肥後もっこす

2005年2月8日
熊本の龍田7丁目のパネル工事に宮崎を6時に出発。
昨夜のお願いの未着のスタッフに電話するが自宅に居る。
出発の時間がまるで違う。これではどうしようもない。

えびので高速道に乗り、九時過ぎに現場着。
どんよりの中の4KWのダム建設である。

かっての地理に表日本と裏日本の言葉が存在した。
九州をその言葉で言うと日向は表日本で肥後は裏日本で気候を上手く表現している。

三菱パネル165kwで設計をしていたので不安をもって屋根寸取りをするが
微妙に何とか4KWの寸法がカバーできるようでこの何日かの不安が吹き飛ぶ。

よかった!よかった!
それに高所恐怖症の病原菌が潜伏中でどうやら大丈夫である。

古い天日の温水器を降ろし、塗装して架台工事を午前中で済ませ
パネル工事まで何とか終了した。

○部・○上さんのご奮闘の賜物。実にあり難い。
他のスタッフは急遽泊まりを止め、一路宮崎に向かい、10時過ぎ着いてたようである。

残りで温泉ホテル・ピースフル優祐悠に泊まる。かって経営していた遊々と同じ発音ではないか。
晩酌は「白岳」。三城米ゆえすっきり上手い。

迷子なく現地につき二段梯子やパネルシュライダーもなく終了でき、先ずはめでたし。

心地よい睡眠が取れた。
安眠は仕事完成への一里塚・・せきやん・・

車社会で忘れ去られたものがある。
国を分け旅人を一安心させたであろう道標。

一里塚、二里塚、四里塚とあり、都城の市内をぬけたところには里数木の塚が島津街道の名残をとどめている。
何も街道を行くは司馬遼太郎のものではない。私共一人一人のものである
そこで昼の休みを利用してしばし大津街道を探索する。国道57号線である。

あった!あった!
熊本・上立田字吉の平に擬灰岩の石柱は私よりちょっと低く120CM根幅30CMで約150年の風雪に耐え建設者の遺徳を称え立ち及たち及んでいる。

正確には字吉の平1628番地であり、創立100周年の伝統校龍田小より、西に250メートル行った所にある。

標柱には・・・右あそ大分・・・左大津内牧と彫ってある。
等所清水旦次阿蘇郡野尻村尾下甲斐有雄
とある。今の高森町である。

甲斐有雄は石工で文久元年1861年に石柱を立て始めた。
明治10年の西南戦争時も、継続して事にあたった肥後もっこす。その意思の硬さはダイヤモンド級。

熊本県の上益城郡飽託から大分県は直入郡
宮崎県は臼杵郡まで及んだ。

その数1900基におよんでいるが熊本にはこの1基のみが唯一残されていると言う。

旅人を迷わせず、目的地を指し示した。この偉人は顕著されるべきである。
二里木道標石として今に残る。

里数木は(日記の受験生中也さんの嫌いな試験科目理数ではありません!)は
道標の南北に植えられた。主に榎木とか楠。

熊本城・清爽園の1丁目御門前・札の辻を基点とした。
大津街道は黒髪5丁目、一里木バス停に名残がある。

昭和33年南の木が切られ47年北の木が切られた、
この地の吉の平1628番地にも里数木が現在木以外に存在した。

明治期の軽便鉄道が敷設された折に、南の木が切られ現在目高さに、本木が切られた脇枝が残る。

切られた後に腐れがいらぬ処置がしてないため、いずれなくなろう。
なにのための樹木医制度があるか知らぬ。

歴史の重みを知らぬ行政当局である。
直ぐそばに熊本県土木課があるが見てみぬふり。
黒沢映画の「生きる」の志村喬の演じた公務員の公僕はここにはいないようである。

大津街道は立田口(坪井町赤鳥井)から大津町堀ヶ谷(大津方皇ヶ谷)を言う。当時清正公道と殿様の名を冠して呼んでいた。

豊肥線に沿ってと思われるが三里木跡が道標として残るのは次のとうりか。
熊大、郵便局、法務局と里数木はないが道標が残る。

菊陽町・原水の東
大津町の西田坂
新小屋

二重峠

榎木には幼き頃の榎木鉄砲遊びが浮かぶ。
竹筒で鉄砲を作り両陣営に別れ、あおんさま神社の内と外での打ち合い。

月に何度かには目に当たる。ダイレクトにであり、危険極まりない。
植物たるご神木の榎木の実ゆえ、これが不思議と失明にはならない。

チャンバラよりまだよかった。
今では社会的問題となっていた事であろう。

勇気と冒険心と仲間の連帯感を体で学んだ。良き教育。
歴史を思い浮かべるのもこのときの経験からであろうか。

甲斐有雄に肥後人の魂を見る。かくありたい。

http://blog.with2.net/link.php/34016

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