思考の停止

2004年10月26日
紫煙が私の指から消えた。
昨日の日記は紫煙ナシで書いてある祈念すべき物であった。

よって、いつもより以上に推敲が足りず軽薄の限りでお恥かしい次第である。

ところで、何かあるといつもの怨念が必ず起こるのである。
○○電機のお偉いさんより携帯。

「せきやんさん、日記はどうやったら出てくっと・・・パソコンをリニュアルしたらでてこん!」

ご愛読いただいてる大メーカーの方。
私の24時間を賭け生きてる姿を評価していただいてる。

他にも、ご評価いただいてる方々がおられる。
お陰で毎日200ヒットと有り難い日記となった。

「ヒトより頑張ってる物を示してみろ!」
初めて営業に食い込んで最後通牒で出る言葉は決まっている。

いろいろ会社説明してもダメで個人の問題となってくる。
「貴方はどのように生きてますか。本物の生き方をしていますか」

説明できる物としたら具体的に継続してるこの日記である。
継続はチカラナリ。

いかなることがあろうとも必ず書きつづけている。
APAの社会的評価を上げるためそれ以外に何の他意もない。誓ってそうである。

このようにして営業を拡大してきた。
もちろん私にそんな知恵があるはずがなく、若き工学部出身の方を含め会議後の実行者に過ぎない。

経過からしても私にしてみれば仕事の一環である。
但、多忙でも有り深夜に書き、精一杯生きてる証でもある。

ところが価値観の違いは如何ともしがたい。
待ったがかかった。

営業に関することをの悪口を書いたりしていてて、美味くいくはずがない。とのことだ。

情報公開の社会であることの認識の差が出てるに過ぎない。
かっての情報管理で経営状況を隠すことから生じる社会的事件までになることの多いこと。

ダイエーの再生機構での救済劇とあげれば枚挙にいとまがない。
かっての流通界のドンたる堤康二郎に五島啓太。

ミカドの肖像であったかバブル期以前に1年間連載され好評を博した。
ピストル堤に強盗啓太とその辣腕ぶりが褒め称えられた時代は終わり社会は変化した。

その康二郎の異母兄弟のコクドの西武とセゾン、西武百貨店を率いた堤兄弟がそれぞれ幕を引いた。

ワンマン経営が招いた結末。二人の談話に共通するのは情報公開を怠った。の反省の弁である。

堤清二は二束のわらじで流行作家の辻井隆のペンネームと両立させていた日本一多忙なる人でもあった。

例えれば東京都知事の石原慎太郎と同じである。
週刊誌の特集を拝見したことのかすかな記憶がある。そのヒトをもってしてもそうであった、

自由なる雰囲気の会社のほうが時代の要請なのである。若し社員の声が木霊する会社が伸びる。

未来派若者の物であり、何時の世も厳しき時代の荒波を切り拓いていくしかない。

年老いた物の責任である。
真実はただ一つ。生命体たるヒトは死ぬという事実だけである。
備えあれば憂いナシ、次に供えての日常の繰り返し

『年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず』(唐時代の詩人劉希夷)。自然界の繰り返しに比べ人間社会の激しい変化の表現。

祖が遊牧の大陸系民族と、自然に囲まれた島国の日本民族とには変化への対応に差があるのはDNAの違い。

ヒト・ゲノムが解読され塩基配列30億が総て理解された時の
01年6月のワシントンには米・英のトップがそろって記者会見した。

が日本のトップは呼ばれてさえいなかった。
官側の責任者和田昭充理化学研究所長兼科学研究センター所長の讒吟の言葉が羅列されている。

ゲノム敗北で無念さを語る。
ゲノムの研究の貢献度は米59パーセント、英国31パーセント、
日本6パーセントと完全に貢献度に差が出た。

木戸考充の孫にしてこの所長さんは明治の血が騒ぐのか。
DNAを持ち合わせてる悲しさゆえか。

私のDNAと似通っているのかもしれない。
一生懸命が一部のものの性で報われない。

私の場合はチェック者の存在。そのヒトの讒言。
兄たる、頼朝に打たれるときの義経の状態である。

頼朝のソバに使える梶原景時の讒言者の存在がよくわかる。
スパイモドキで楽しいだろうが所詮APAの発展の疎外者。

営業して仕事とってこい!金稼げ!と叫びたい。
APAにはチェック者を抱えるそんな余裕はない。

『日本人の意識変革には最低十年かかる』(石井久語録)

しかしバブル崩壊後十余年ようやく社会的大きな変化の兆しが感じられる。組織の見直しの社会化である。

社会事件的扱いはよくない中内ダイエーの半生にしろ創立者に付きまとう苦労の産物であった。

そういえばダイエーは秋季宮崎キャンプ中である。

老兵は消え行くのみは洋の東西を問わず存在する格言である。
全体のみとうしが聞かぬと感じたらそうすべきである。

今日もそうであった。役所たる九電が同行してるので雨の日の連係。
黒江発電所の完成・連携は大雨の中であった。

発電量は少ないので逆潮流の確認がしっかりと出来なく日射量不足の表示さえ出たりで手数が入った。

工事部隊は大雨の中ナント3ヶ所もの電機温水器、エコ・キュートの工事である。

霜降は10月23日であった。昼の車の移動にはクーラーが入ったのに朝夕は急に寒さがやってきている。

その前日旧暦9月9日は中国のお祝い事といえば、重陽節(別名、重九節)。

新暦の10月下旬にあたる旧暦の9月9日は、7つある重日節(1月1日、2月2日、3月3日、5月5日、6月6日、7月7日、9月9日)の中でも、

2つの最大の陽数が重なることから、一番重要な祭日とされている。

古くは、戦国時代の詩人、屈原の詩の中に、そして唐や宋の時代の有名な詩人の作品にも、

重陽の様子が数多く描かれていることから、人々がこの行事をいかに大切にしていたかが、伺える。
〈菊花茶〉9月の重陽節、門を開ければ菊の花」唐時代の詩人、王勃。

重陽節になると、人々は高いところに登ったり、菊の花を愛でたり、
ゴシュユ(ミカン科の植物)を髪に飾ったり、菊花酒や菊花茶を飲んだり、重陽菓子を食べたりして、この行事を楽しむ。

また、陝西省では、お嫁にいった娘が実家へ重陽菓子を食べに帰ったり、逆に、家から娘や外孫へ重陽菓子を贈ったりする風習が残っていて、「娘節」とも呼ばれている。
なんとも、うらやましい習慣…。日本の年末風景なりに似ている。

さわやかな秋風が菊の香りを運ぶ頃、菊花茶を飲んで、ゴシュユを髪に挿すと、魔よけになるといわれている。

ちなみに、高いところへ登ったり、重陽菓子を食べたりすると、どんどん出世していくのだそうだ。

「 秋風吹く中、詩人は菊花を思い、酒飲みは蟹に思いを馳せる」と言う。

「片手に蟹、片手に杯」は『世説新語』の歌という。

中国絵画でも、蟹と菊は、秋をあらわすのに一番よく描かれるモチーフ

私にはどちらもまだ無縁状態である。
ゆとりを持った営業には甚だ遠い状況である。

思考の停止状態をどう解消しようか。
解決案はない。

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