ヨミガエリ
2004年10月18日日本シリーズ第二戦は松坂にも死角があることがわかりほっとした。「怪物」ではなく人間のなによりもの証明。
放映料1億3000万で,TBS,フジ、テレ朝,NHKの四社が全試合最後まで放映する条件で参加。
15%の視聴率のようだが正確には明日発表されるようだ。
流石に巨人戦視聴率10%と史上最低の日テレはやらない。
NHK・BSでのメジャーの試合も36打数18安打のMVPに尤も近い男が目が離せない。
ジフィルドは6割を超えてるが打点6と10では松井がうえであろう。
きょうも3,2塁打の長打を打ち、
ボストン・レッドソックスの延長12回のサヨナラ劇のホームランがなければ松井に決定してたであろう。
どうにも不運が付きまとう賞に縁が薄い「気」があるようだ。
実に豪華なメンバーでの重責を果たしている。
勝たねば野球ではない点から言えはイチローより以上の価値がある。
?ジーター
?ロドリゲス
?ジフイルド
?松井
?ウイリアムス
?ボーサーク
?シエラ
?クラク
?カント
だったか、実に豪華メンバーに松井が光っている。
同じような出来事が浮かび上がっている。
先の12日の新聞休刊日を挟んで唐の都・長安(現西安)の興味ある記事。
西安 西北大学、遣唐使「井眞成」(699〜734)の墓誌を発表
墓誌は、34.5cm四方の石板に12行171字の墓誌銘が刻まれており
井真成が開元二十四年(736)に36歳で亡くなり
、同年2月4日に「万年県」(長安南郊)に埋葬されたとあるが、西北大学の入手前、この墓誌は西安市内の工事現場で発見されたという。
なお阿倍仲麻呂が「晁衡」という中国名を名乗っていたことからも
「井眞成」が本名であるかどうかは不明。
追贈された「尚衣奉御」の官は、『大唐六典』によれば殿中省尚衣局の長官で天子の衣服を掌る従五品の官とされる。
比較的ビッグネームでは則天武后の甥の武承嗣がこの官に就いている。
原文は次のとおりの「日本」は最初に使われた物であり、さしずめ歴史の・ロゼッタ・ストーン。
贈尚衣奉御井公墓並序
贈尚衣奉御井公墓志文并序
公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六皇上
■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
■即以其年二月四日窆于萬年縣滻水
■原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
■兮暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形既埋於異土魂庶
■歸於故郷
公 姓は井、字は眞成、國號は日本。才は天縱に稱(かな)ひ、故に能(よ)く命を遠邦に■し、騁を上國に馳せり。禮樂を蹈(ふ)み衣冠を襲ひ、束帶して朝に■すること、與(とも)に儔(なら)び難し。豈に圖(はか)らんや、學に強(つと)めて倦(おこた)らず、道を聞くこと未だ終へずして、■ 移舟に遇ひ、隙 奔駟に逢へり。開元廿二年正月■日を以て、乃ち官弟に終へり。春秋卅六。皇上 ■傷して、追崇するに典【=典礼】有り。詔して尚衣奉御を贈り、[葬令官■]、卽(すなは)ち其の年の二月四日を以て萬年縣の滻水■原に窆(はうむ)るは禮なり。
嗚呼、素車 曉に引きて丹旐 哀を行ふ。遠■を嗟(なげ)きて暮日に頹(たお)れ、窮郊に指(およ)びて夜臺に悲む。
其の辭に曰く、
乃(そ)の天の常を■し、茲(こ)の遠方なるを哀しむ。形は旣に異土に埋もれ、魂は故鄉に歸らんことを庶(ねが)ふ、と。
氣賀澤保規・明治大教授(中国史)による抄訳は以下の通り。
「姓は井、字(あざな)は真成、国は日本と号す。生まれつき優秀で、国命で遠く唐にやってきて、一生懸命努力した。
学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶりは抜きんでていた。ところが思わぬことに、急に病気になり開元22年の1月に官舎で亡くなった。36歳だった。
皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。
尚衣奉御の位を贈った。2月4日に万年県の川のほとりに埋葬した。
体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない」
井真成は阿倍仲麻呂(六九八−七七〇)とほぼ同世代になる。
阿倍仲麻呂は、盛唐の王維、白居易、李白と交わり、酒を酌み交わしては月に詩を捧げ、至悦の夜を過ごした
仲麻呂が帰国を試みた船は何度か難破した。
遭難の報が長安へ伝わったとき、李白は嘆じて有名な弔詩を書いた。
「日本の晁卿(仲麻呂のこと) 帝都を辞し 征帆一片
蓬壼(ほうこ)を遶(めぐ)る
明月帰らず 碧海に沈み 白雲愁色 蒼梧(そうご)に満つ」。
境涯の似通う阿倍仲麻呂は、また望郷の月の歌で知られる。
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出(い)でし月かも」。
空海(七七四−八三五)は二人よりさらに後に生まれたが、
当時の遣唐使船は逆風の六、七月に船出している。
日本の遠洋航海術は幼稚という以上に無知だった。
船中の糧食は糒(ほしい)(干し飯)で、生水でかみくだいて食べた 馬遼太郎著『空海の風景』。
「国号日本」現在の実物資料では最古という。
七世紀後半、天武天皇は浄御原(きよみはら)令を編纂して、
「倭」にかわる国号を「日本」とされた。
同時に「大王」ではなく「天皇」を使われた。
ここに日本が誕生した。日本とは日の出るところであり、
東の方向を指していた。太陽信仰とともに西への対抗心がある。
中国大陸を強く意識したものだったのだ。
飛鳥や奈良の日本人の強い自尊心が表れている。
鈴木靖民・国学院大教授の話 遣唐使の役割、目的などは文献では
分かっていたが、同時代の生の史料が見つかったのは初めてで、
日中交流史、日本の古代文化史を具体的に想像できる第一級の史料だ。
「井」という中国姓は現在の大阪府藤井寺市一帯を本拠とした渡来系の「井上忌寸(いみき)」という一族ではないか。
一族の中でも特に優秀で、コネもあったのだろう。
死後に贈られた、皇帝の衣服を管理する役職「尚衣奉御」は従五品上(官位)に相当するが、ほぼ同じ年齢で、ともに唐に派遣された
阿倍仲麻呂は同じころ、従五品下に昇格しており、「もう一人の阿倍仲麻呂」ともいえるだろう
遣唐使
630年から二百数十年にわたって約20回計画され、実際に渡航しなかった時もあり、数え方にも諸説ある。
8世紀以降は4隻の船に合計約500人もの人員が乗船。
最澄や空海ら多くの留学僧・留学生や技術者が同乗し、最新の大陸文化を日本に持ち帰った。
唐の衰退とともに意義が薄れ、菅原道真の建議で894年、廃止。
其の大唐国(もろこしのくに)は、法式(のり)備(そなわ)り定(さだま)れる珍(たから)の国なり。常に達(かよ)うべし」。遣隋使の学問僧や学問生として渡航し、隋の滅亡と唐の誕生を目の当たりにして帰国した人たちが、こう推古の朝廷に進言して、遣唐使は始まっている『最後の遣唐使』講談社
「旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子はぐくめ天の鶴群(たづむら)」
万葉集の歌 作者未詳、遣唐使のわが子を見送る母が詠んだという
旅人の宿りの野辺に霜が降りたら、空をゆく鶴の群れよ、私の息子をその翼で守っておくれ。「彼」も肉親の祈りを背に旅立った一人であったろう
鶴の翼にはぐくまれることなく逝ったその人も、幾夜となく、父母の面影や故郷の風景を天上の鏡に映しただろう。
今の私のように一人寂しく、故郷を偲んで。もの憂える秋である。
放映料1億3000万で,TBS,フジ、テレ朝,NHKの四社が全試合最後まで放映する条件で参加。
15%の視聴率のようだが正確には明日発表されるようだ。
流石に巨人戦視聴率10%と史上最低の日テレはやらない。
NHK・BSでのメジャーの試合も36打数18安打のMVPに尤も近い男が目が離せない。
ジフィルドは6割を超えてるが打点6と10では松井がうえであろう。
きょうも3,2塁打の長打を打ち、
ボストン・レッドソックスの延長12回のサヨナラ劇のホームランがなければ松井に決定してたであろう。
どうにも不運が付きまとう賞に縁が薄い「気」があるようだ。
実に豪華なメンバーでの重責を果たしている。
勝たねば野球ではない点から言えはイチローより以上の価値がある。
?ジーター
?ロドリゲス
?ジフイルド
?松井
?ウイリアムス
?ボーサーク
?シエラ
?クラク
?カント
だったか、実に豪華メンバーに松井が光っている。
同じような出来事が浮かび上がっている。
先の12日の新聞休刊日を挟んで唐の都・長安(現西安)の興味ある記事。
西安 西北大学、遣唐使「井眞成」(699〜734)の墓誌を発表
墓誌は、34.5cm四方の石板に12行171字の墓誌銘が刻まれており
井真成が開元二十四年(736)に36歳で亡くなり
、同年2月4日に「万年県」(長安南郊)に埋葬されたとあるが、西北大学の入手前、この墓誌は西安市内の工事現場で発見されたという。
なお阿倍仲麻呂が「晁衡」という中国名を名乗っていたことからも
「井眞成」が本名であるかどうかは不明。
追贈された「尚衣奉御」の官は、『大唐六典』によれば殿中省尚衣局の長官で天子の衣服を掌る従五品の官とされる。
比較的ビッグネームでは則天武后の甥の武承嗣がこの官に就いている。
原文は次のとおりの「日本」は最初に使われた物であり、さしずめ歴史の・ロゼッタ・ストーン。
贈尚衣奉御井公墓並序
贈尚衣奉御井公墓志文并序
公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六皇上
■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
■即以其年二月四日窆于萬年縣滻水
■原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
■兮暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形既埋於異土魂庶
■歸於故郷
公 姓は井、字は眞成、國號は日本。才は天縱に稱(かな)ひ、故に能(よ)く命を遠邦に■し、騁を上國に馳せり。禮樂を蹈(ふ)み衣冠を襲ひ、束帶して朝に■すること、與(とも)に儔(なら)び難し。豈に圖(はか)らんや、學に強(つと)めて倦(おこた)らず、道を聞くこと未だ終へずして、■ 移舟に遇ひ、隙 奔駟に逢へり。開元廿二年正月■日を以て、乃ち官弟に終へり。春秋卅六。皇上 ■傷して、追崇するに典【=典礼】有り。詔して尚衣奉御を贈り、[葬令官■]、卽(すなは)ち其の年の二月四日を以て萬年縣の滻水■原に窆(はうむ)るは禮なり。
嗚呼、素車 曉に引きて丹旐 哀を行ふ。遠■を嗟(なげ)きて暮日に頹(たお)れ、窮郊に指(およ)びて夜臺に悲む。
其の辭に曰く、
乃(そ)の天の常を■し、茲(こ)の遠方なるを哀しむ。形は旣に異土に埋もれ、魂は故鄉に歸らんことを庶(ねが)ふ、と。
氣賀澤保規・明治大教授(中国史)による抄訳は以下の通り。
「姓は井、字(あざな)は真成、国は日本と号す。生まれつき優秀で、国命で遠く唐にやってきて、一生懸命努力した。
学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶりは抜きんでていた。ところが思わぬことに、急に病気になり開元22年の1月に官舎で亡くなった。36歳だった。
皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。
尚衣奉御の位を贈った。2月4日に万年県の川のほとりに埋葬した。
体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない」
井真成は阿倍仲麻呂(六九八−七七〇)とほぼ同世代になる。
阿倍仲麻呂は、盛唐の王維、白居易、李白と交わり、酒を酌み交わしては月に詩を捧げ、至悦の夜を過ごした
仲麻呂が帰国を試みた船は何度か難破した。
遭難の報が長安へ伝わったとき、李白は嘆じて有名な弔詩を書いた。
「日本の晁卿(仲麻呂のこと) 帝都を辞し 征帆一片
蓬壼(ほうこ)を遶(めぐ)る
明月帰らず 碧海に沈み 白雲愁色 蒼梧(そうご)に満つ」。
境涯の似通う阿倍仲麻呂は、また望郷の月の歌で知られる。
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出(い)でし月かも」。
空海(七七四−八三五)は二人よりさらに後に生まれたが、
当時の遣唐使船は逆風の六、七月に船出している。
日本の遠洋航海術は幼稚という以上に無知だった。
船中の糧食は糒(ほしい)(干し飯)で、生水でかみくだいて食べた 馬遼太郎著『空海の風景』。
「国号日本」現在の実物資料では最古という。
七世紀後半、天武天皇は浄御原(きよみはら)令を編纂して、
「倭」にかわる国号を「日本」とされた。
同時に「大王」ではなく「天皇」を使われた。
ここに日本が誕生した。日本とは日の出るところであり、
東の方向を指していた。太陽信仰とともに西への対抗心がある。
中国大陸を強く意識したものだったのだ。
飛鳥や奈良の日本人の強い自尊心が表れている。
鈴木靖民・国学院大教授の話 遣唐使の役割、目的などは文献では
分かっていたが、同時代の生の史料が見つかったのは初めてで、
日中交流史、日本の古代文化史を具体的に想像できる第一級の史料だ。
「井」という中国姓は現在の大阪府藤井寺市一帯を本拠とした渡来系の「井上忌寸(いみき)」という一族ではないか。
一族の中でも特に優秀で、コネもあったのだろう。
死後に贈られた、皇帝の衣服を管理する役職「尚衣奉御」は従五品上(官位)に相当するが、ほぼ同じ年齢で、ともに唐に派遣された
阿倍仲麻呂は同じころ、従五品下に昇格しており、「もう一人の阿倍仲麻呂」ともいえるだろう
遣唐使
630年から二百数十年にわたって約20回計画され、実際に渡航しなかった時もあり、数え方にも諸説ある。
8世紀以降は4隻の船に合計約500人もの人員が乗船。
最澄や空海ら多くの留学僧・留学生や技術者が同乗し、最新の大陸文化を日本に持ち帰った。
唐の衰退とともに意義が薄れ、菅原道真の建議で894年、廃止。
其の大唐国(もろこしのくに)は、法式(のり)備(そなわ)り定(さだま)れる珍(たから)の国なり。常に達(かよ)うべし」。遣隋使の学問僧や学問生として渡航し、隋の滅亡と唐の誕生を目の当たりにして帰国した人たちが、こう推古の朝廷に進言して、遣唐使は始まっている『最後の遣唐使』講談社
「旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子はぐくめ天の鶴群(たづむら)」
万葉集の歌 作者未詳、遣唐使のわが子を見送る母が詠んだという
旅人の宿りの野辺に霜が降りたら、空をゆく鶴の群れよ、私の息子をその翼で守っておくれ。「彼」も肉親の祈りを背に旅立った一人であったろう
鶴の翼にはぐくまれることなく逝ったその人も、幾夜となく、父母の面影や故郷の風景を天上の鏡に映しただろう。
今の私のように一人寂しく、故郷を偲んで。もの憂える秋である。
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