秋真っ盛り。

2004年9月30日
「ホント雲ひとつない。何処を探しても雲ひとつない」
「日本晴れ」とはこの状態をいうのであろう。

「日本晴れ」は運動会の時、聞いた来賓や校長先生の言葉である。

大先輩は私の速射砲に対して常に冷徹に言葉を選んで喋られる。
会話の達人で一言が実に重い。

その方が何かはしゃいでおられる。
冒頭の言葉を何度も繰り返されるのである。

合図知を打つのに下手な私ゆえ、黙していると空を見て探される。
運転をしながらでもあり、危険このうえもない。

「今日は秋晴れで実に空が高い…」「秋はやっぱり日本晴れ」である。「天高く馬肥ゆる秋」は、秋のいい時節を言う表現。

空が澄(み渡り広々と高く、馬は肥えてたくましくなるという農耕民族たる共通の認識。

例年なら肌寒い季節であるが この暑さおそらく真夏日であったろう。
台風一過の高気圧が日本列島をすっぽり覆い高層の雲さえない

「日本晴れ」

何処までも澄んで高く見える秋の空。
秋の名句を鑑賞するにはチト早い。

古今和歌集の名句。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 
                         藤原敏行 
昨日の方。はこういっておられる。

金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日のをかに 
                        与謝野晶子

 秋晴れ」とはどんな空?気象庁の方々考え方である。

「日本晴れ」は 「気象用語ではないので、私たちは使いません」。
「日本晴れ」は、あくまで一般の人が使う言葉。

 気象庁の基準の「晴れた空」。

「快晴」見える範囲の空を十とすると、雲の量が全体の一割以下。
「晴れ」見える範囲の空を十とすると 雲の量が全体の二〜八割。

つまり、空の八割を雲が覆っていても「晴れ」となる。

私たちはどんな時に「秋晴れ」や「日本晴れ」と言うのか。
広辞苑では、「秋晴れ」を「秋のすっきり晴れ渡った空」と定義。
「日本晴れ」は、「空に一点の雲もない好天気」とある。

、十月は「秋晴れ」
気象台によると、一ミリ以上の雨が降(ふ)る日は、

九月が九・八日、
十月は六・六日。

逆に、空全体を占める一日の雲の量の平均が一・五割未満の日数は、

九月の二・一日、
十月は四・八日。
「快晴」もしくは「快晴に近い晴れ」の状態が、一年で最も
多い月といえる。

湿潤で、暖かい空気を伴った夏の太平洋高気圧は、九月に入ると南の海上に後退。

代わって、乾いた冷たい空気を伴う移動性高気圧が大陸からやって来る。

今日のように大きな移動性高気圧に日本列島がすっぽり包まれることもある。

上空に高気圧の中心があると、西日本は快晴になる。

夏は、空気中に多く含まれる水蒸気やちり、ほこりなどが太陽の光を乱反射し、空が白く見えやすい。

秋は空気が乾いているため、澄んだ青空となる。

夏や冬は同じような気圧配置が続くが、春と秋は低気圧と高気圧が交互に通過。

そのため、雨が空気の汚れを洗い流した後、乾いた空気を伴った移動性高気圧が再びやって来て、澄んだ空がみえる。

丁度台風一過の今日がそうである。
道理で大先輩でさえはしゃいでいるわけだ。

「秋と同じように空気の乾いている冬も、高気圧と低気圧が交互に来る春も、澄んで見える」

科学的には、澄んだ空は秋だけの特徴ではない。

 それでは「高い」と言われるのはなぜか。

「特に秋には、上空の高い所にできる雲がよく見える。一つの要因ではないでしょうか」

「運動会や行楽、稲刈りなどで、晴れを期待する季節。
「空を見上げる回数が特に多いからそう見えるのでは…」と推測される専門官。

秋の夕焼け鎌を研げ。幼き頃から知っていた実体験の言葉である。

西都市の上田発電所の3,OKWの発電所を完成させた。
僅か4人で一日で完成させた。

他にも電気工事等があり、この人数で遣り上げた野は凄い!
足場は台風明けゆえ今朝の早朝につけたばかり。

元請さんの担当官は切り込み砂利が運べないので
「直ちに足場を壊せ!」と安全教育など上の空。

挙句には「仕事をださんド〜」と恫喝。
してもいないのに電話の向うでガナリ立てている。

「協議どおりにしていない!」

ばかにつけるクスリ誰か下さい!

桐一葉 落ちて天下の 秋を知る。

関が原後の、滅び行く豊臣家の唯一のこった忠信 <片桐勝元>。

実力のある徳川に対してただ過去の栄光だけの
プライドのみの高い豊臣家の面々。

方広寺<京都の三十三間堂前から徒歩5分>に寄進した
鐘の碑文「国家安康君臣豊楽」は

家康の名を2分して
<国安らかに豊臣を君として子孫繁栄を楽しむ意味>だと家康を怒らせ

大阪冬の陣が起きるきっかけとなったものである。

その過程には、、両家の交渉に豊臣の代表として片桐が当たったが淀君や豊臣の仲間から裏切り者扱いをされる。

日露戦争のポーツマス条約を結び、国民的批判を受けた我が宮崎の名・外務大臣小村寿太郎と合い通じるものがある。

ニ百数十万の金を届けた月末のわが身を振り返るにつけ、虫の音に殺伐としたAPA。
この中国の漢の頃?の准南子のこの歌がピッタリである。

秋の夕暮れ鎌をとげ。
暗くなってもまだ農作業である。

あかあかと 日はつれなくも 秋の風  芭蕉

幼少の頃は不安のみで過ごした紅い光の夕暮れの時期。
田舎の家は恐ろしかった。

家の中の薄暗さは魔物のすむとこで一人で家には居れなかった。

重苦しい空気は怖い思いのみにしか記憶は働かなかった覚えがある。

多感な私は死んだ袈裟助爺、
ワカ婆さんが両手を上げ、手首を曲げて妄想の中に出るのである。

窓のうえの唯一のガラスの明り取りの夕焼けの紅さは不気味で

残照の感情がなく眺めているのは恐怖感を忘れるだけのすべであった。
大人の今感じる、もの悲しさ、大人のアニマル的な感情を「秋の風」からは感じ取ることを

知らず幼かった。

白い夕顔さえ幽霊の正体見たり枯れ尾花で恐怖の対象であった。

風呂は板塀で囲んだだけの野天の五右衛門風呂。
竹やぶが完璧な目隠しになってなく西側の羽目板が

一切に紅く染まるむこうを
村の人々が歩いているのさえ見えた初秋の夕暮れ。

井戸の中からお化けが出てきた・・・・
水を汲む釣瓶はギロチンの死刑台。

断頭台に消えるマリー・アントワネットである。

これまでの昼の残暑を思い出し、見た目の暑苦しさとうらはらの肌に触れる秋の風。

宗教がほしかった。幼いのに死をいつも考えていた
心身症の自分がいた。

悩み苦しむは宗教の課題、釈迦も立ち向かった数々の邪悪は瞑想に打ち勝ち仏陀となり得たのだ。

自らが自らを幸福になる為、
飾らず、殺生せず、うそをつかず、修行の中で、それは真理となった。

生きとし、いけるものは幸せであれ!の命題は時代に合わせた答えとなり、解脱しえて、

永遠に光を照らしている宗教たる仏教。

その象徴が床の間に祭られている。
私には先祖様の悲痛な叫び怨念にしか聞こえなかった。

死の霊の溜まり場である。
神棚には日清、日露の戦いの戦場のお守りの背嚢が飾られ

累々と横たわる日本人の魂が救いをを呼びかけていた。

一人夕暮れにいるとどこまでも深い淵に、引き込まれる。

生への不安と絶対孤独たる死への恐怖で包まれるのであ…

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