社会の掟

2005年1月29日
ふるさとは遠きにありて思うもの
そして哀しく歌うもの。と歌ったのは啄木だったか。
旅愁をもっての故郷への哀歌である。

2/1は三宅島の噴火から4年5ヶ月。非難勧告が解除され島に帰る。
いまだ噴火が続き火山ガスとの共生となりガスマスクは必需品

つくづく因果な人間の業たる、ふるさとへの哀愁を哀しく思う。
1ヶ月に数百回危険濃度のガスが発生しているのにである。

6000hrの森林は4割の2500hrが土砂に埋まり270hrの田畑は全滅
6ヶ所の港は修復が必要である。高校や幼稚園は残った。

それほどまでにしてふるさとに住む。
逃げ出しては負けである。

自然の猛威はあちこちに転がっている。
いつ不幸が来るかは誰もわからない。

語り継ぐぐらいの伝播スピードがいい。マスコミのはしゃぎ過ぎが目立つ。
あるときはチョットのミスが新聞報道となり、当の本人の取材なしで成されると犯罪者さえ作り出す。

その両刃の剣の意味さえ知らずしてはしゃぐ。
少しの良心があるならその後の取材があっていいのではないのか。

当初からまったくの本人取材なしで記事が作られ何度となく報じられれば
警察当局も動く。事件にしなければ成らぬ世相が作られている。

当初の取材なしたる新聞のしくじりがあるため誰一人として本人と会話していないのに
極悪人の記事が出来るのは何故か。

下戸を知らずして、「毎晩ニシタチを飲み歩く・酒豪」の類の記事が平然と出る。
チャンチャラ・オカシ。何処に正義があろう。

マスコミは注目度で動くので後は自分で注意しないとどうなってるのかわからない。
パナウェーブ?(だったか、)なる白装束の集団がどうなってるのか誰が知っているというのか。

落ち出したらダメ。
何事も落ち出したものはダメなのである。
家、国家すべてそうである。

野球だってセ・パ交流試合などと大改革がされたが所詮アメリカン・リーグの日本
早くアジアリーグを提唱すべきである。

浅草オペラ、軽演劇、人形浄瑠璃、講談、浪曲、頑張ってるのは歌舞伎ぐらい。
プロスポーツも野球、相撲総てそうである。
サッカーはワールドゆえなんとか生き残ろう。

ちょっとした不注意で失敗したら自分に責任があれば悲しみに耐えよう。
積み上げてきた社会的地位も一瞬に捨てよう。

総てに責任をとろう。
ところが社会はそうならない。周りが許さないのである。
本当はどうであったの。どうして反論しないの。?

権利主張が何故なされないのかの白眼視で自分がまいる。
変わり者の存在はすべてに包囲されてきている。

品物を売るにしてもそうだ
弱いものは売りつけられる。ダメなら乗せられ売りつけられる。
ドッかがおかしい。しっかりした自己性格でしか生きられぬ。

そうでないと周りから糾弾される
自分の責任だから仕方ないではIT文明を受ける資格さえない。

おだてると軽いと感じられ、知らぬ若者からさえ侮蔑される。
浮かれていると実に怖いですよ

何でも手にいる栄光は勝ち得ないとしても食えないことはない。
老いは感じてるが幸い元気で物が上手い。少々の睡眠不足に不安があるのみ。

気難しい性格といわれてようが自己責任が強い性格ゆえである。
少しは割り引いてはくれないものか。

社会の掟はそんなに甘いものではない。

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