NHKラジオ深夜便

2005年3月4日
一日遅れの更新として書くのはその日の夜に書くのとずいぶんと違ってくる。

記憶は常に美しく直接的には思考の混乱もあり、感情があらわになる。

人間は考える葦であると言った哲学者もかっていた。
遅れの日記のしてもそうで、その言葉の意味を理解する。

とりわけ情報化社会にはコメンテェ-タ−なる解釈者がおり、自分の意見がもてなくなっている。

マスコミは所詮支配者がおり、一部の者にしかその国家のカラクリがわからぬものとの類だ。
品のない国家に小泉の登場で相成っている。

妻のいない国家元首がどこにいよう。
そのことひとつ人の上に立つ資格はない。

秘書たる飯島が恐怖政治を操る。
ほとんどが追放され遠避けられてるのが小泉恐怖政治の本質ではないか。

政治は王道。すべての規範であらねばならぬ。
然るに今日の球は何であろう。

リアルになるのが日記のはずでやはり遅れは良くない。
ただし、失敗も起こらないよさもある。
それでは生身の人間の所業の生き様たる面白さは伝わらない。

PCのない岸本旅館で遅れが生じて
風邪気味の体調不完全も手伝って、のことでなおさら。

取捨選択をしないと多忙さかまけて皆見えなくなってくるのではいかんともしがたい。

1時30分過ぎまでの来客。この体調の中をである。くわばら、くわばら。

大分からの仕事依頼は大きい。
NEFの締め切りが近づいている。

このことを当面の処置目標である。
仕事を取らねば食えないであろう。
体裁をなさねば会社組織ではなかろう。

雑務と連絡に忙殺され見えなくなる。
福岡からの電話はただただ癒しの時間。
明日の福岡行きは大雪で動けそうにもない。

厳しさの中の探求者は書きもれの二人。
道元禅師というとすぐに永平寺が頭に浮かぶが、京の都の貴族の御曹司として誕生され宇治木幡(うじこはた)山荘で少年時代を過ごす。、出家ののち比叡山にいる。、

市中の建仁寺、
さらには宋国から帰朝後、越前に身を寄せるまでの、実に四十年余り京とその周辺で生活されている。

亡くなったのも俗弟子である覚念(かくねん)の京の屋敷だった。

だから京都のあちこちに道元禅師ゆかりの史跡が残る。
 四条大橋東端の四条駅から京阪電車に乗り深草駅で降りる。東へ十分ほど歩くと日蓮宗宝塔寺に着く。

このあたり一帯に藤原氏の菩提寺である極楽寺があったといわれていて、今は地名だけが残っている。
 宝塔寺で頂ける「深草山しおり」の一文。

 「道元禅師が寛喜三年(一二三一)に曹洞宗の基を開いた安養院は、この極楽寺の塔中別院であり、また仁治三年(一二四二)
、叡山遊学中の蓮長法師(日蓮聖人)が道元禅師を訪ね、曹洞の奥義を学ばれたという旧跡・観音導利興聖宝林寺(嘉禎二年、
一二三六年建立)も、当時付近にあったと伝えられています」

 この時、禅師四十三歳、日蓮二十一歳。
まさしく一期一会、最初で最後の出会いだった。

なぜ京都でないのか。輝く王事、権力の地でなく深山の越前・永平寺なのか。
雲水生活での弟子の教育。

育てる教育が第一義で出家主義人間狂句の本質を考えた。
永平寺信義できっさ、きっ飯、作法。先輩に対する態度
座禅座り方。お客に対する態度。

洗面洗滌、洗い方。口臭に困った中国修行のときの経験。楊枝の使い方。
身だしなみ、振る舞い。イギソク仏法

日常的継続
堕落し野生化した人間

参禅の体験ツア−ができる。
まずは座禅である。

起床は・・・ナント!朝の3時。洗面洗滌して座禅堂
結跏趺坐

沈黙を守る3目道場
食堂、便所、浴室

音を立てず、沈黙。少しの量、桶いっぱいの水を使わない。
自分の問題である。

ジキ堂
味噌汁もすするでなく、カンで食べる。ス−プもかんで食べるといい。

カタコトの音。上げ下ろし両手で持つがポイント
苦しき均整は形、所作,合掌
これらはマナ−の結晶

目をつぶり不安である現代人の所業に気づくはずである。姿勢、呼吸、沈黙、雑念、妄想
自分を考える。輝きを増す。考える我あり。

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