「わかば」と柳田国男
2004年10月15日日南市は・旧飫肥藩で旧市街地を残す街並みが街の一角をなし、
西の京都の名を成す。山紫水明の地でもある。
神のつくりし地形を凡人が文章などで表現する冒涜はないので
先人の名文章を借りたい。
飫肥郵便局前に特有の石に委ね記録にとって再現するとこうである。
・・・・・・
飫肥の町には12年ぶりに入った。
静かな川の音板橋を渡る大工所のウマの森まで以前も聞いたような
気がして
なつかしきし城跡の木立のマツ、スギは伐ってまた栽えた付近の山よりは大いに古くかって穴生役の技芸をつくしたかと思う
石垣の石の色には歴史の書よりもさらに透徹した懐古の味わいを漂わせている
山が近いからかまたはこのごろの季節ためか今朝もおおいに立っていたり水煙が幾重にも酒谷川の流れを蔽うている。
・・・・・・『海南小記』より。
前回の明治のとき来訪にして、大正9年1月時代を描き水郷の街を称えるすばらしい文章である。
瑞穂の国の全国一田植えの早いのが日南・西都で自慢ゲに季節の風物詩を見ていた。
毎年何日かづつの田植えの日が早まり記録は更新され「おらが国さの」自慢話にしていた。
それが微妙に毎年何日かづつ早まっているのが台風襲来の多さと比例して奇妙である今日この頃。
スポーツ界の記録更新なら、いざしらづ、自然界に挑む稲作技術がそうも進歩するはずがない。
なんてェことはない、自然界の温度が毎年温暖化の方向になってるからと考えれば不思議はない。
急激な地球環境の変化が起こってることの証左であろう。
ほとんどの食料を外国に頼る歪な構造の日本において
「米」は唯一の自国内でまかなわれている作物である。
気候に敏感な永年性の果樹はハッキリと南限北限が明確である。
ミカン・リンゴは作物名だけで生産県が大雑把理解出来よう。
それが変化が起ころうとしている。
独立行政法人・農業・生物系特定産業技術研究機構なるところの
研究成果が出た。
この調査結果では総ての都道府県で温暖化の影響が果樹農業にはあらわれている事が明らかにされた。
温暖化が農産物に与える影響を全国規模で調査したのは初めてでのことで、今後の積み上げに期待したい。
しかしながら、現状把握する必要も無いほどの加速度的変化がわかってるのでどう改善しているかが出来ない役所の限界を感ずるのは私だけであろうか。
NHK「わかば」は兵庫県と宮崎県を繋ぐ人生ドラマ。
両県の深い絆はここんとこの軽はずみに生じたのではない。
それが、薄っぺらな代表たる大宅荘一の言うところの「一億総白痴化」といわれるテレビで繋がったのだから世の中不思議なものがある。
兵庫・宮崎を繋ぐ人の先駆は 柳田国男。
兵庫県は福崎町(旧名・田原村)松岡の人。
幼時,生父が時代に適応できず家が貧しかったことや,生母と兄嫁の争いに発した長兄の離婚のため1885年ごろに一家離散を経験したことが,生涯“家の永続”に心を砕く契機となった。
よって、苗字は違うが、歌人井上通泰は三兄,国語学者松岡静雄は
次弟,日本画家松岡映丘は末弟。
茨城県で医院を開いていた長兄松岡鼎に引き取られ,東西日本の農村
民俗の違いを実感。
1891年,三兄の知己森鴎外の知遇を得,また桂園派歌人松浦萩坪のとこ ろに入門,田山花袋を知る。
1893年 一高に入学,
1895年 島崎藤村,
1896年 国木田独歩と親交をもつ
「文学界」に新体詩を発表、斬新な詩作で仲間を刺激。
「なぜに農民は貧なりや」という言葉に示されるように、
社会構造に対する鋭い疑問から、文学への傾倒を絶ち、農政学を志す
1879年, 宮崎八百吉編『抒情詩』に新体詩が収録さる。
1879年, 藤村の『若菜集』で,自らの詩才に見切りをつけ,
歌の別れ〉をする。
1901年明34 大審院判事柳田直平の養嗣となり、柳田家に入籍
自邸で始めたサロン的集会がやがて自然主義作家を輩出する
竜土会に発展,
1907年 イプセン会を主宰し日本文学史上に金字塔。
農商務省に就職,産業組合・農会の普及を担当するが,当時の農政理論の主流たる小農保護政策の本質が,農村を低賃金労働者の供給源とすることにあるのを見抜き,
農民を保護なしで自立できる中農に育成しなければ,農業は国の病 になると主張し,上司と対立,
1902年,法制局参事官に移される。
形は栄転であるが,農政の現場から外されたことへの憤懣は 1910年 刊行の講演集『時代ト農政』に満ちている。
1910年,内閣書記官記録課長を兼任,
1914年,貴族院書記官長となるが,議長徳川家達と衝突,
1919年,詰腹を切らされて官界を去り,
1920年,東京朝日新聞社客員となる。
1921年,国際連盟常設委任統治委員に就任,3期にわたってジュネーブ で活躍,
1923年 辞意を表明する。
1924年,東京朝日新聞社に論説委員として正式入社,
1930年 引退までに、389本の社説の2割近くが農政関連である 無署名ながら農政学者の面目とその民俗学の経世済民 の根源をみる。
農政官僚として自らの考えを容れられずに挫折した前後,折から自然主義作家として評判を高めていたかつての文学青年仲間の花袋や藤村と
一つ野原の畑を耕すことを拒否し
佐々木喜善から聞いた話を一字一句ゆるがせずに推敲・彫琢して
『遠野物語』として上梓,
日本列島先住民とみなした山人の存在に関心を示す。
このあと新渡戸稲造と郷土会を組織したり,南方熊楠と交流をもった,
「郷土研究」を創刊したことは民俗学への模索状況を示す,
1920年最も自由なる旅行の所産『海南小記』『雪国の春』
『秋風帖』には旅を学問の方法の主要な一つとした
その“ムラ”の把握の特徴が景観主義的限界とともによく
現れている。
1924年 新しい学問として民俗学の確立をめざし,「民族」を出す
とともに,自ら農民史研究を推進する。
その性格もあって一時孤立する。
1935年,その還暦を記念して開かれた日本民俗学講習会を機会に
民間伝承の会が結成,
ごく普通の百姓たる民俗学を標榜する。
戦時中にかけて日本人の信仰,とくに祖先崇拝の解明に
つとめる。
戦後は民俗学を現代科学たらしめんとして国語・社会科の 教科書編纂にかかわる。
さらに晩年,日本人のルーツや稲作渡来のコースに関心を抱き,1961年『海上の道』で大胆な仮説を提示する。
1962年 昭和37年心臓衰弱で逝去
その飫肥には電気申請で来たのである。
飫肥の入り口酒田川のほとりに小玉発電所はある。
午前中は○○○○急便の会長さんにお会いして、オール電化の工事の
見積依頼を受けた。
世界に羽ばたくまでになった前進のホープ・クリーニングからして
僅か何年にしての、この快挙には、県民栄誉賞を贈りましょう。
APAの取り組み次第では、飛躍の感触を得ることが出来た。
日南・飫肥のつながりが美味くいったのも午前中のこの取り組みが
あればこそであった。
ひたすら笠江発電所長さんのお陰である。
限りない輪の拡大を感じている。
夜は神戸に向われる、カ・フェリーの人を見送る。
どうも「わかば」付いてる一日であった。
幸せを呼び込むNHK「わかば」である。みてます?
ご利益ありそう、明日から見ようっと。
西の京都の名を成す。山紫水明の地でもある。
神のつくりし地形を凡人が文章などで表現する冒涜はないので
先人の名文章を借りたい。
飫肥郵便局前に特有の石に委ね記録にとって再現するとこうである。
・・・・・・
飫肥の町には12年ぶりに入った。
静かな川の音板橋を渡る大工所のウマの森まで以前も聞いたような
気がして
なつかしきし城跡の木立のマツ、スギは伐ってまた栽えた付近の山よりは大いに古くかって穴生役の技芸をつくしたかと思う
石垣の石の色には歴史の書よりもさらに透徹した懐古の味わいを漂わせている
山が近いからかまたはこのごろの季節ためか今朝もおおいに立っていたり水煙が幾重にも酒谷川の流れを蔽うている。
・・・・・・『海南小記』より。
前回の明治のとき来訪にして、大正9年1月時代を描き水郷の街を称えるすばらしい文章である。
瑞穂の国の全国一田植えの早いのが日南・西都で自慢ゲに季節の風物詩を見ていた。
毎年何日かづつの田植えの日が早まり記録は更新され「おらが国さの」自慢話にしていた。
それが微妙に毎年何日かづつ早まっているのが台風襲来の多さと比例して奇妙である今日この頃。
スポーツ界の記録更新なら、いざしらづ、自然界に挑む稲作技術がそうも進歩するはずがない。
なんてェことはない、自然界の温度が毎年温暖化の方向になってるからと考えれば不思議はない。
急激な地球環境の変化が起こってることの証左であろう。
ほとんどの食料を外国に頼る歪な構造の日本において
「米」は唯一の自国内でまかなわれている作物である。
気候に敏感な永年性の果樹はハッキリと南限北限が明確である。
ミカン・リンゴは作物名だけで生産県が大雑把理解出来よう。
それが変化が起ころうとしている。
独立行政法人・農業・生物系特定産業技術研究機構なるところの
研究成果が出た。
この調査結果では総ての都道府県で温暖化の影響が果樹農業にはあらわれている事が明らかにされた。
温暖化が農産物に与える影響を全国規模で調査したのは初めてでのことで、今後の積み上げに期待したい。
しかしながら、現状把握する必要も無いほどの加速度的変化がわかってるのでどう改善しているかが出来ない役所の限界を感ずるのは私だけであろうか。
NHK「わかば」は兵庫県と宮崎県を繋ぐ人生ドラマ。
両県の深い絆はここんとこの軽はずみに生じたのではない。
それが、薄っぺらな代表たる大宅荘一の言うところの「一億総白痴化」といわれるテレビで繋がったのだから世の中不思議なものがある。
兵庫・宮崎を繋ぐ人の先駆は 柳田国男。
兵庫県は福崎町(旧名・田原村)松岡の人。
幼時,生父が時代に適応できず家が貧しかったことや,生母と兄嫁の争いに発した長兄の離婚のため1885年ごろに一家離散を経験したことが,生涯“家の永続”に心を砕く契機となった。
よって、苗字は違うが、歌人井上通泰は三兄,国語学者松岡静雄は
次弟,日本画家松岡映丘は末弟。
茨城県で医院を開いていた長兄松岡鼎に引き取られ,東西日本の農村
民俗の違いを実感。
1891年,三兄の知己森鴎外の知遇を得,また桂園派歌人松浦萩坪のとこ ろに入門,田山花袋を知る。
1893年 一高に入学,
1895年 島崎藤村,
1896年 国木田独歩と親交をもつ
「文学界」に新体詩を発表、斬新な詩作で仲間を刺激。
「なぜに農民は貧なりや」という言葉に示されるように、
社会構造に対する鋭い疑問から、文学への傾倒を絶ち、農政学を志す
1879年, 宮崎八百吉編『抒情詩』に新体詩が収録さる。
1879年, 藤村の『若菜集』で,自らの詩才に見切りをつけ,
歌の別れ〉をする。
1901年明34 大審院判事柳田直平の養嗣となり、柳田家に入籍
自邸で始めたサロン的集会がやがて自然主義作家を輩出する
竜土会に発展,
1907年 イプセン会を主宰し日本文学史上に金字塔。
農商務省に就職,産業組合・農会の普及を担当するが,当時の農政理論の主流たる小農保護政策の本質が,農村を低賃金労働者の供給源とすることにあるのを見抜き,
農民を保護なしで自立できる中農に育成しなければ,農業は国の病 になると主張し,上司と対立,
1902年,法制局参事官に移される。
形は栄転であるが,農政の現場から外されたことへの憤懣は 1910年 刊行の講演集『時代ト農政』に満ちている。
1910年,内閣書記官記録課長を兼任,
1914年,貴族院書記官長となるが,議長徳川家達と衝突,
1919年,詰腹を切らされて官界を去り,
1920年,東京朝日新聞社客員となる。
1921年,国際連盟常設委任統治委員に就任,3期にわたってジュネーブ で活躍,
1923年 辞意を表明する。
1924年,東京朝日新聞社に論説委員として正式入社,
1930年 引退までに、389本の社説の2割近くが農政関連である 無署名ながら農政学者の面目とその民俗学の経世済民 の根源をみる。
農政官僚として自らの考えを容れられずに挫折した前後,折から自然主義作家として評判を高めていたかつての文学青年仲間の花袋や藤村と
一つ野原の畑を耕すことを拒否し
佐々木喜善から聞いた話を一字一句ゆるがせずに推敲・彫琢して
『遠野物語』として上梓,
日本列島先住民とみなした山人の存在に関心を示す。
このあと新渡戸稲造と郷土会を組織したり,南方熊楠と交流をもった,
「郷土研究」を創刊したことは民俗学への模索状況を示す,
1920年最も自由なる旅行の所産『海南小記』『雪国の春』
『秋風帖』には旅を学問の方法の主要な一つとした
その“ムラ”の把握の特徴が景観主義的限界とともによく
現れている。
1924年 新しい学問として民俗学の確立をめざし,「民族」を出す
とともに,自ら農民史研究を推進する。
その性格もあって一時孤立する。
1935年,その還暦を記念して開かれた日本民俗学講習会を機会に
民間伝承の会が結成,
ごく普通の百姓たる民俗学を標榜する。
戦時中にかけて日本人の信仰,とくに祖先崇拝の解明に
つとめる。
戦後は民俗学を現代科学たらしめんとして国語・社会科の 教科書編纂にかかわる。
さらに晩年,日本人のルーツや稲作渡来のコースに関心を抱き,1961年『海上の道』で大胆な仮説を提示する。
1962年 昭和37年心臓衰弱で逝去
その飫肥には電気申請で来たのである。
飫肥の入り口酒田川のほとりに小玉発電所はある。
午前中は○○○○急便の会長さんにお会いして、オール電化の工事の
見積依頼を受けた。
世界に羽ばたくまでになった前進のホープ・クリーニングからして
僅か何年にしての、この快挙には、県民栄誉賞を贈りましょう。
APAの取り組み次第では、飛躍の感触を得ることが出来た。
日南・飫肥のつながりが美味くいったのも午前中のこの取り組みが
あればこそであった。
ひたすら笠江発電所長さんのお陰である。
限りない輪の拡大を感じている。
夜は神戸に向われる、カ・フェリーの人を見送る。
どうも「わかば」付いてる一日であった。
幸せを呼び込むNHK「わかば」である。みてます?
ご利益ありそう、明日から見ようっと。
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