このところの天候はAPAの現場のみが雨と言う憑き物に憑かれたような異変ぶりである。
憑き物に憑かれたらお祓いの儀式が必要である。
それは先祖さまにすがるのも一考である。
遠い先祖を、生をうけし郷土を偲ぶことである。
三大敵討ちたる曽我兄弟の富士の裾野の工藤祐経敵討ちの
軍旗物は喜んで読んだ。
何歳でどの読み物だったかまったくの記憶がない。
「都於郡」山田分校の図書物であるのだけは確かであろう。
まさかそのときには打たれる工藤祐経が源頼朝から日向国の地頭職を
与えられ日向の祖であることはまったく知らなかった。
「都於郡」なる分けのわからぬ読み方の地方には疑問があった。
それよりも不思議で読めない字として「児湯郡」があった。
小1以前になる前に父たる岩雄の年賀状で住所を知った。
田舎の小学一年生は[あいうえお]の46文字を小1の過程で覚えた。
宮崎県児湯郡都於郡大字山田と続くのである。
東京の兄カラの郵便の記述に認めた。
自分の意志としてあるのは雑誌の懸賞とかに応募する時とかであった。
抱っこちゃんとフラ・フープが最初のグッズものといえる。
そのフラ・フープなるプラスチックの輪ッかが列島を席巻した
最初のグッズものを懸賞で取得した。
唯一私の所有物であり、兄さえも私の許可がいった。
律令時代の支配制度の根幹は国分寺の役所を中心に行われた。
南九州の最後の砦は児湯郡である。
薩摩はまだ中央政府の配下にない独立王国であったのであろう。
その支配が緩んだ頃には荘園制度時代の発達があった。
鎌倉幕府の衰退が決定的なころに伊東氏は足利尊氏と戦い、敗れ軍門に下り、その元に使え都於郡三百町を恩賞を得た。
なぜココに都於郡入府なのか疑問はあった。
たいした広気農地はなく山間の丘陵地に過ぎない。
信長の支配以前の山城時代の特徴のみでなんら肥沃な地域でもない。
日本の最古の文書に由来を求めるしかない。
『古事記』『日本書紀』である。
『古事記』は天皇家の私文書的な記載で、天皇支配の正統性をその根底に置いている。
これに対して『日本書紀』には史実を反映した国史を記述していこうとする姿勢の違いをあげる。
ただしともに万世一系の思想を貫いており、そのために不自然な編纂になった所や、作為的な記載が多くあるのも事実である。
まあ創世記にしろヂリシャをはじめとする国づくり史の持つ民族性は荒唐無稽なもの。
自然に備える誇大妄想を含んで科学性にかける部分がある。
なぜ国分寺があったり、伊東氏が都於郡にきたのか。
この田舎の地がかっての栄華の地であったとにわかに信じがたくわからなかった。
記紀の記述の景行天皇の九州征伐を検証してみよう。
天皇は筑紫に入り、豊前国の長峡県(ながおのあがた)に行宮(かりみや)を立ててそこを京(みやこ)と名づけた。
長尾とは行橋市にあり、一帯は現在でも京都郡(みやこぐん)と呼ばれている。
天皇はさらに碩田国(おおきたこく・大分県)に向かい、土蜘蛛と呼ばれる賊に対し天皇自ら土蜘蛛退治に立ち向かう。
打猿という土蜘蛛には苦戦し、やがてこれらも討ち果たす。
天皇はさらに進めて日向国に着き、高屋宮という行宮をたてた。
高屋宮に留まった天皇は、いよいよ熊襲を討つことを命じ、
まず襲の国にいる厚鹿文(アツカヤ)、サ鹿文という熊襲征伐に策略をめぐらした。
その娘たちを欺き味方につけ、征伐することに成功した。
この間、高屋宮に6年滞在し現地の御刀媛との間に豊国別王子が誕生。
高屋宮は伊東氏の居城であった都於郡城にある。
このあたりの集落は高屋といい、いまだ存在している。
記紀に照らしてみても伊東氏はこの地「都於郡」を中心に
日向48城の支配者にならざる得なかった。
熊襲を平定した天皇は、子湯県(こゆのあがた・宮崎県子湯郡)に出かけた。
そのとき日の出の方角に向いて詠んだとされる歌の中に、
「やまとは くにのまほろば たたなづく あおがきやま
こもれる やまとしうるわし・・・」
「国しのびの歌」である。
『古事記』ではこの歌はヤマトタケルが東国征伐に出かけた帰路、能煩野(のぼの)で詠んだ歌とされている。
その後、天皇は京に帰るために筑紫の国を巡行し、日向から熊県(くまのあがた・熊本県球磨郡)に行き、熊津彦兄弟を討った。
邪馬台国時代の強力な対抗国であった狗奴国の地である。
その後水俣市付近から船で肥前地方に転進し玉名に着いてその地の土蜘蛛を成敗した。
火の国の地名説話、阿蘇の地名説話などの後、筑後の御木に着き
高田行宮を設けたのち、八女を経て浮羽(福岡県浮羽郡)に到着した。
『日本書紀』の記述はこの後19年、天皇は大和に戻られた。
天孫降臨の地である日向から出発した、
日向より発した初代神武天皇の東征。
大和・・日向古来より常に絆で向かい合えし、きずな。
国のまほろば。
飛鳥に訪れたら、駅の改札を出る前にひとつだけご注意?
お持ちの時計を1000年巻き戻して時差を合わせてください。
「キトラ古墳」の古代のロマンの絵画は剥ぎ取りに成功したので
ちかじかみれよう。飛鳥人の生活の様子。
「二上山」は どこからでも特徴のある姿。
葛城山
金剛山、
信貴山、
生駒山
「香具山」
「畝傍山」
「耳成山」
「三輪山」が反対側を囲み・・・まさに「青垣」である。
急峻な国土、山々の連なる住むには極めて厳しき狭き国土。
それを称え民族の繁栄を歌い上げたるまほろば・・
APAに立ち込める暗雲・・これを払拭しなければ未来のAPAは開けない。
明日は、延岡、と小林のパネルを完了したい。
いよいよ責任ある立場になってきた。
社会的立場さえ備わってきたので、簡単にはいかない。
やまとじうるわし。・・日向の地もそうありたい。
憑き物に憑かれたらお祓いの儀式が必要である。
それは先祖さまにすがるのも一考である。
遠い先祖を、生をうけし郷土を偲ぶことである。
三大敵討ちたる曽我兄弟の富士の裾野の工藤祐経敵討ちの
軍旗物は喜んで読んだ。
何歳でどの読み物だったかまったくの記憶がない。
「都於郡」山田分校の図書物であるのだけは確かであろう。
まさかそのときには打たれる工藤祐経が源頼朝から日向国の地頭職を
与えられ日向の祖であることはまったく知らなかった。
「都於郡」なる分けのわからぬ読み方の地方には疑問があった。
それよりも不思議で読めない字として「児湯郡」があった。
小1以前になる前に父たる岩雄の年賀状で住所を知った。
田舎の小学一年生は[あいうえお]の46文字を小1の過程で覚えた。
宮崎県児湯郡都於郡大字山田と続くのである。
東京の兄カラの郵便の記述に認めた。
自分の意志としてあるのは雑誌の懸賞とかに応募する時とかであった。
抱っこちゃんとフラ・フープが最初のグッズものといえる。
そのフラ・フープなるプラスチックの輪ッかが列島を席巻した
最初のグッズものを懸賞で取得した。
唯一私の所有物であり、兄さえも私の許可がいった。
律令時代の支配制度の根幹は国分寺の役所を中心に行われた。
南九州の最後の砦は児湯郡である。
薩摩はまだ中央政府の配下にない独立王国であったのであろう。
その支配が緩んだ頃には荘園制度時代の発達があった。
鎌倉幕府の衰退が決定的なころに伊東氏は足利尊氏と戦い、敗れ軍門に下り、その元に使え都於郡三百町を恩賞を得た。
なぜココに都於郡入府なのか疑問はあった。
たいした広気農地はなく山間の丘陵地に過ぎない。
信長の支配以前の山城時代の特徴のみでなんら肥沃な地域でもない。
日本の最古の文書に由来を求めるしかない。
『古事記』『日本書紀』である。
『古事記』は天皇家の私文書的な記載で、天皇支配の正統性をその根底に置いている。
これに対して『日本書紀』には史実を反映した国史を記述していこうとする姿勢の違いをあげる。
ただしともに万世一系の思想を貫いており、そのために不自然な編纂になった所や、作為的な記載が多くあるのも事実である。
まあ創世記にしろヂリシャをはじめとする国づくり史の持つ民族性は荒唐無稽なもの。
自然に備える誇大妄想を含んで科学性にかける部分がある。
なぜ国分寺があったり、伊東氏が都於郡にきたのか。
この田舎の地がかっての栄華の地であったとにわかに信じがたくわからなかった。
記紀の記述の景行天皇の九州征伐を検証してみよう。
天皇は筑紫に入り、豊前国の長峡県(ながおのあがた)に行宮(かりみや)を立ててそこを京(みやこ)と名づけた。
長尾とは行橋市にあり、一帯は現在でも京都郡(みやこぐん)と呼ばれている。
天皇はさらに碩田国(おおきたこく・大分県)に向かい、土蜘蛛と呼ばれる賊に対し天皇自ら土蜘蛛退治に立ち向かう。
打猿という土蜘蛛には苦戦し、やがてこれらも討ち果たす。
天皇はさらに進めて日向国に着き、高屋宮という行宮をたてた。
高屋宮に留まった天皇は、いよいよ熊襲を討つことを命じ、
まず襲の国にいる厚鹿文(アツカヤ)、サ鹿文という熊襲征伐に策略をめぐらした。
その娘たちを欺き味方につけ、征伐することに成功した。
この間、高屋宮に6年滞在し現地の御刀媛との間に豊国別王子が誕生。
高屋宮は伊東氏の居城であった都於郡城にある。
このあたりの集落は高屋といい、いまだ存在している。
記紀に照らしてみても伊東氏はこの地「都於郡」を中心に
日向48城の支配者にならざる得なかった。
熊襲を平定した天皇は、子湯県(こゆのあがた・宮崎県子湯郡)に出かけた。
そのとき日の出の方角に向いて詠んだとされる歌の中に、
「やまとは くにのまほろば たたなづく あおがきやま
こもれる やまとしうるわし・・・」
「国しのびの歌」である。
『古事記』ではこの歌はヤマトタケルが東国征伐に出かけた帰路、能煩野(のぼの)で詠んだ歌とされている。
その後、天皇は京に帰るために筑紫の国を巡行し、日向から熊県(くまのあがた・熊本県球磨郡)に行き、熊津彦兄弟を討った。
邪馬台国時代の強力な対抗国であった狗奴国の地である。
その後水俣市付近から船で肥前地方に転進し玉名に着いてその地の土蜘蛛を成敗した。
火の国の地名説話、阿蘇の地名説話などの後、筑後の御木に着き
高田行宮を設けたのち、八女を経て浮羽(福岡県浮羽郡)に到着した。
『日本書紀』の記述はこの後19年、天皇は大和に戻られた。
天孫降臨の地である日向から出発した、
日向より発した初代神武天皇の東征。
大和・・日向古来より常に絆で向かい合えし、きずな。
国のまほろば。
飛鳥に訪れたら、駅の改札を出る前にひとつだけご注意?
お持ちの時計を1000年巻き戻して時差を合わせてください。
「キトラ古墳」の古代のロマンの絵画は剥ぎ取りに成功したので
ちかじかみれよう。飛鳥人の生活の様子。
「二上山」は どこからでも特徴のある姿。
葛城山
金剛山、
信貴山、
生駒山
「香具山」
「畝傍山」
「耳成山」
「三輪山」が反対側を囲み・・・まさに「青垣」である。
急峻な国土、山々の連なる住むには極めて厳しき狭き国土。
それを称え民族の繁栄を歌い上げたるまほろば・・
APAに立ち込める暗雲・・これを払拭しなければ未来のAPAは開けない。
明日は、延岡、と小林のパネルを完了したい。
いよいよ責任ある立場になってきた。
社会的立場さえ備わってきたので、簡単にはいかない。
やまとじうるわし。・・日向の地もそうありたい。
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