である。
真剣の刀を使っての舞、・・・乱れ、高まる笛、太古、鐘。
稲わらで作り上げた2匹の大蛇を時間をかけ舞いながら切る。
頭を捕るとチョットした英雄。大人を敵に廻して必死で狙った。
家に持ち帰ると馬頭観音に知らせ、
牛、馬、ニワトリ、ヤギ、うさぎに食べ与えた。
家畜たちの、一年の無病息災を祈った。
お払い済みなので効果が?あった。
神楽は何も高千穂の専売特許ではなかった。
川原集落のあちこちには、神々が住んでいた。
父母たちの記憶では「ヤクサン馬場」もありの賑わいであったという。
香具師、店もならび、地区毎の牛馬がお参りし大層な賑わいであった
そうな。
大正期の後半頃のことであろう。
小字にヤクサン馬場が残っているはずだ。アッ!土地改良してる!
霜なくて曇る八十八夜かな 正岡子規
立春から数えて八十八日目、八十八とい字を組み合わせると米という字になることから、
川原集落とっても特別重要な日。
この日、苗代に種籾を蒔く。
「ハチヤブリ」というところがあるそうだが・・・
お供え物を盗むように食べ歩き、持ち帰るのは、
食のない頃ゆえ、実に楽しくまちどうしかった。
また、この日に摘んだ茶を飲むと、命が延びる、中風にかからない、といわれていた。
釜入り茶を全員総での作業で分業である。
摘みに行く人、釜でいる人、蒔きもやし係、釜揚げ後の作業は
竹で編んだカゴで揉む。
熱い!否!熱すぎるのでひたすら神経を集中して揉む。
物理的現象には勝てぬので手は焼けど状態。
ソリャそうであろう。茶ッ葉の水分が7〜80.90度もなっている
状態を揉むのである。
何度かその行程を繰り返しチャッパは鉄板で造られた
容器の中に収められた。
かつての日本の夏前の季節感を浮かび上がらせた。
手を使ったりおじゃみ捕りをしながら遊び、唄った。
久子の歌を聞いたことがある。
嫁にいつ他後だったか。
♪ ♪
夏も近づく八十八夜、
野にも山にも若葉が茂る。
「あれに見えるは
茶摘ぢやないか。
あかねだすきに菅の笠。」
二、♪
日和つづきの今日此の頃を、
心のどかに摘みつつ歌ふ。
「摘めよ、摘め摘め、♪
摘まねばならぬ、
摘まにや日本の茶にならぬ♪
明治45年(1912年)
『尋常小学唱歌 第三学年用』
昭和7年(1932年)『新訂尋常小学唱歌 第三学年用』
文部省唱歌 作詞作曲不詳
京都の宇治田原村の茶摘歌をベースにしているとされ、
二番目の歌詞に出てくる「日本」は、もともとは「田原」だった。
この頃の我が家の庭にはどこの家よりも多くの鯉が泳いだ。
兄弟が多いのでエッヘンと威張ってすごせた。
当節は鯉ヘルペスで肩身の狭いだろうかもしれない
♪
甍の波と雲の波 重なる波の中空を
橘かおる朝風に 高く泳ぐや鯉のぼり♪
開ける広きその口に 舟をも呑まん(のまん)様(さま)見えて
ゆたかに振う(ふるう)尾鰭(おひれ)には 物に動ぜぬ(どうぜぬ)姿あり
♪
百瀬(ももせ)の滝を登りなば たちまち竜になりぬべき
わが身に似よや男子(おのこご)と 空に躍るや鯉のぼり♪
913年(大正2年)の「尋常小学唱歌(五)」
に発表された文部省唱歌。
担任先生の恥ずかし、楽しの家庭訪問の季節でもあった。
順番を決めて集落毎の訪問を手をつないで引き連れて我が家へとつれてきた。
成績は良かったので自慢ではあった。先生と仲良く、自分のものに時間の共有が出来るのが
嬉しかったのかもしれない純情な時期であったようだ。
えのきの実で竹製鉄砲を打ち合う戦争ごっこをした。
神社は戦場である。
境内でなく神聖な建物の内と外で打ち合った。
よくも怒られなかったものよ。
神聖な神社障子のサンは大人たちの補修が間に合わなかった。
我が家の手伝いで時間がない中であったのだが、
寸暇を利用して集落単位の仲間で遊んだ。
仲間たちよ!なにしている?
怪我を包帯で優しくしてくれた。久子!ねぇちゃん!
もう一度、みんなで、たったの一日だけすご・・・そ!貧乏だったが
岩男、ツユ子の子供たる我ら7人。何故、死ぬんだ!
もう一度すご・・・そ!
手伝いのデカンの人も。
もちろん山田のモミギのカネイチさんは欠かせぬ。
後ろのおじちゃん花子オバチャンもそうだ。
マムシに食われ死んだ大利のオバチャンにも会いたい。
季節の変わり目は精神が可笑しくなる。精神科が儲かる。
どうやら真実のようである。
タバコ植えには高校生の頃の忘れぬ思い出がある。
この幸せをもって生きていきたい。
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