書いてた文章を消すと言う大チョンボ。
二番煎じは・・ど〜も。ノートに書いたのと違いキーボードは再度が中々できない。
5日の今日も風は冷たいが最高の天気。穏やかはいい
酒を酌み交わすと言うことは情報収集の場でもある。
今の義務教育の場では長距離走が消えたそうだ。
私どもは運動会でさえ長距離走があり
今の時期は各種の駅伝大会があった
襷渡しは日本人の生んだ文化で島国に生きる知恵
体力の限界で走り苦しみの果てに学ぶべきものは多い。
雪の残る急斜面の箱根路はつらい。
その中を若人が駆け抜けるさまには希望が湧く
まだこの国も捨てたものではない。宝を見せ付けてくれる。
駒沢は往路を2位につけ30秒差として復路を制した
4連覇おめでとう。
読売紙でその歴史が偲べる。
「駅伝」とはもともと古代の交通制度なそうだ。
唐の仕組みに習って諸道の所どころに駅を設け、緊急の官使が用いる駅馬をおく。不急の用にあてる伝馬を置いたことにちなむ。
律令時代の国分寺・国分尼寺を原型として江戸期の参勤交代の宿場に
由来を求める私見だがどうであろう。
読売の社会部長の職にあった歌人の土岐善麿(1885-1980)は東京遷都50年の記念博覧会協賛事業として、京都・束京間のリレー競走「束海道駅伝徒歩競争」を企画、大成功を収めた。
これが今日の駅伝マラソンの起源。
、
私どもの世代では朝日である。歌壇選者で珍しき名前で目からこの人を覚えている。
明治18年、善麿は浅草の真宗大谷派等光寺に生まれた。
早稲田大学英文科に進み、島村抱月に師事、
窪田空穂の第一歌集『まひる野』に感銘をうけ、
同級の若山牧水とともに作歌に励んだ。
異色の第一歌集『NAKIWARAI』を出版、
これに注目し批評を書いたのが東京朝日新聞にいた石川啄木。
その年啄木の第一歌集『一握の砂』で文芸評論家楠山正雄が啄木と善麿を歌壇の新しいホープとして読売紙上にとりあげ、これを契機に、初めて善麿は啄木と会う。
同い年の二人は意気投合し親交を深めるが、翌年啄木は27年の生涯を閉じた。
わずか一年三か月の短い交友であったが、啄木の死後も、
善麿は遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編纂・刊行に尽力するなど、啄木を世に出すことにつとめた。
友としてかつて交はり 兄として今はもおもふ
渝ることなし(『雑音の中』大正5年)
以後、善麿は、自由律の時期をへて定型へと、幾度もの変貌をみせながら、一貰して生活者の感懐を詠い続けた。
ローマ字運動やエスペラントの普及、国語審議会会長として国語国字の基礎確立に尽くし都立日比谷図書館館長として新館建設に携わる。
日中文化交流協会代表として日中国交回復にも寄与。
わがために一基の碑をも建つるなかれ
歌は集中にあり人は地上にある
なお「襷の手渡し」を定め、今年で第八十一回を数える箱根駅伝に受け継がれた。
敗戦の昭和20年より今年は60年に成る。
箱根駅伝の歴史には終戦を挟んで三年間の空白がある。
食糧難で人はその日を生きることに追われた。
瓦礫の何もない中から今日を迎えてる日本
培ってきた戦争放棄がグローバルの名のもとに改憲が政治日程になってきた。
「戦争の放棄」と言う理想が崩れ逝くのを見るまで生きねば成らぬのか。
今の世代には「平和」という世代間をつなぐ襷を渡すことはできぬのか。
家庭を含め世代間の襷は途切れがちの現代だが、これだけは確実にバトン・タッチの襷を渡したい
伝え聞く内外の大惨事は自然の猛威まさに史上最悪の大災害。
私のふるさと川原は河川堤防がよく決壊して床上浸水は四六時中であった。ビロウで恐縮だがみそもくそもというが冠水は実にひどい。
私の経験と熱帯の国からして衛生環境の悪化に伴う疫病蔓延等が危惧される。放置された夥しい被災の起こしたもの。
これからが今以上に大変である。
どうぞ神よ!昨年のことだ。悪戯はそれ位にしておいてくれ!
内外の被災者方々にどう伝えていいのかわからぬ。
静かに祈るしかすべがない。
どうぞ、どうぞ頑張ってください。
翻ってイラクに象徴される戦争は、この大災害の比どころではない。
広島・長崎への人がもたらした災害がいかに甚大であったか、
今回を反面教師に考えるがいい。
人類史上最大の天災よりもはるかに深い傷を残し、いまだそれを二世三世が背負って生きている
たった一発の爆弾の方による被害が大きかったというのはやはり尋常な事ではない。
その広島型原爆はいまではオモチャ程度でしかない。
核兵器の総量は爆発威力にしてTNT火薬22,000メガトン(220億トン)分と推定され、これは、広島型原爆の147万発に相当する。
保有する国は拡散しすぎている。
アメリカに続き旧ソ連・イギリス・フランス・中国
1998年5月、インド、パキスタン
北朝鮮、イスラエル
現にその核戦争の危機はあった、、
1962年核発射ボタンに手をかけた寸前のケネディとフルシュチョフのキューバ危機
ベトナム戦争 1960-1975では核兵器のみが使用されなかった。
1991年の湾岸戦争
人類の英知は1970(昭和45)年3月、核不拡散防止条約(NPT)として発効、188カ国が批准、一定の効果を果たしてきた
平成15年1月には、北朝鮮が条約からの脱退
わが国とは承知の状態となっている。
中国は20基のICBM(大陸間弾道ミサイル)、150基の中距離弾道ミサイル、300基ほどの短距離ミサイルを保有していると見られている
。
新型のミサイル(東風31)の実験なども行うなど軍事力の近代化を進めている。
では日本も核武装まで走れるのか。
ミサイル誘導技術が改良されて命中精度が上がり、核兵器の威力は著しく増大している。
巡航ミサイル(CM)トマホーク進路を修正しながら飛び、ほとんど正確に着弾する。
敵のレーダー電波を反射しないように特殊加工を表面に施した
「ステルス」爆撃機や、密かに海中から弾道ミサイルを発射できる潜水艦などが開発されている。
50年に及ぶ核兵器開発競争は、小型化、長射程化、命中精度の向上と複数弾頭化、
戦略・戦術核兵器の多様化の道を進んいまさら追いつけるのか。
700兆もの借金を背負いどうしようとしているのか。
一衣帯水の国々と小泉政権になって以来どうにも険悪になっている。
人災厄たる戦争を視野にこの内外の大災害を考えると
人間以上の破滅の元凶は地上にいない。
しばらく歩いて考えることだ。
日本が1992年9月に加盟した世界遺産条約。
和歌山・熊野の修験道の道が世界遺産に登録されたのも
熊野霊感の教えるところではないのか。
今年の日曜8時は「義経」
その影には常に補佐の弁慶がいた。
熊野修験者の霊感を一斉に背負って歴史を生きた。
のどが痛く扁桃腺まで真っ赤である。
一服でいい抗生物質をほんのわずかほしい
歯医者さんで戴いた事はあるが。
タバコをやめる絶好の機会である。
今年はまだ一度も紫煙が二本の指から発していない。
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ホント相すみません!
二番煎じは・・ど〜も。ノートに書いたのと違いキーボードは再度が中々できない。
5日の今日も風は冷たいが最高の天気。穏やかはいい
酒を酌み交わすと言うことは情報収集の場でもある。
今の義務教育の場では長距離走が消えたそうだ。
私どもは運動会でさえ長距離走があり
今の時期は各種の駅伝大会があった
襷渡しは日本人の生んだ文化で島国に生きる知恵
体力の限界で走り苦しみの果てに学ぶべきものは多い。
雪の残る急斜面の箱根路はつらい。
その中を若人が駆け抜けるさまには希望が湧く
まだこの国も捨てたものではない。宝を見せ付けてくれる。
駒沢は往路を2位につけ30秒差として復路を制した
4連覇おめでとう。
読売紙でその歴史が偲べる。
「駅伝」とはもともと古代の交通制度なそうだ。
唐の仕組みに習って諸道の所どころに駅を設け、緊急の官使が用いる駅馬をおく。不急の用にあてる伝馬を置いたことにちなむ。
律令時代の国分寺・国分尼寺を原型として江戸期の参勤交代の宿場に
由来を求める私見だがどうであろう。
読売の社会部長の職にあった歌人の土岐善麿(1885-1980)は東京遷都50年の記念博覧会協賛事業として、京都・束京間のリレー競走「束海道駅伝徒歩競争」を企画、大成功を収めた。
これが今日の駅伝マラソンの起源。
、
私どもの世代では朝日である。歌壇選者で珍しき名前で目からこの人を覚えている。
明治18年、善麿は浅草の真宗大谷派等光寺に生まれた。
早稲田大学英文科に進み、島村抱月に師事、
窪田空穂の第一歌集『まひる野』に感銘をうけ、
同級の若山牧水とともに作歌に励んだ。
異色の第一歌集『NAKIWARAI』を出版、
これに注目し批評を書いたのが東京朝日新聞にいた石川啄木。
その年啄木の第一歌集『一握の砂』で文芸評論家楠山正雄が啄木と善麿を歌壇の新しいホープとして読売紙上にとりあげ、これを契機に、初めて善麿は啄木と会う。
同い年の二人は意気投合し親交を深めるが、翌年啄木は27年の生涯を閉じた。
わずか一年三か月の短い交友であったが、啄木の死後も、
善麿は遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編纂・刊行に尽力するなど、啄木を世に出すことにつとめた。
友としてかつて交はり 兄として今はもおもふ
渝ることなし(『雑音の中』大正5年)
以後、善麿は、自由律の時期をへて定型へと、幾度もの変貌をみせながら、一貰して生活者の感懐を詠い続けた。
ローマ字運動やエスペラントの普及、国語審議会会長として国語国字の基礎確立に尽くし都立日比谷図書館館長として新館建設に携わる。
日中文化交流協会代表として日中国交回復にも寄与。
わがために一基の碑をも建つるなかれ
歌は集中にあり人は地上にある
なお「襷の手渡し」を定め、今年で第八十一回を数える箱根駅伝に受け継がれた。
敗戦の昭和20年より今年は60年に成る。
箱根駅伝の歴史には終戦を挟んで三年間の空白がある。
食糧難で人はその日を生きることに追われた。
瓦礫の何もない中から今日を迎えてる日本
培ってきた戦争放棄がグローバルの名のもとに改憲が政治日程になってきた。
「戦争の放棄」と言う理想が崩れ逝くのを見るまで生きねば成らぬのか。
今の世代には「平和」という世代間をつなぐ襷を渡すことはできぬのか。
家庭を含め世代間の襷は途切れがちの現代だが、これだけは確実にバトン・タッチの襷を渡したい
伝え聞く内外の大惨事は自然の猛威まさに史上最悪の大災害。
私のふるさと川原は河川堤防がよく決壊して床上浸水は四六時中であった。ビロウで恐縮だがみそもくそもというが冠水は実にひどい。
私の経験と熱帯の国からして衛生環境の悪化に伴う疫病蔓延等が危惧される。放置された夥しい被災の起こしたもの。
これからが今以上に大変である。
どうぞ神よ!昨年のことだ。悪戯はそれ位にしておいてくれ!
内外の被災者方々にどう伝えていいのかわからぬ。
静かに祈るしかすべがない。
どうぞ、どうぞ頑張ってください。
翻ってイラクに象徴される戦争は、この大災害の比どころではない。
広島・長崎への人がもたらした災害がいかに甚大であったか、
今回を反面教師に考えるがいい。
人類史上最大の天災よりもはるかに深い傷を残し、いまだそれを二世三世が背負って生きている
たった一発の爆弾の方による被害が大きかったというのはやはり尋常な事ではない。
その広島型原爆はいまではオモチャ程度でしかない。
核兵器の総量は爆発威力にしてTNT火薬22,000メガトン(220億トン)分と推定され、これは、広島型原爆の147万発に相当する。
保有する国は拡散しすぎている。
アメリカに続き旧ソ連・イギリス・フランス・中国
1998年5月、インド、パキスタン
北朝鮮、イスラエル
現にその核戦争の危機はあった、、
1962年核発射ボタンに手をかけた寸前のケネディとフルシュチョフのキューバ危機
ベトナム戦争 1960-1975では核兵器のみが使用されなかった。
1991年の湾岸戦争
人類の英知は1970(昭和45)年3月、核不拡散防止条約(NPT)として発効、188カ国が批准、一定の効果を果たしてきた
平成15年1月には、北朝鮮が条約からの脱退
わが国とは承知の状態となっている。
中国は20基のICBM(大陸間弾道ミサイル)、150基の中距離弾道ミサイル、300基ほどの短距離ミサイルを保有していると見られている
。
新型のミサイル(東風31)の実験なども行うなど軍事力の近代化を進めている。
では日本も核武装まで走れるのか。
ミサイル誘導技術が改良されて命中精度が上がり、核兵器の威力は著しく増大している。
巡航ミサイル(CM)トマホーク進路を修正しながら飛び、ほとんど正確に着弾する。
敵のレーダー電波を反射しないように特殊加工を表面に施した
「ステルス」爆撃機や、密かに海中から弾道ミサイルを発射できる潜水艦などが開発されている。
50年に及ぶ核兵器開発競争は、小型化、長射程化、命中精度の向上と複数弾頭化、
戦略・戦術核兵器の多様化の道を進んいまさら追いつけるのか。
700兆もの借金を背負いどうしようとしているのか。
一衣帯水の国々と小泉政権になって以来どうにも険悪になっている。
人災厄たる戦争を視野にこの内外の大災害を考えると
人間以上の破滅の元凶は地上にいない。
しばらく歩いて考えることだ。
日本が1992年9月に加盟した世界遺産条約。
和歌山・熊野の修験道の道が世界遺産に登録されたのも
熊野霊感の教えるところではないのか。
今年の日曜8時は「義経」
その影には常に補佐の弁慶がいた。
熊野修験者の霊感を一斉に背負って歴史を生きた。
のどが痛く扁桃腺まで真っ赤である。
一服でいい抗生物質をほんのわずかほしい
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