先哲の意志

2004年10月19日
日本ほど不思議な国はない。よくも発見される物である。

一昨日の坂本竜馬の手紙に続き、日南市飫肥出身で、ポーツマスの旗の明治の外務大臣小村寿太郎の手紙が発見された

日露100年で来年はプーチンさんも来日する年にである。

兄従した小倉処平を西南戦争で失った教訓からか手紙をほとんど残さなかったといわれているのにである。

一方の当事者たる私からの取材を今日現在まで一切経ずして、記事にして無理やり事件に仕立てた罪深きブン屋集団。

よってゴロ新聞に過ぎぬ訳だが今朝の○日紙はその汚名を返上できる記事をトップ記事に掲げた。

新聞週間を声え高らかにうたう、まったくのウソの破廉恥極まりない
新聞がである。
ヤレバデキルジャン!公器の器とやら。

紙が貴重品で大事な時代には手紙は襖の下張りに使った。
よってこのようなことがおこるのかも知れない。

かって永井荷風作といわれている幻の発禁本「四畳半襖の下張り」を
雑誌・面白半分に掲載したことで、発行人・佐藤嘉尚と
編集人・野坂昭如が猥褻図書販売の咎で起訴されたことがあった。

それほど襖の下張りは日常にあった。

私なんぞは、年末とか夏の畳の虫干しで古き新聞を見つけ栃錦・若乃花以前の鏡里や千代の山の相撲記事とかをむさぼり呼んだ。

兄たる隆士次兄や、親代わりで面倒見てくれた親男大兄と喧嘩の末襖をを破いた時は、新聞紙しか出てこなかったものだ。

襖は密室の役割でかなり分厚く出来ていたものである。
これもNHK「わかば」がとりなした縁であろうか。

新聞によると同時期に活躍したジャーナリスト、政治家の徳富蘇峰に
あてた直筆手紙が、神奈川県二宮町の徳富蘇峰記念館の収蔵庫に保管されていることが十八日までに分かった。

徳富蘇峰・蘆花は渡辺民三郎とも交流があったことから、延岡にも訪れた。

民三郎は藩校亮天社から東京専門学校(現在の早稲田大学〉に進み徳富兄弟や山路愛山らともつきあい島崎藤村とも文通があった。

詩人修三は1903年(明36)その二男として生まれ、旧制延岡中学校を経て1921年(大10)に早稲田予科(後に英文科)に入学.

1924年(大一三)同人誌「椋櫚の葉」を作詞家として名を成す佐伯孝夫、横山青蛾、加藤憲治、村野三郎(村野四郎の兄)、寺崎浩らと創刊。この頃,修三は近くに住む西條八十のもとに詩を見てもらいに行ったという。

また、多くの流行歌を作った佐藤惣之助を中心に雑誌「詩之家」が創刊され、翌1926年(大15)に修三は同人として参加している。

宮崎に金丸桝一 本多、杉山ら有名な詩人が多いのはこの先輩の礎があるからであろう。

 徳富蘇峰は熊本県生まれ。「国民新聞」を創刊し、歴史家としても名を残している。日露戦争後は、国家主義を唱え、ポーツマス条約締結に尽力した小村ら政府を擁護したため、国民の批判を浴びた

昨年オープン100年を祝った日比谷公園は歴史の生き証人でもある。

日比谷公園は1903年、日本初の都市公園としてオープン。
開園面積 161,636.66平方メートル
設計は林学博士の本多静六・東京帝国大学教授が手がけた。

1924年に完成した日比谷公園内の公会堂は浅沼稲次郎殺害の生々しさを感じたものであった。70年安保闘争の頃の思い出。

04年、日露戦争の戦勝祝賀行事の会場となったが、翌年には講和反対の群衆が集まり「日比谷焼き打ち事件」の舞台に。

23年の関東大震災では野外音楽堂が倒壊、松本楼も焼失した。
第二次大戦後、米軍に接収されるなど、幾多の激動の歴史をくぐり抜けてきた。

明治38年 1月 7日 盛大に日露戦争祝勝会が開かれる
      8月 1日 日比谷公園音楽堂開堂式。軍楽隊奏楽
     9月 5日 ”屈辱的条約反対”と日比谷焼打事件で騒然

支那革命・梅屋庄吉は現在の日比谷松本楼の初代経営者
松本楼の梅屋庄吉は語り告がれるべき英傑。

小泉総理はこの人の志に学べば日中改善の掛け橋となろう。

梅屋は言う。
<人は其の心を信ずるより大なるは莫く、物を信ずるよりは小なるは莫し>と自分を戒め

孫文の志を信じ、その革命運動は<天下ノ大業ナリ>
その三民主義は<救国済民ノ経典ナリ>と信じて
<富貴在心>富や尊さは心の中にある、 梅屋が好んだ言葉。

孫文との盟約・・・それは梅屋庄吉が米相場の投機に手を出して失敗、多額の負債を背負ってアモイに逃れたあと、香港の目抜き通りで写真館を経営している時であった。

孫文の恩師で医学博士のジェームス・カントリーが庄吉の写真館に出入りしていて、2人を引き合わせた。 

運命の時は1895年。 孫文29歳、庄吉27歳。
若い2人は写真館の2階で語り合い革命の決意を熱く語る孫文に、
庄吉は財政支援を約束した。

以後、30年、庄吉は生涯をかけてこの約束に生きることになる。

帰国後、東京に活動写真の配給・制作会社<Mパテー紹介>を設立、
白瀬中尉の南極探検や辛亥革命の前後に自社カメラマンを派遣し、
ドキュメンタリーを完成。

さらに、自社など当時の活動写真会社を統合、
<日本活動写真株式会社>(日活)を作る。  

 記念碑・彫刻
昭和13年にイタリアから贈られたのがルーパ・ロマーナ像。
ローマ神話にあるオオカミに育てられた双子の兄弟の彫刻。

ほかに、米国から贈られた自由の鐘などもある。

アメリカへ贈ったポトマック河畔のサクラの返礼として贈呈されたハナミズキは米国の国花

アロヨ大統領のフィリピンは先年独立100周年を祝った。
英雄民族  ホセ・リサール とともに。

フィリピン国第一の英雄とされるホセ・リサール Jose’ Rizal は
1861年にスペイン領フィリピナスのラグーナ州カランバに生まれ

1896年12月30日にスペイン植民地政府の手によって処刑、
はや100周年。リサールは日本にも立ち寄った

明治21年国外退去で2ヶ月間日本と日本人に深く共感
東京日比谷公園に滞在祈念がある。

1896年12月30日にスペイン植民地政府の手によって処刑されてから、
はや100周年を過ぎました。リサールは日本にも立ち寄った

植民地スペイン批判で36歳で諸兄意思で小説や詩を残した。
私のはかのの十字架の上に一羽の小鳥の来るのをみたら平和の歌を歌わ
しめよ銃殺の前に妹に託した。

MI ULTIMO ADIOS わが最後の別れ

ホセ・リサール (1896) 
和訳: 永井五洋 (1998年1月)

さようなら、愛する祖国、太陽に愛された地、
東海の真珠、我らが失楽のエデン!
おまえに喜んで捧げよう、この哀しくやつれた命を。
たとえもっと輝かしく、みずみずしく、華やいだ命だったとしても、
やはりおまえに捧げよう、おまえのために捧げよう。
戦場で死にものぐるいで闘い、
ためらいも後悔もなくおまえに命を捧げる人々もいるのだ。
死ぬ場所は関係ない。殉死の糸杉、勝利の月桂樹、敗北の白ゆり、
刑場か荒れ野か、戦場か苦難か、
どれも同じだ。祖国と家族のためなのだから。

わたしは死ぬのだ。この空が色づき、
闇の黒衣をおしやり、ついに一日が始まる時に。
もし、おまえの夜明けを染めるくれないが要るのなら、
日の出のその時わが血を注ぎ、まき散らすがいい。
そしてその清新な光でわたしの血を金色に輝かせてほしい。

一途な少年の日のゆめ、
血潮たぎる青年の日のゆめ、
それはいつの日か、東海の珠玉よ、
おまえの黒い瞳に涙なく、つややかな額は凛として、
表情のくもりも、恥じらうこともない姿を見ることだった。

わが生涯のゆめ、今なお燃え立つ望み、

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