平和の原点
2004年10月31日どうにも日記が故障状態でアクセスが上手くいかず、非常手段で、他の人を伝い、辿り着いた。
裏をかいて、「してやったり!」としたり顔。
なんとも気持ちよく書いている。ほんとは怒ってます!
ブッシュの選挙がもうスグである。
この男には「してやったり!」と言わしめるわけにはいかない。
1946年6月6日ドイツの猛将軍パットンさえ欺き、連合軍のノルマンディー上陸の Dディーから60年になる。
英、米、露、独、仏の首脳が現地に揃った日にもふれた。
仏シラクのみが当時を複雑に知っているのみ。
若き独逸国の指導者シュレイダーのうな垂れる写真が印象的。
首脳の姿勢に微かな戦慄がみえ、あらためて犠牲の大きさを肝に銘じたことであろう。
10万人を超えるイラクの死者。攻撃できる戦闘機の一機も持たず、成すがママにバクダットは陥落した。
もちろん大量殺戮兵器たる核兵器は初めから存在しなかった。
世界の世論を動かすにはフセインの残虐性のみを揚げるのみで事足りた。
イランのホメイニ革命ではあれほど肝いりで支援した同じ国・同じ指導者のイラクをである。もちろん指導者はフセイン。
オイルまみれのブッシュにしては9.11さえどうにも仕組まれてる匂いがすることも私の日記で触れてきた。
この時期にイラクが報道されている。選挙前だ。何かあるたびに政治的に利用されよう。
私共は連合軍の一員として、連合軍兵隊を送ってることを片時も忘れてはならぬ。
我が国は戦争をしている最中なのである。!!
情報が錯綜してる首ナシ死体が示してることでそれは証明されている。
新潟地震もあり、この国特有での情報操作がなされてるに過ぎない。
教育者に総てを求めるのは酷であるが次世代にかけるしか平和の歴史は守れない。太陽光発電にしたって・・そうだ!。
私の日記愛読者の中に自由闊達、純真無垢の先生がおられる。
山口の息子の仕事振りを写したく不純な動機で無断で最初は読み始めてみた
東に西にトリニータを無心で追う姿勢がいい。聖職の気負いなく、身近にして生活に根ざした平和の象徴たる日常である。もちろん日教組員である。
最近お悩みが多いようだが28日のことで主幹制度だけでない教育現場の厳しさががわかってきた
東京都教育委員たる元名人米長邦雄は28日の園遊会で天皇発言をさせ、波紋を呼んでいる
新聞を総合すると概ね次のようなやり取りのようだ
「日本中の学校で国旗を揚げて、国歌を斉唱させるのが私の仕事でございます」
「やはり、強制になるという考え方でないことが望ましいですね」
「はい、もちろんでございます」
今、日本の教育現場では君が代日の丸は強制されているようだ。
都教委は式典での国旗掲揚と君が代斉唱を徹底するよう通達を出し、これに従わなかった教職員238人が地方公務員法に基づき戒告などの懲戒処分にした。
宮崎の代表たる中山文科相のコメント
「強制ということではなく、喜んで自発的に掲揚したり斉唱したりするありさまが好ましいということをお述べになったのではないかと考えている」
処分していることについて
「思想、良心は内心にとどまる限りは絶対保障されなければならない」
「外部的行為に現れた場合、一定の制約を受け、校長が教職員に対して本来行うべき職務を命ずるのは、思想、良心の自由を侵すものにはならない」
宮内庁のコメント
「国旗掲揚や国歌斉唱は、強制でなく、自発的に喜んで行うのが好ましいあり方、という意味だと思う」
「国旗・国歌法が そもそも成立当時の政府見解が、強制しようとする趣旨でない」
「(天皇発言は)具体的な行政施策の是非を論じたものではない。都が行っていることの是非は抜きにして、皆が喜んで国歌斉唱などをやるというのが好ましいということ。やらない人についてどうするかは施策の話になる」
都教委・教育情報課のコメント
「米長氏は一個人として招待されたもので、教育委員会を代表して意見を述べたものではないので委員会として特にコメントはしない。」
天皇陛下は国家国旗の強制が少し行き過ぎていると考えているのではと解釈するのが、それこそ「会話」から自然だと思える。
ところが、発言が天皇の発言として問題がないか、が一番最初に議論されなくてはいけないことらしい。
「自然に」を強制する矛盾はオチャノコサイサイ。
うどんさん先生を苦しめないでほしい。都教育委員さん。
明るくなきゃァ島国根性は克服できずグローバル化なる経済政策の担い手は育たないってば〜
小豆島の坪井栄の「24の瞳」を彷彿するが如き環境である。
時代の背景が違うだけである。
その当時珍しき自転車で分教所に通う大石先生が如きである。
トリニータを追っかける先生の如き屈託のない明るさである。
分教場は小豆島の南端、深い入江に突き出た田浦岬の突端にあった。
44年頃に廃校になったようである。
延岡市の須美江港から沖に浮かぶ島野浦小の瑞道の向こうの分校の位置によく似ている。
ちなみに私の母校たる都於郡山田分校は今だ授業を続けてるがそんなところもあるのでより身近である。
「昭和三年四月四日、農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女先生が赴任してきた」。
新聞配達で買った旺文社文庫で読んだ。感動を共有してほしくミッチャンにあげたはずだが、よく覚えてはいない。
記憶は視覚が一番いい。木下恵介監督、高峰秀子主演の映画化で知ってるが学校映画であったのであろう。みな泣いた。
それがどうにも記憶の混濁である。この頃いい映画を見過ぎた。
学校を全員で休み三財の岩崎の映画館まで歩いていった。
一学年250名ぐらい在校しており、距離10KM以上もあった。
この頃の橋は木製の材料で橋が壊れていて素足で浅瀬を渡っての行軍さえあった。
『綴方教室』(山本嘉次郎監督、1938)、『路傍の石』(田坂具隆監督、1938)、『次郎物語』(原作下村湖人 清水宏監督 1955 )
『にあんちゃん』、(今村昌平監督)
戦前と戦後と制作年月さえ確かでないほど。
山城新吾の白馬童子や風小僧のほうが楽しく、民主化に逆行する硬派の軍国少年であった。
白黒の最後の画面を鮮烈に記憶している。淀川定治や高野悦子の記憶何処ではない。
"おなご"先生と十二人の教え子の心のふれあいが描かれ、貧しい暮しや戦争の悲惨さ。
詩情ゆたかなこんな場面も時代の流れで暗転する。貧しさゆえに女の子は奉公に、男の子たちは兵隊にとられる。
大石先生もまた、夫の戦死、娘の死と荒っぽい時代の波に翻ろうされることになる。
戦後の既に先生を止めてたが、慰安会が開かれる。
出席したのは戦傷で失明した岡田磯吉ら五人。五人いた男の子のうち3人は戦死、女の子も一人は亡くなり、一人の消息はわからない。
戦争をはさんだ二十年、二十四の瞳は十の瞳になってしまった。
壺井栄1899−1967 は岬から五キロほど離れた港町・坂手の樽職人の五女、十人の兄弟姉妹と、両親がひきとった二人の孤児の中で育ったとある。
私も7人の兄弟祖父母に、デカンなる食い扶持を求める青年方も含め随分と似通った環境で育った。
小説は佐多稲子のすすめでかかれ、十二人を分教場の子供たちに置き換え、妹シンが代用教員をしていた岬の学校が舞台になった
昭和26年、家庭雑誌に連載、昭和29年映画化されたもの。
郷土の先輩たる黒木監督が覚醒させてくれた。
泊で夕方降りてきた工事部隊。APAの天孫降臨。稼ぎ頭
裏をかいて、「してやったり!」としたり顔。
なんとも気持ちよく書いている。ほんとは怒ってます!
ブッシュの選挙がもうスグである。
この男には「してやったり!」と言わしめるわけにはいかない。
1946年6月6日ドイツの猛将軍パットンさえ欺き、連合軍のノルマンディー上陸の Dディーから60年になる。
英、米、露、独、仏の首脳が現地に揃った日にもふれた。
仏シラクのみが当時を複雑に知っているのみ。
若き独逸国の指導者シュレイダーのうな垂れる写真が印象的。
首脳の姿勢に微かな戦慄がみえ、あらためて犠牲の大きさを肝に銘じたことであろう。
10万人を超えるイラクの死者。攻撃できる戦闘機の一機も持たず、成すがママにバクダットは陥落した。
もちろん大量殺戮兵器たる核兵器は初めから存在しなかった。
世界の世論を動かすにはフセインの残虐性のみを揚げるのみで事足りた。
イランのホメイニ革命ではあれほど肝いりで支援した同じ国・同じ指導者のイラクをである。もちろん指導者はフセイン。
オイルまみれのブッシュにしては9.11さえどうにも仕組まれてる匂いがすることも私の日記で触れてきた。
この時期にイラクが報道されている。選挙前だ。何かあるたびに政治的に利用されよう。
私共は連合軍の一員として、連合軍兵隊を送ってることを片時も忘れてはならぬ。
我が国は戦争をしている最中なのである。!!
情報が錯綜してる首ナシ死体が示してることでそれは証明されている。
新潟地震もあり、この国特有での情報操作がなされてるに過ぎない。
教育者に総てを求めるのは酷であるが次世代にかけるしか平和の歴史は守れない。太陽光発電にしたって・・そうだ!。
私の日記愛読者の中に自由闊達、純真無垢の先生がおられる。
山口の息子の仕事振りを写したく不純な動機で無断で最初は読み始めてみた
東に西にトリニータを無心で追う姿勢がいい。聖職の気負いなく、身近にして生活に根ざした平和の象徴たる日常である。もちろん日教組員である。
最近お悩みが多いようだが28日のことで主幹制度だけでない教育現場の厳しさががわかってきた
東京都教育委員たる元名人米長邦雄は28日の園遊会で天皇発言をさせ、波紋を呼んでいる
新聞を総合すると概ね次のようなやり取りのようだ
「日本中の学校で国旗を揚げて、国歌を斉唱させるのが私の仕事でございます」
「やはり、強制になるという考え方でないことが望ましいですね」
「はい、もちろんでございます」
今、日本の教育現場では君が代日の丸は強制されているようだ。
都教委は式典での国旗掲揚と君が代斉唱を徹底するよう通達を出し、これに従わなかった教職員238人が地方公務員法に基づき戒告などの懲戒処分にした。
宮崎の代表たる中山文科相のコメント
「強制ということではなく、喜んで自発的に掲揚したり斉唱したりするありさまが好ましいということをお述べになったのではないかと考えている」
処分していることについて
「思想、良心は内心にとどまる限りは絶対保障されなければならない」
「外部的行為に現れた場合、一定の制約を受け、校長が教職員に対して本来行うべき職務を命ずるのは、思想、良心の自由を侵すものにはならない」
宮内庁のコメント
「国旗掲揚や国歌斉唱は、強制でなく、自発的に喜んで行うのが好ましいあり方、という意味だと思う」
「国旗・国歌法が そもそも成立当時の政府見解が、強制しようとする趣旨でない」
「(天皇発言は)具体的な行政施策の是非を論じたものではない。都が行っていることの是非は抜きにして、皆が喜んで国歌斉唱などをやるというのが好ましいということ。やらない人についてどうするかは施策の話になる」
都教委・教育情報課のコメント
「米長氏は一個人として招待されたもので、教育委員会を代表して意見を述べたものではないので委員会として特にコメントはしない。」
天皇陛下は国家国旗の強制が少し行き過ぎていると考えているのではと解釈するのが、それこそ「会話」から自然だと思える。
ところが、発言が天皇の発言として問題がないか、が一番最初に議論されなくてはいけないことらしい。
「自然に」を強制する矛盾はオチャノコサイサイ。
うどんさん先生を苦しめないでほしい。都教育委員さん。
明るくなきゃァ島国根性は克服できずグローバル化なる経済政策の担い手は育たないってば〜
小豆島の坪井栄の「24の瞳」を彷彿するが如き環境である。
時代の背景が違うだけである。
その当時珍しき自転車で分教所に通う大石先生が如きである。
トリニータを追っかける先生の如き屈託のない明るさである。
分教場は小豆島の南端、深い入江に突き出た田浦岬の突端にあった。
44年頃に廃校になったようである。
延岡市の須美江港から沖に浮かぶ島野浦小の瑞道の向こうの分校の位置によく似ている。
ちなみに私の母校たる都於郡山田分校は今だ授業を続けてるがそんなところもあるのでより身近である。
「昭和三年四月四日、農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女先生が赴任してきた」。
新聞配達で買った旺文社文庫で読んだ。感動を共有してほしくミッチャンにあげたはずだが、よく覚えてはいない。
記憶は視覚が一番いい。木下恵介監督、高峰秀子主演の映画化で知ってるが学校映画であったのであろう。みな泣いた。
それがどうにも記憶の混濁である。この頃いい映画を見過ぎた。
学校を全員で休み三財の岩崎の映画館まで歩いていった。
一学年250名ぐらい在校しており、距離10KM以上もあった。
この頃の橋は木製の材料で橋が壊れていて素足で浅瀬を渡っての行軍さえあった。
『綴方教室』(山本嘉次郎監督、1938)、『路傍の石』(田坂具隆監督、1938)、『次郎物語』(原作下村湖人 清水宏監督 1955 )
『にあんちゃん』、(今村昌平監督)
戦前と戦後と制作年月さえ確かでないほど。
山城新吾の白馬童子や風小僧のほうが楽しく、民主化に逆行する硬派の軍国少年であった。
白黒の最後の画面を鮮烈に記憶している。淀川定治や高野悦子の記憶何処ではない。
"おなご"先生と十二人の教え子の心のふれあいが描かれ、貧しい暮しや戦争の悲惨さ。
詩情ゆたかなこんな場面も時代の流れで暗転する。貧しさゆえに女の子は奉公に、男の子たちは兵隊にとられる。
大石先生もまた、夫の戦死、娘の死と荒っぽい時代の波に翻ろうされることになる。
戦後の既に先生を止めてたが、慰安会が開かれる。
出席したのは戦傷で失明した岡田磯吉ら五人。五人いた男の子のうち3人は戦死、女の子も一人は亡くなり、一人の消息はわからない。
戦争をはさんだ二十年、二十四の瞳は十の瞳になってしまった。
壺井栄1899−1967 は岬から五キロほど離れた港町・坂手の樽職人の五女、十人の兄弟姉妹と、両親がひきとった二人の孤児の中で育ったとある。
私も7人の兄弟祖父母に、デカンなる食い扶持を求める青年方も含め随分と似通った環境で育った。
小説は佐多稲子のすすめでかかれ、十二人を分教場の子供たちに置き換え、妹シンが代用教員をしていた岬の学校が舞台になった
昭和26年、家庭雑誌に連載、昭和29年映画化されたもの。
郷土の先輩たる黒木監督が覚醒させてくれた。
泊で夕方降りてきた工事部隊。APAの天孫降臨。稼ぎ頭
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