医者は、だれのもの。
2004年8月16日脅迫めいて書かざる得ないのでしょうか。
8月1日にも赤裸々に書きました。
神は私にはお宅様ほどの能力と勉学に道にいざなう努力する勇気を授けてはくれませんでした。
貴方は選ばれし人です。
何もその能力を埋もれさす必要はありません。
わたしの再度幼少期を綴りますので、ご奮起いただけませんでしょうか。はずかしながら、この今の状況にある環境を書きます。
存在が意識を決定するというヘーゲル哲学の典型な見本みたいな人生でありました。
どうにか元気を出して天職たる仕事を再開してください。
仕事には貴賎はないはずですが、命にかかわる仕事ほど大切なものはないはずです。
ところで、私の選ぶ洋画ベスト100には必ず、「ドクトル・ジバコ」が入ります。
そして最近はドクタさんをはじめとする日記にリンクするお医者様方やそれを目指していらっしゃるかたの・岩をも砕く信念・で勉学に取り組まれる姿に落涙の連続です。
自分の努力の足りない日々を振り返ってつくずくそう想います。
そこでせめともののことと、易しき行動たる映画で自分を投影して慰めています。
さて、原作者パスチルナークはノーベル賞に選ばれながら、プロレタリア革命を否定する内容であったため受賞が出来ませんでした。
今の北朝鮮みたいなソ連邦であったがゆえです。
60年に亡くなりますが87年名誉回復がなされたばかりの不遇な一生でした。
また映画のテーマ音楽がいい。
作曲家をめざしていたフランスのモーリス・ジャールの手になる。
『アラビアのロレンス』での赤い砂のネフド砂漠をラクダが行く
シーン、『ドクトル・ジバコ』での広大な雪のシベリア。
デヴィッド・リーン監督とのコンビで映画音楽の世界を切り開いてきた。
モーリス・ジャールの旋律は演歌調の環境でしかなかった私でさえ感動で荒れた心を癒してくれた。尤もそれは社会人となってからである。
戦後の南国の山間の封建的風習が残る集落では生きるのがやっとであった。
貧乏人の子沢山の通り、長女一人のみで7人のおとこばかりの中に、
生を受けた。
明治生まれの父母の厳しき躾の中に育った。
勉学にいそしむには程遠く、生きるのに必死で家族旅行の記憶はまったくない。
日本国の時代の要請たる換金できる輸出品たる養蚕。
それさえも私には苦い記憶である。
蚕の飼育が来る4〜8月はキリストの如きで馬屋の上の藁の中に寝泊りしたからである。
小学校に上がる前から一人前の労働力であった。
牛馬を使い田畑を耕した。
尤もガソリンを使う動力の作業機械は集落中の何処にもなく、何処の農家でも、総て家畜が人間を手助けした。
家屋内に牛馬は人間とともに生活した。
どう説明すればよいのであろう。
さしずめ、時代劇映画か農耕アジア諸国の「ビルマの竪琴」にみる風景みたいなものであろう。
羽田からモノレールで浜松町に向かう時、大井競馬場で嗅ぐあの臭いが家中満ち溢れ私は極めてその環境が不快であった。
酷い時は食事時に放尿が始まる。
その長い時間に耐え生きた心地がせず、それでもお腹をすかしている
ゆえ、黙々とと食事をした。
時間がもったいないのであり、食事の楽しみなどまったくなく
生命維持のためだけの食事に過ぎなかった。
古川柳に言う
「やれことだ、馬の小便 渡し船」
人間国宝米朝師匠の演ずる30石船の場面はまだユーモアの域で明るい。
道中、今で言う旅行中ということも有り、極めて楽天的であるが連続的である日常生活ではこれは辛い。
機械化された農業での田植え機を初め、いまの巨大なトラクターとか
稲刈り機械、それをミックスした大型コンバインなど夢みたいなことである。
いっぱしの農業をする自信はあるが機械化農業は、からっきしダメで
ある。
後に耕運機なる動力機械が入ってきたが水冷式のエンジンで、
良くぞ火傷をせず過ごせたのが不思議である。
小川で牛馬を洗い農作業の疲れのご褒美を上げた。
夏の水浴びは人間ならずともそりゃ嬉しいものである。
喜びいさみ人馬一体となれるものである。
五感は足らずとも地球に生きる家族である。
学校や、遊びからかえると私の顔ほどもある大きな目の馬が牛が見つめる。泣き声で水か餌か、寝床のやり直しなのか解るようになる。
牛では男の威勢良さが出ぬ。
乗ったときの高さがまるで違う。
「風とともに去りぬ」でバトラーの愛娘が落馬で死ぬのはあたりまえで、リアリティーを感じたものである。
牛は、所詮公家の乗り物であることの知識はまったくなくとも体験で知りえていたから不思議なものだ。
このように暑い夏は水浴びをさした。
よちよち歩きから少しすぎた幼子が巨大な馬を引くときに
集落の人々から「えらいね!」と声をかけられる。
ときは貧乏を恥ず気持ちと有頂天になってる屈託した幼き身なりの
ませた大人がそこにはあった。
偽りのある世なりけり、神無月、貧乏神は身をもはなれず は「死神」の落語の六代目円生の一席。
「あお」なる名のうまに話しかけるのはどの映画であったか
わたしの日常そのものであった。
「綴りかた教室」か「にあんちゃん」なる映画であったか、はたまた
娯楽の山城新吾主演の白馬童子であったかは知らぬが、
そこまで馬には思い入れがあり、ギャンブル何でもござれの流石の
私でさえとても競馬にはかわいそうで興味が持てない。
6歳で家畜の世話をしていた。馬、2頭、牛は7〜8頭いたと想う。
今想えば、兄のお下がりのふせのあるズボンには肥後守なるナイフを常に忍ばせ緊急なる食糧確保に役立った。
学校に持参してもそうきついお咎めはない頃でもあった。
小倉で休暇中であろうと、うどん先生に見つかると飛んでこられることでしょう。まぁ〜そのときは重のやうどんで誤魔化すけど。
息子も山口で教師をやってるがとんでもないことであろう。
尤もその凶器に変わる性格を知り抜いているので
喧嘩をするときはポケットの品々は纏めて置いて
決して刃物を使う気は毛頭その気はしなかった。
それをもち、山に立ち入ればすかした腹を慰める食料の宝庫であった。
もちろん多感で初恋もある。
これほど想うにもし添われずば実も宝の持ちぐされ
悋気は女のつつしむところ疝気は男の苦しむところ
これは やはり江戸弁の歯切りのよさの志ん朝の小言幸兵衛 で聞きたい。
私は6歳で左手親指を・わらきり・で落とした。
牛馬にえさをやるときである。
縫接合で当時の医療技術でさえ、実現できていたのに医者の少なき
辺地はそれをやってくれなかった。
つぎの地元紙宮日が書く相澤病院のお父さんの時代である。
しかしこれは平成16年である。
「医師が足りない」。
県内の医療機関で悲鳴に近い声が上がっている。
これまでも医師不足が問題となっていた本県は、本年度から始まった
新医師臨床研修制度の影響で医師確保がさらに厳しくなった。
加えて国の医療制度改革で、病院経営の在り方も改革を求められている。
引き揚げ 新研修医制度が影響
04年7月28日
「医局員の数が足りない。外科医二人の派遣を中止させてほしい」。
昨年五月、西都救急病院の院長を務める大塚直純医師会会長の元を訪れた大学の助教授と医局長は切り出した。
「医師引き揚げ」の話だった。
大学へ出向いての要請は
「うちも苦しい」「出せない」。同じ回答が返ってきた。
全国公募もしたが…
8月1日にも赤裸々に書きました。
神は私にはお宅様ほどの能力と勉学に道にいざなう努力する勇気を授けてはくれませんでした。
貴方は選ばれし人です。
何もその能力を埋もれさす必要はありません。
わたしの再度幼少期を綴りますので、ご奮起いただけませんでしょうか。はずかしながら、この今の状況にある環境を書きます。
存在が意識を決定するというヘーゲル哲学の典型な見本みたいな人生でありました。
どうにか元気を出して天職たる仕事を再開してください。
仕事には貴賎はないはずですが、命にかかわる仕事ほど大切なものはないはずです。
ところで、私の選ぶ洋画ベスト100には必ず、「ドクトル・ジバコ」が入ります。
そして最近はドクタさんをはじめとする日記にリンクするお医者様方やそれを目指していらっしゃるかたの・岩をも砕く信念・で勉学に取り組まれる姿に落涙の連続です。
自分の努力の足りない日々を振り返ってつくずくそう想います。
そこでせめともののことと、易しき行動たる映画で自分を投影して慰めています。
さて、原作者パスチルナークはノーベル賞に選ばれながら、プロレタリア革命を否定する内容であったため受賞が出来ませんでした。
今の北朝鮮みたいなソ連邦であったがゆえです。
60年に亡くなりますが87年名誉回復がなされたばかりの不遇な一生でした。
また映画のテーマ音楽がいい。
作曲家をめざしていたフランスのモーリス・ジャールの手になる。
『アラビアのロレンス』での赤い砂のネフド砂漠をラクダが行く
シーン、『ドクトル・ジバコ』での広大な雪のシベリア。
デヴィッド・リーン監督とのコンビで映画音楽の世界を切り開いてきた。
モーリス・ジャールの旋律は演歌調の環境でしかなかった私でさえ感動で荒れた心を癒してくれた。尤もそれは社会人となってからである。
戦後の南国の山間の封建的風習が残る集落では生きるのがやっとであった。
貧乏人の子沢山の通り、長女一人のみで7人のおとこばかりの中に、
生を受けた。
明治生まれの父母の厳しき躾の中に育った。
勉学にいそしむには程遠く、生きるのに必死で家族旅行の記憶はまったくない。
日本国の時代の要請たる換金できる輸出品たる養蚕。
それさえも私には苦い記憶である。
蚕の飼育が来る4〜8月はキリストの如きで馬屋の上の藁の中に寝泊りしたからである。
小学校に上がる前から一人前の労働力であった。
牛馬を使い田畑を耕した。
尤もガソリンを使う動力の作業機械は集落中の何処にもなく、何処の農家でも、総て家畜が人間を手助けした。
家屋内に牛馬は人間とともに生活した。
どう説明すればよいのであろう。
さしずめ、時代劇映画か農耕アジア諸国の「ビルマの竪琴」にみる風景みたいなものであろう。
羽田からモノレールで浜松町に向かう時、大井競馬場で嗅ぐあの臭いが家中満ち溢れ私は極めてその環境が不快であった。
酷い時は食事時に放尿が始まる。
その長い時間に耐え生きた心地がせず、それでもお腹をすかしている
ゆえ、黙々とと食事をした。
時間がもったいないのであり、食事の楽しみなどまったくなく
生命維持のためだけの食事に過ぎなかった。
古川柳に言う
「やれことだ、馬の小便 渡し船」
人間国宝米朝師匠の演ずる30石船の場面はまだユーモアの域で明るい。
道中、今で言う旅行中ということも有り、極めて楽天的であるが連続的である日常生活ではこれは辛い。
機械化された農業での田植え機を初め、いまの巨大なトラクターとか
稲刈り機械、それをミックスした大型コンバインなど夢みたいなことである。
いっぱしの農業をする自信はあるが機械化農業は、からっきしダメで
ある。
後に耕運機なる動力機械が入ってきたが水冷式のエンジンで、
良くぞ火傷をせず過ごせたのが不思議である。
小川で牛馬を洗い農作業の疲れのご褒美を上げた。
夏の水浴びは人間ならずともそりゃ嬉しいものである。
喜びいさみ人馬一体となれるものである。
五感は足らずとも地球に生きる家族である。
学校や、遊びからかえると私の顔ほどもある大きな目の馬が牛が見つめる。泣き声で水か餌か、寝床のやり直しなのか解るようになる。
牛では男の威勢良さが出ぬ。
乗ったときの高さがまるで違う。
「風とともに去りぬ」でバトラーの愛娘が落馬で死ぬのはあたりまえで、リアリティーを感じたものである。
牛は、所詮公家の乗り物であることの知識はまったくなくとも体験で知りえていたから不思議なものだ。
このように暑い夏は水浴びをさした。
よちよち歩きから少しすぎた幼子が巨大な馬を引くときに
集落の人々から「えらいね!」と声をかけられる。
ときは貧乏を恥ず気持ちと有頂天になってる屈託した幼き身なりの
ませた大人がそこにはあった。
偽りのある世なりけり、神無月、貧乏神は身をもはなれず は「死神」の落語の六代目円生の一席。
「あお」なる名のうまに話しかけるのはどの映画であったか
わたしの日常そのものであった。
「綴りかた教室」か「にあんちゃん」なる映画であったか、はたまた
娯楽の山城新吾主演の白馬童子であったかは知らぬが、
そこまで馬には思い入れがあり、ギャンブル何でもござれの流石の
私でさえとても競馬にはかわいそうで興味が持てない。
6歳で家畜の世話をしていた。馬、2頭、牛は7〜8頭いたと想う。
今想えば、兄のお下がりのふせのあるズボンには肥後守なるナイフを常に忍ばせ緊急なる食糧確保に役立った。
学校に持参してもそうきついお咎めはない頃でもあった。
小倉で休暇中であろうと、うどん先生に見つかると飛んでこられることでしょう。まぁ〜そのときは重のやうどんで誤魔化すけど。
息子も山口で教師をやってるがとんでもないことであろう。
尤もその凶器に変わる性格を知り抜いているので
喧嘩をするときはポケットの品々は纏めて置いて
決して刃物を使う気は毛頭その気はしなかった。
それをもち、山に立ち入ればすかした腹を慰める食料の宝庫であった。
もちろん多感で初恋もある。
これほど想うにもし添われずば実も宝の持ちぐされ
悋気は女のつつしむところ疝気は男の苦しむところ
これは やはり江戸弁の歯切りのよさの志ん朝の小言幸兵衛 で聞きたい。
私は6歳で左手親指を・わらきり・で落とした。
牛馬にえさをやるときである。
縫接合で当時の医療技術でさえ、実現できていたのに医者の少なき
辺地はそれをやってくれなかった。
つぎの地元紙宮日が書く相澤病院のお父さんの時代である。
しかしこれは平成16年である。
「医師が足りない」。
県内の医療機関で悲鳴に近い声が上がっている。
これまでも医師不足が問題となっていた本県は、本年度から始まった
新医師臨床研修制度の影響で医師確保がさらに厳しくなった。
加えて国の医療制度改革で、病院経営の在り方も改革を求められている。
引き揚げ 新研修医制度が影響
04年7月28日
「医局員の数が足りない。外科医二人の派遣を中止させてほしい」。
昨年五月、西都救急病院の院長を務める大塚直純医師会会長の元を訪れた大学の助教授と医局長は切り出した。
「医師引き揚げ」の話だった。
大学へ出向いての要請は
「うちも苦しい」「出せない」。同じ回答が返ってきた。
全国公募もしたが…
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