日伊に繋がる太陽光発電
2004年10月16日イタリア年というのがあるらしいがそれに因んでということもなかろうが宮崎日伊協会主催により日伊科学技術交流会が15〜16日開催された。
宮崎県立美術館のフォーラム会場には「貴金属とナノテクノロジーの開発と生活文化・芸術との接点」が主要テーマであったが
私も先般のナノテクの考え方の整理と郷里、伊東マンショに惹かれ出席した。
同時通訳が何ともおもがゆく国際会議に慣れてないのでゆっくりとした時間が流れる。
笑いを撮る場面が特に違和感を感じる。
遅れて笑うのも同じ時間の共有にしては、どうかなという感じである。
信長の頃の420年前に訪欧使節は13才の使節団・団長の伊東マンショは西都市都於郡、の生まれで8年をかけローマに使えした。
、旭化成は81年前にイタリアの化学者カザレ−博士を招聘して世界ではじめてアンモニア合成に成功した
このように宮崎とイタリアの由緒ある歴史・技術交流は私たちの知らないところで関係があった。
なにも日独伊三国同盟なるキナ臭いムッソリーニは登場しないだろうし、革命者グラムシもない時代であろうから安心である。
わが国における電気事業界、化学工業界の先駆者である、
野口 遵(のぐち したがう)は、石川の人
市役所隣りの野口記念館としてその名を残している。
1923年(大正12年)、世界で初めてカザレー式アンモニア合成法の工業化に成功し、宮崎・延岡の地に、20世紀をリードする産業基地の建設を開始して、現在の工業都市「延岡」の礎が出来た。
延岡市の初代市長である仲田又次郎氏は、翁の追懐録のなかで、
「野口 遵翁は、延岡市新興の母である」と、その偉大なる事業の
足跡を称えた。
昭和史の財閥の名に燦然と輝く人々の名に同列してる。
野口 遵
日産コンツェルン の元石油資源開発会長 鮎川義介
電力会の偉人・電力王の元東邦電力社長 松永安左エ門、
昭和電工会長 石川一郎、元伊藤忠商事会長 伊藤忠兵衛
日本化薬会長 原安三郎、
借用して記すと次のようである。
野口 遵(したがう)、工業の先駆者であり、旭化成の創立者。
明治6年金沢市に生まれ、小学校から大学まで東京に学び、明治29年、東京帝国大学電気工学科を卒業。
在学時より、国家の産業基盤を支えるものとして、水力発電に高い関心をもっており、明治39年、鹿児島県に水力発電を建設、その電力を利用して、かねてより研究を進めていたカーバイドを企業化。
さらにドイツからカーバイドを原料とした石灰窒素肥料製造技術を導入。
日本窒素肥料株式会社を設立、熊本県でカーバイドから石灰窒素、硫安にいたる一貫生産を開始した。
その後、新潟や熊本での水力発電所の建設、大阪や熊本県鏡町での工場施設などにより一応の事業基盤を確立した大正10年、翁
は欧州視察に赴き、イタリアのカザレ―博士のアンモニア合成法の特許を獲得しました。
帰国後、野口翁は、かねてより開発を進めていた五ヶ瀬川の電力を利用すべく、また、地元の強い誘致運動もあって、この延岡で
アンモニアと硫安の事業化を図ることを決定、
大正12年、生産を開始しました。これが旭化成の発祥です。
続いて、アンモニアの高度利用として「ベンベルグ」や火薬、さらには苛性ソーダやレーヨンなどの製造を始め、現在の旭化成延岡地区の基礎を築いてきました。
翁の事業意欲はとどまるところを知らず、昭和2年 大陸に進出、鴨緑江などで百数十万キロワットにおよぶ発電を行い、興南を
中心とした、肥料50万トン規模の一大コンビナートを建設しました。
しかしながら、永年の苦労がたたったのか、満州、海南島などに活躍中の昭和15年、ついに病に倒れました。そして昭和19年
1月15日、療養中の静岡県韮山において、享年72才をもって逝去されました。
多年にわたる実業界への功績に対し、昭和17年、勲一等瑞宝章が授けられています。
どうにも一般の参加者はなく私も発言したものである。
・・・・・・
思うに連れ「自転車泥棒」とか「苦い米」で心の簸だ、物悲しさは共通である。
イタリア北部のポー川流いきの水田地帯からして日本人にあうようだ。
ミニマリズムなる不必要な物は買わないも感情でよくわかる。
・・・・・・・・・
♪♪ 八と瀬のたびを 船出して 遠くローマに使えせし
海を渡りし 可憐なる 伊東マンショ名も高し
偉大なりや 伊東マンショ 嗚呼偉大なり 少年や
思わず口ずさむ、うたの披露である。
チャッカリ太陽光発電も披露しましてAPAイタリア支店が実現したら・・・さぁ〜大変だ。
仕事もちゃんとやりまして、3時間に渡り説明をした人々。
不動産の社長さんをご紹介いただいた。
宮崎県立美術館のフォーラム会場には「貴金属とナノテクノロジーの開発と生活文化・芸術との接点」が主要テーマであったが
私も先般のナノテクの考え方の整理と郷里、伊東マンショに惹かれ出席した。
同時通訳が何ともおもがゆく国際会議に慣れてないのでゆっくりとした時間が流れる。
笑いを撮る場面が特に違和感を感じる。
遅れて笑うのも同じ時間の共有にしては、どうかなという感じである。
信長の頃の420年前に訪欧使節は13才の使節団・団長の伊東マンショは西都市都於郡、の生まれで8年をかけローマに使えした。
、旭化成は81年前にイタリアの化学者カザレ−博士を招聘して世界ではじめてアンモニア合成に成功した
このように宮崎とイタリアの由緒ある歴史・技術交流は私たちの知らないところで関係があった。
なにも日独伊三国同盟なるキナ臭いムッソリーニは登場しないだろうし、革命者グラムシもない時代であろうから安心である。
わが国における電気事業界、化学工業界の先駆者である、
野口 遵(のぐち したがう)は、石川の人
市役所隣りの野口記念館としてその名を残している。
1923年(大正12年)、世界で初めてカザレー式アンモニア合成法の工業化に成功し、宮崎・延岡の地に、20世紀をリードする産業基地の建設を開始して、現在の工業都市「延岡」の礎が出来た。
延岡市の初代市長である仲田又次郎氏は、翁の追懐録のなかで、
「野口 遵翁は、延岡市新興の母である」と、その偉大なる事業の
足跡を称えた。
昭和史の財閥の名に燦然と輝く人々の名に同列してる。
野口 遵
日産コンツェルン の元石油資源開発会長 鮎川義介
電力会の偉人・電力王の元東邦電力社長 松永安左エ門、
昭和電工会長 石川一郎、元伊藤忠商事会長 伊藤忠兵衛
日本化薬会長 原安三郎、
借用して記すと次のようである。
野口 遵(したがう)、工業の先駆者であり、旭化成の創立者。
明治6年金沢市に生まれ、小学校から大学まで東京に学び、明治29年、東京帝国大学電気工学科を卒業。
在学時より、国家の産業基盤を支えるものとして、水力発電に高い関心をもっており、明治39年、鹿児島県に水力発電を建設、その電力を利用して、かねてより研究を進めていたカーバイドを企業化。
さらにドイツからカーバイドを原料とした石灰窒素肥料製造技術を導入。
日本窒素肥料株式会社を設立、熊本県でカーバイドから石灰窒素、硫安にいたる一貫生産を開始した。
その後、新潟や熊本での水力発電所の建設、大阪や熊本県鏡町での工場施設などにより一応の事業基盤を確立した大正10年、翁
は欧州視察に赴き、イタリアのカザレ―博士のアンモニア合成法の特許を獲得しました。
帰国後、野口翁は、かねてより開発を進めていた五ヶ瀬川の電力を利用すべく、また、地元の強い誘致運動もあって、この延岡で
アンモニアと硫安の事業化を図ることを決定、
大正12年、生産を開始しました。これが旭化成の発祥です。
続いて、アンモニアの高度利用として「ベンベルグ」や火薬、さらには苛性ソーダやレーヨンなどの製造を始め、現在の旭化成延岡地区の基礎を築いてきました。
翁の事業意欲はとどまるところを知らず、昭和2年 大陸に進出、鴨緑江などで百数十万キロワットにおよぶ発電を行い、興南を
中心とした、肥料50万トン規模の一大コンビナートを建設しました。
しかしながら、永年の苦労がたたったのか、満州、海南島などに活躍中の昭和15年、ついに病に倒れました。そして昭和19年
1月15日、療養中の静岡県韮山において、享年72才をもって逝去されました。
多年にわたる実業界への功績に対し、昭和17年、勲一等瑞宝章が授けられています。
どうにも一般の参加者はなく私も発言したものである。
・・・・・・
思うに連れ「自転車泥棒」とか「苦い米」で心の簸だ、物悲しさは共通である。
イタリア北部のポー川流いきの水田地帯からして日本人にあうようだ。
ミニマリズムなる不必要な物は買わないも感情でよくわかる。
・・・・・・・・・
♪♪ 八と瀬のたびを 船出して 遠くローマに使えせし
海を渡りし 可憐なる 伊東マンショ名も高し
偉大なりや 伊東マンショ 嗚呼偉大なり 少年や
思わず口ずさむ、うたの披露である。
チャッカリ太陽光発電も披露しましてAPAイタリア支店が実現したら・・・さぁ〜大変だ。
仕事もちゃんとやりまして、3時間に渡り説明をした人々。
不動産の社長さんをご紹介いただいた。
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