肥後の武蔵

2005年2月9日
熊本・龍田の昨日の架台工事が、いわゆるダム堰堤工事である。
今日は変電所にあたるパワー・コンデショナーの電気工事。
これで太陽光発電所の完成となる。
これを中心の工事とオール電化の工事である。

夕方IHの工事を終了した。配線が通らず実に難工事であった。
宮崎より、わざわざIHの部材をお届けいただいた。感謝。

この方にはIH鍋類を買いにつれてってもらい家主さんにプレゼントする。

工事については私はもっぱら監督役で出番が無いのでかねてより目をつけていた武蔵塚にママ・チャリで向かう。
途中ここ龍田町は九州測量専門学校があるところ。

土木技師は九州唯一のこの地を卒業している。
わが心の友人・平郡文雄も青春をこの地で送ったがどのような日々であったのか訪ねる

希望が丘団地楠7丁目10−18
宮川八良宅を訪ねる。セキスイ・ハウスであった。

こうなれば仕事に遊びの二刀流。
多感な頃の面持ちとはまったく違う心境で臨んだ武蔵塚

確かに人生の遍歴は考え方を変えてるようである。
名勝地は青春期と老いてからと二度訪ねるべきである。
40年ぶりの武蔵塚はすっかり趣を変え変貌していた。

サンアントニオ市長ヘンリーCT・シスネロスのメッセージの碑
1987年12月8日の市制100周年記念に開設の武蔵塚公園

武蔵ゆかりの地は外に
立田自然公園
細川墓地の石田三成の娘・ガラシャ夫人の眠るところ
熊大引導石
岩戸の里五百羅漢
島田美術館・・とある。

寛永17年1640年の57歳で細川忠利公に仕え翌年、兵法35ヶ7条をあらわす。

荒くれ剣士の印象たる武蔵だが晩年は茶・禅・書画をよくする文人。
私も枯れ木にもずの掛け軸をかって買った。

二天一流を編み出し創始者となる。
二刀流の使い手であり剣聖と尊ばれる。
私にはどうも後日談であり、吉川英治の影響と思われる。

楽勝寺・春山和尚より二天道楽を授かり、二天を編み出す。
霊厳洞にこもる。五輪の書はここで書かれる。
地水火風空の五輪の書は蔵書にある。

生まれは天正12年1584年であるが
兵庫県揖保郡太子町宮元と
岡山県英田郡大原町宮本美作と二説ある。

幼名を弁助という。恋人お通は存在しなければ人生が無味乾燥であったろう。生涯独身で通した。

13〜29年で60余回の勝負に一度も負けたことがない。
吉岡一門、とりわけ佐々木小次郎との戦いは剣豪小説ファンでなくとも誰でも知っている。

1645年正保2年5月17日62歳で没した
遺言により甲冑と六具と立身の姿のまま葬られる。
末代細川家を守るためである。
それがこの武蔵塚なのである。

墓標は正保2年5月12日新免武蔵玄信ときわめてシンプル。
裏や横に一切の記述がない。

死の7日前に「独行道」をあらわす。

世々の道をそおく事なし。

身のたのしみをたくまずよろずに依枯の心なし

身をあさく思い世をふかく思ふ

一生の間よくしん思わず我事において後悔をせず。

善悪に他をねたむ心なし

いずれのみをにもわかれをかなしまず

自他共に恨みをかこつ心なし

れんぼの道おもいよる心なし。

物毎にすきこのむ事なし。

私宅においてのぞむ心なし

身一つに美食をこのまず

末々代物なる古き道具を矜持せず。

わが身にいたり物いみする事なし。

兵具は格別よの道具たしなまず。

道においては死をいとわず、おもう

老身に財宝所領もちゆる心なし

仏神は貴し仏神をたのまず

身を捨て名利は捨てず常に平方の道をはなれず

武士道は新渡戸稲造の英文での出版から言葉になったが、随分とちがうものとなる。
自分を守るための素養が武士道である。

「葉隠」の山本常朝の説く
武士道とは死に場所を見つけたり。
のほうが適切である。
ブッシュの口癖で今をときめくテロとも異なる。

「独行道」の記念品のノレンを買われた同行者の方のように信奉者も現れる。
西南戦争の受難者である。

松浦新吉朗は佐々友房、池辺吉十郎と西郷軍の熊本隊を組織する。長井村で10月31日官軍の手で刑死
願い出により、新免武蔵居士石塔の横に葬られる。
国を憂い西郷に託して短きも信念に生きた人もここに眠る。

柳生と違い殺傷の暴れ剣ゆえ仕官がかなわず、乱世ゆえ生きた武蔵の剣。
仕官のみちさえ厳しかったが熊本の地で花が咲いた。

私どもの太陽光発電の仕事も理想を高く掲げ、かくありたく二つの墓碑に頭をたれた。

夜、10時過ぎに來宮、腕利き職人さんには遅くまで申し訳ない。

今頃はIH料理器械での初めての食事をしておられることであろう。

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