山の文化?
2004年12月21日 つづき・・で〜す
ところで
鞍馬天狗」(大正13年)
「赤穂浪士」(昭和2年)
「ドレフュス事件」
「パリ燃ゆ」
「天皇の世紀」
「帰郷」(昭和24年)
の著者長谷寺の裏に住んでいたので大仏次郎を名乗った。材木座由比ガ浜稲村ヶ崎の鎌倉文化人
。岩波の映画は日曜日夜のNHK12チャンネルの世界名画劇場で私の映画鑑賞の世界の殆どをしめている。
その支配人は発足の日より高野悦子が務めている。
黎明期の映画人、川喜多かしこご夫妻のご尽力のたまものであろう。
1968年2月9日 岩波ホール・ホール開き(232席)には大内兵衛氏、野上彌生子氏の祝辞、山本安英氏による朗読、近藤乾三氏の舞囃子で幕を開ける。とあるが
向坂逸郎・大内兵衛は共産党を勝る科学的社会主義の
当代一の理論家。
70年安保時の社会党の活発な議論は向坂逸郎・大内兵衛の社会主義協会を抜いては語れない。
私も大内兵衛宅の稲村ヶ崎には訪ねたことがある。
「社会主義」の月刊誌には稲村ヶ崎知識人も加わった。
白い表紙に横真一文字で社会主義 知の塊の月刊誌
大仏次郎はパリの紹介等の名随筆でこの月刊誌の高級感に
花を添えた。
小牧近江はパリ大に学び大正8年に帰国アンリ・バルビュスの反戦運動たる「クラルテ」・「光」を日本に最初に紹介した
また第3インターを最初に紹介した。
労働者文学の嚆矢「種まく人」の秋田版さえ発行し続けた。小牧近江
山梨美術館や岩波社章を飾ることでいまでも偲べる
秋田の地では県議の故小幡屋政治らが種まく人顕著会で先哲の偉業を偲び守っておられた いただいた画集がもう一度見たいものだ。
近江谷左馬の輔、田中慎一郎北九大学長先生もお元気であろうか。
稲村ヶ崎・・・鞍馬天狗の大仏次郎宅やその頃の私の限界での資本の走具たる川端康成邸もあり鎌倉文化人をなしていた土地
わが日向の見聞録の大仏次郎
「神国日本」に「一本の白い道」として作品となった
昭和9年10月別府より一直線に青島まできてそれから高千穂まで走った。国府、田中純が同行した。
70年を経て私は今日たどってみた。それは一本の白き道であった。
大仏次郎がハンドルを握った道である。
かれのドライブの最中には子牛さえ道路に歓迎者として現れたが今わそれはない。
私どもの幼きころはよくバスを止める使者としてヒンズー教の国のごとき呈をなしていた。
時間がゆっくりと流れていた。
自然の姿そのものの如くに。自然あたりはすべてが山
落ち葉の季節。
山が教えてくれるものこそ本物の文化やも知れない。
木そのものが生命そのものであるからだ、
葉っぱ一枚に土に返っていくまでに生命の行方がある
水をろ過し、朽ち、川を下りプランクトンで魚類を栄えさせ、
生々流転生命そのものである。
山が荒れれば自然界すべてが荒れる。
山を見ればその国がわかる。
無償の・・経済性の・・田舎の代名詞たる山。
これからはCO2環境税の時代からは評価は変わろう。
生命の根源的問題である。
きょうは昼が一番短い冬至なそうな
厳格には陽のいりは毎日秒単位で遅くなっており、
日の出が遅いからのようである。
夕方山に向かい深夜に帰ってきた。
朝日新聞を読んでたら、私のことである。
声高に冬至の山を出できたり。
作者は今月亡くなった鈴木六林男さん
教科書で「冬至」を覚える前に家庭で
「トウジだからカボチャを食べユズ湯に入る」と教えられた。
今もカボチャとユズは冬至となれば定番商品だ。
昴天文台にも弁当にカボチャの煮つけを加えての差し入れであったが気づいていただいてたのかどうか。
冬至は湯治だからユズ湯の語呂合わせ。
日向以外を見ると面白い。
「冬至に“ン”が二つ付くものを7種食べるといい」は京都。
ナンキン(カボチャ)、ニンジン、レンコン、ギンナン、キンカン、カンテン、ウンドン(うどん)ナンカ無理ないうま過ぎる語呂合わせ。
古都の知恵に勝てるはずはない。
きょう財務原案 一般歳出0.7%減、47兆2829億円 3年ぶり「緊縮型」
かっての語呂合わせを聞かないが青色吐息の余裕がないと
そうなるのか。
金欠病であったが、甲○さんに助けてもらった、
武士は食わねど・・
『人生、粋に 感ずる』
男にとって大切なものをあげるとその人の生き様が分かろう。
山また山を夜通し走り弁当を届けただけと言う壮大なる無駄
童心とゆるぎない信念、男の本懐である。
ポリシーも文化であろう。
まもらねば苦しくとも。
朽ち果てていくまで
山は生き様から、それを教えてくれる。
ところで
鞍馬天狗」(大正13年)
「赤穂浪士」(昭和2年)
「ドレフュス事件」
「パリ燃ゆ」
「天皇の世紀」
「帰郷」(昭和24年)
の著者長谷寺の裏に住んでいたので大仏次郎を名乗った。材木座由比ガ浜稲村ヶ崎の鎌倉文化人
。岩波の映画は日曜日夜のNHK12チャンネルの世界名画劇場で私の映画鑑賞の世界の殆どをしめている。
その支配人は発足の日より高野悦子が務めている。
黎明期の映画人、川喜多かしこご夫妻のご尽力のたまものであろう。
1968年2月9日 岩波ホール・ホール開き(232席)には大内兵衛氏、野上彌生子氏の祝辞、山本安英氏による朗読、近藤乾三氏の舞囃子で幕を開ける。とあるが
向坂逸郎・大内兵衛は共産党を勝る科学的社会主義の
当代一の理論家。
70年安保時の社会党の活発な議論は向坂逸郎・大内兵衛の社会主義協会を抜いては語れない。
私も大内兵衛宅の稲村ヶ崎には訪ねたことがある。
「社会主義」の月刊誌には稲村ヶ崎知識人も加わった。
白い表紙に横真一文字で社会主義 知の塊の月刊誌
大仏次郎はパリの紹介等の名随筆でこの月刊誌の高級感に
花を添えた。
小牧近江はパリ大に学び大正8年に帰国アンリ・バルビュスの反戦運動たる「クラルテ」・「光」を日本に最初に紹介した
また第3インターを最初に紹介した。
労働者文学の嚆矢「種まく人」の秋田版さえ発行し続けた。小牧近江
山梨美術館や岩波社章を飾ることでいまでも偲べる
秋田の地では県議の故小幡屋政治らが種まく人顕著会で先哲の偉業を偲び守っておられた いただいた画集がもう一度見たいものだ。
近江谷左馬の輔、田中慎一郎北九大学長先生もお元気であろうか。
稲村ヶ崎・・・鞍馬天狗の大仏次郎宅やその頃の私の限界での資本の走具たる川端康成邸もあり鎌倉文化人をなしていた土地
わが日向の見聞録の大仏次郎
「神国日本」に「一本の白い道」として作品となった
昭和9年10月別府より一直線に青島まできてそれから高千穂まで走った。国府、田中純が同行した。
70年を経て私は今日たどってみた。それは一本の白き道であった。
大仏次郎がハンドルを握った道である。
かれのドライブの最中には子牛さえ道路に歓迎者として現れたが今わそれはない。
私どもの幼きころはよくバスを止める使者としてヒンズー教の国のごとき呈をなしていた。
時間がゆっくりと流れていた。
自然の姿そのものの如くに。自然あたりはすべてが山
落ち葉の季節。
山が教えてくれるものこそ本物の文化やも知れない。
木そのものが生命そのものであるからだ、
葉っぱ一枚に土に返っていくまでに生命の行方がある
水をろ過し、朽ち、川を下りプランクトンで魚類を栄えさせ、
生々流転生命そのものである。
山が荒れれば自然界すべてが荒れる。
山を見ればその国がわかる。
無償の・・経済性の・・田舎の代名詞たる山。
これからはCO2環境税の時代からは評価は変わろう。
生命の根源的問題である。
きょうは昼が一番短い冬至なそうな
厳格には陽のいりは毎日秒単位で遅くなっており、
日の出が遅いからのようである。
夕方山に向かい深夜に帰ってきた。
朝日新聞を読んでたら、私のことである。
声高に冬至の山を出できたり。
作者は今月亡くなった鈴木六林男さん
教科書で「冬至」を覚える前に家庭で
「トウジだからカボチャを食べユズ湯に入る」と教えられた。
今もカボチャとユズは冬至となれば定番商品だ。
昴天文台にも弁当にカボチャの煮つけを加えての差し入れであったが気づいていただいてたのかどうか。
冬至は湯治だからユズ湯の語呂合わせ。
日向以外を見ると面白い。
「冬至に“ン”が二つ付くものを7種食べるといい」は京都。
ナンキン(カボチャ)、ニンジン、レンコン、ギンナン、キンカン、カンテン、ウンドン(うどん)ナンカ無理ないうま過ぎる語呂合わせ。
古都の知恵に勝てるはずはない。
きょう財務原案 一般歳出0.7%減、47兆2829億円 3年ぶり「緊縮型」
かっての語呂合わせを聞かないが青色吐息の余裕がないと
そうなるのか。
金欠病であったが、甲○さんに助けてもらった、
武士は食わねど・・
『人生、粋に 感ずる』
男にとって大切なものをあげるとその人の生き様が分かろう。
山また山を夜通し走り弁当を届けただけと言う壮大なる無駄
童心とゆるぎない信念、男の本懐である。
ポリシーも文化であろう。
まもらねば苦しくとも。
朽ち果てていくまで
山は生き様から、それを教えてくれる。
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