大正ロマン

2004年12月25日
どうにも暗き年末であるが、世界的閉塞の時代に日本だけが輝けるはずはない。「災」の一年であった。

その一切の責任は地球の為政者で征服者の責任に帰する。
自らが生み出した大量生産・大量消費の経済の負が地球環境を脅かしこの暖冬で誰しもお気づきのはずだ。

ところが世界環境会議はボイコットしたまま。
ほしい石油産出国のイラクは大儀をかなぐり捨てて侵略し支配したままである。

何が正義で何が悪なのかテロリストの冠名詞で善悪が分けられようとの乱暴な時代のメークマールがまかり通っている混沌として時代である。

わが国は守り抜いてきた理想をかなぐり捨て、わが軍をついに国外に派遣するまでになった。
しかるに来年度の国家予算は国内総生産(GDP)より累積国債総額が超過する経済政策である。

財政のほぼ半分は国債という借金である。
文化不毛の国は幻想が現実政策である。

黎明期の時代にヒントをもとめ再出発ぱつを図るしかない。

最初にわが国が輝いて時代は関東大震災までの大正時代である。
それは大正デモクラシーの波の中ではぐくまれた、

大衆の力の自覚は個人の自覚で自分で生き抜くいう点で、
明治から太平洋戦争の敗戦までの歴史の中で異彩を放っている。

政治的は浮き足立つほど輝いていた。
それは日清、日露、第一次世界大戦の勝利とそれによる国際意識の形成があった

今日の国連常任理事国復帰を前に国民には、なしのつぶてで沸かないのとは大違いである。

それはまた内面を見つめる文芸へも目が向いてきた。
人間主義を唱え新天地日向での「新しき村」を実現し県内での公演は多くの活力を与えた。

これら武者小路実篤や志賀直哉ら白樺派による楽天的な個人主義
、それに大きく影響を受けた自由主義教育運動

世界的にはレーニンらによるソビエト連邦の成立に刺激されたマルクスやエンゲルスに共産主義思想の流布といった、共産主義思想の勃興とその国家の樹立。

今の米国一極主義の無風と違った風がふいていた、
日本が大衆レベルで国際化する時代であった。

その中で花開いたのが浅草オペラであった。
大正時代の西洋音楽の大衆化に貢献した、鈴木三重吉らの
「赤い鳥」運動と、佐々紅華らを中心とした浅草オペラが喚起で迎えられた。

殊に、浅草オペラはその後のシミキンこと清水金一、や二村定一、
榎本健一らに代表されるボードビル・ショーをうんだ、

昭和ジャズ、浅草オペラの手法をほぼ原型のまま踏襲している
宝塚歌劇へと発展する。
藤原義江に代表される本格的オペラ運動の原点でもある。

時代の大転換期とは不思議なもので、転換期を担う人々が、まるで
神の使わせし使者のように、救世主として出現してくる。

これらの人々は、担わされた歴史的使命は露とも知らず、自由意志によって当然活動する

日本の歴史に名をとどめた人々のストーリーがそこにあることに気がつく。
遠くは義経であり、新田義貞、天草四郎、西郷隆盛らの役割である。

その意味で言えば、大正時代とは大衆が自身の力を自覚した時期でありる。

短期間で大衆が西洋文化を消化吸収し、日本的西洋文化たる和洋折衷文化を花開かせたときでもあった。

では、浅草オペラの勃興から衰退までを佐々紅華を中心に
振り返ってみよう。

作曲家佐々紅華は第3回レコード大賞受賞「君恋し」や
「祇園小唄」、プロ野球のヤクルトスワローズの応援歌にもなっている「東京音頭」の作曲者である

津島利典さんのNHKラジオ深夜便で
「東京歌劇座」の80年ぶりの復活の話を聞いた。

清島監督は正義・情熱の人で観客動員ができない映画を作る。
その点わが宮崎の黒木監督に通づるところがある。

義父・佐々紅華も戦争時期ただの一曲も曲を作らず、秩父の山奥・埼玉県寄居町に疎開

永住の地として昭和7年に、池袋から2時間の現在の枕流荘[京亭]を建てすごした反骨の人
DNAは引き継がれる。

歴史を記念して東宝争議決着から50周年にしてドキュメント映画を完成させた。

「闘ふ映画人の記録−来なかったのは軍艦だけ」
そのいきさつをまとめたドキュメンタリー映画

東宝争議は戦後の労働争議を性格付けた
電産闘争、そして政治のあり方の中道路線

わが宮崎では旭化成の紛争で政治的に異風を生んだ
宮崎と名古屋を中心とする一大政治勢力である。

今日の後進県たる生活基盤未整備の道路鉄道の燦燦たる状況はひとえにこの政治に帰する。

インフラの未整備との詭弁で政治家は誤魔化す。
特にこのことが宮崎の今日の姿。

東宝争議が昭和23年8月19日に“決着”してから56年を迎える、

 映画は、俳優の故花沢徳衛さんら当時の組合員や遺族へ足かけ三年にわたり行われたインタビューが中心。
誰かさんの映画手法ににてません?

現存する唯一のニュースフィルム(約十分間)や関係者から提供された写真などを挿入して、撮影所の中から見た「8月19日」を再現した96分の作品。

清島利典監督は「映像集めには苦労した。
あの時代の映画人が『暴力では文化は破壊されない』と戦車の前に立ちはだかろうとした理由を、今の若い映画人に知ってもらいたい」と話している。

飛鳥田一雄横浜市長の米軍戦車前にすわりこんだ政治家を彷彿させる。飛鳥田は明治大映画部で後輩の川島雄三に大きな影響を与えた。

江戸文化たる落語を題材にした居残り左平次の映像化「幕末太陽伝」
都会派監督川島の面目躍如たるものがある娯楽名作

フランキー堺は役者の能力の全てを開花させた

「地獄も極楽もあるもんけえー、
     おいら、まだまだ生きるんでエー!」      
墓標の「花に嵐のたとえもあるぞ、
     サヨナラだけが人生だ」
は青森の先輩太宰をも意識してのことか。

元に戻そう。浅草オペラ華ひらく大正浪漫のことである。
田谷力三、清水金一、原信子、藤原義江等々、浅草オペラ人気歌手の1920年から1938年は録音でとして残っている。

田谷力三、の回顧にある
唾かかるほど密接な距離でのカルメン

浅草オペラと言えばあれもそうか!と多くのアレンジである。
リズムはマーチもあり実に愉快になる。

コロッケの歌のコミック調とてもオペラではないが和む。
暮らしとともに創る文化は心のよりどころとなる

外国・レシピ・コロッケ・村長さん・大工一世を風靡したはずだ
ビゼーのカルメンの悲劇の結末を下町に置き換える機転のよさ。

1917(大正6)年 伊庭孝率いる歌舞劇協会が浅草六区常盤座で彼の作になる「女軍出征」を初演、この成功から、いわゆる浅草オペラの時代が幕開けた

それから1923年大正12年 9月1日の関東大震災までの約6年半が、大正大衆文化の象徴とも言うべき浅草オペラの時代

私のカラオケの十八番はこのころの曲ばかり。堀内敬三には感謝
「君恋し」、「青空」、「アラビアの唄」「乾杯の歌」
ナレーションもいります。歌うは長州の人亡き、二村定一・・・

、浅草オペラからエノケンの音楽喜劇・コミックソングへ、
そしてNHK軽音楽三木鶏郎(トリロー)へと連なる。

アラビヤの歌
訳詞 堀内敬三・作曲 FRED FISHER

砂漠に陽が落ちて 夜となるころ 恋人よなつかしい 歌を歌おうよ

あのさびしい調べに 今日も涙流そう 恋人よアラビヤの 歌を歌おうよ

あのさびしい調べに 今日も涙流そう 恋人よアラビヤの 歌を歌おうよ 恋人よアラビヤの 歌をうたおうよ

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