揺籃期

2004年5月20日
台風2号の情報のなか、明日の佐土原の・ナ・ガ・シ・マ邸の太陽光発電の工事を決めた。

国民的英雄に似通った名ゆえの回復の祈りを込めた強行!の夕方の決定であった。

契約は済んでないのにである。斎○さんと私の危なげなシナリオは、はたして上手くいくか。

もちろんお客さんの了解はとっている。・・先ほど・・(汗)
下手な予報士よりあたっている。・・

先週13日の足場工事は雨であったが、翌日から73枚のパネルを上げた。
16日の雨を振り切っての17日の末吉町の工事。

19,20は雨、中止とした市野邸である。ものの見事な天候予測。
ズバリ的中は怖いほどだ。

地球温暖化で昔より1ヶ月近くずれている。NHK倉島厚お天気キャスターとお話したいぐらいだ。エッヘン!

午後2時3,0KWの九電連係、発電所完成!
高鍋NEDO案件のご理解の議論を深める。

それ以前ギリギリ13時50分まで山口の方とzeaiの架台入荷の折衝。
誰一人このことに気を向けない。

新規の大きな販路が開けているのにまったくの力のない者のみ。
どうすればよいのかの知恵ひとつ出さない。

一体どうなっているのか分からない。
このか弱き双肩にすべての販路開拓が託されている。

一体どうすればいいのか分からない。
売上が達せず、給料が足りない。

一体どのようにすればいいのか分からない。

深夜便3時から童謡の草分け。老舗たる音羽ゆりかご会の三代目海沼実が生出演。

それも3時〜4時のはずが台風の為4時45分まで延長で儲かった!45分延長で8曲が14曲も聞けた。

童謡会の第2次の母たる、川田正子、孝子の三姉妹。
そして9歳下の美智子 が加わり、文字通リの三姉妹。

本来童謡は唱歌に対して使われる、
童謡の母はなんたって本居長世に始まる。・・・童謡の黄金時代の開拓者である。

「からす なぜ鳴くの からすは山に・・」で始まる「七つの子」である。

ほかに「赤い靴」「青い眼の人形」といった現代にも唄い継がれている童謡の作曲者である。

本居と言えばそうである。あの本居宣長の家系で、祖父も国文学者。
当然長世も将来は祖父の後を継いでの意思が動いたことであろう。

今朝の訃報の金田一京助の息子たる春彦みたいなものである
それに抗しての苦難の道の選択であった事であろう。

厳格すぎた歌詞に憂鬱そうな曲の感の従来の学校唱歌に不満を感じていた人々が童謡と呼ばれる新しい歌を作り始める。

だが、子供相手とはいえ、決して手抜きなく、鋭い芸術性をそなえたものを目指そうとする職人技を披瀝した。

大正7年に鈴木三重吉が創刊した児童雑誌「赤い鳥」。
北原白秋、西條八十ら作詞家の童謡詩に山田耕筰、成田為三らが曲をつくり童謡は始まる。

海沼実は明治42年生まれで長野県松代の出。
赤い鳥で「夕焼け小焼け」を作曲した草川信を師と仰ぎ、

23歳で東京に出、東洋音楽学校に学ぶかたわら
昭和8年に近所の子供を集めて児童合唱団を設立する。

これが65年を迎え、多くの童謡歌手を輩出した「音羽ゆりかご会」の誕生である。

この「音羽ゆりかご会」という名称は練習会場として借りていた
護国寺の所在地が今の東京都文教区の音羽だったことと海沼の師匠である草川信の作曲した名作童謡「揺籃(ゆりかご)のうた」から付けた。

昭和17年夏、川田正子、孝子姉妹が音羽ゆりかご会に参加。
この時点で三女の川田美智子はこの時はまだ生まれていない。

戦中から戦後にかけて、妹の孝子は戦後から昭和30年代にいたるまで童謡歌手として圧倒的な人気を博すことになる。

川田正子は昭和9年生まれ。
NHKの紅白歌合戦の前身での紅白音楽試合に出演。
歌った曲は「汽車ポッポ」。
「みかんの花咲く丘」「里の秋」「鐘の鳴る丘」ではなかった。

この歌は富原薫・草川信・作詞、作曲。
本居長世の作詞、作曲した「汽車ポッポ」とは別の歌である。

このとき正子が唄った「汽車ポッポ」は戦前は「兵隊さんの汽車」という題名で歌詞の内容も日の丸の旗を振って兵隊さんが乗った汽車を送りましょうという予定であった。

この歌詞のままではもちろんGHQの許可がおりないので急きょ作詞者の富原薫が現在の歌詞に書き改めた。

ちなみに司会白組は古川ロッパ。紅組は水の江滝子。

昭和22年になると変声期を迎え、高音が出しづらくなってきて、引退。
武蔵野音大の声楽科をへて子供時代よりも高い声で復活。

音羽ゆりかご会で子供たちの育成、合唱で唄ったりしていた。
昭和54年に川田三姉妹の末子・美智子がゆりかご会の代表についたのを機会に正子はゆりかご会から独立。

森の木児童合唱団を設立現在も現役である。
一番長く頑張った美智子は結婚、引退。

海沼実は長野県松代の出だが、先輩たる信州の人、中山晋平の影響があったことであろう。

出会いと草創期には因縁がある。
APAにて、毎日感じていることである。

揺籃期ゆえの苦しみ、生みの苦しみ以前の問題が山づみしている。
組織は命令系統があってこそ組織である。

APAは単なるボランテアの烏合の衆である。
トップたる司令塔の言うことを聞かない。

それで組織的行動ができるはずがない。
ドウ仕事をとり、消化するかである。

草創期の会社はどうしても、ドウ仕事をとるかに
ウエートを置くか、しかない。

分からぬものは去れ!
組織作りの途中であり、邪魔にしか過ぎぬ。

ファクターはお客様をドウ見つけるか。
単純な、それだけでいい!

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