評決或いは評判
2005年4月13日1970年は街頭デモの最後の残り火が70年安保、沖縄返還で燃えさかった。その35年前に「ディスカバー・ジャパン」と社会改革の価値観を個人主義価値観で置き換え日本の再発見に向けたさせた。その広告を手がけたは藤岡和賀夫。
1927年兵庫県生れ。東京大学法学部卒。電通PR局長を経て、八七年フリーのプロデューサー。
キャッチ・コピーはなにも糸井重里に一人帰するものではない。
さらに大衆心理や、流通、市場分析まで及ぶその道の草分け。
学問に昇華させた感をおぼゆるのは私一人か。
日本の広告史を画したキャンペーン「モーレツからビューティフルへ」(70年)、「ディスカバージャパン」(70〜77年)、「いい日旅立ち」(79〜82年)などをつぎつぎとプロデュース。 広告の文化価値を確立。
テレビのテレビスペシャルやシンポジウム・ブームのパイオニア。
84年のベストセラー『さよなら、大衆。』(PHP研究所)は、成熟消費社会における少衆化現象、「感性革命」を摘出。“少衆・大衆論争”を巻き起す、企業の多品種少量販売戦略の理論的支柱
「モーレツはいわば王道として世の中を罷り通っていた……私にはそれがいやでいやでしょうがなかった」
この人の手がけた広告は、「国鉄は話したい」にかぎらず、すべて意見広告。
「モーレツからビューティフルへ」がゼロックスの広告だったことを知らずとも鮮明なイメージは誰もが覚えている。
マスとして一括りにされてきた人々の意識下にあるもう一つの生き方への欲求を、代って言葉にした。
その延長上に位置したのが『さよなら、大衆。』。
「総企業対総消費者という構図が、そのままこの国の大衆消費社会の理解だった……大衆は、そんな構図からは消え去りたかったのだ」。
これからの大衆は「感性」を共有する「少衆」としてまとまる、との考え方は、そのまま稲増龍夫の市場分析「棲み分け理論」に受け継がれている。
これからの「生活再編」は何によってもたらされるのか。
「一人一人の『教養』(考える力)によって静かに、深く、そして着実に進行している」と藤岡。
「残したい日本の風景」のキャンペーンに取り組む。
里山や散居村など絶滅のおそれのある日本の原風景を紹介する。
私に言わせるならば資本の食いちぎった残骸の風景への惜別、鎮魂歌。
「年年歳歳、花相似たり」というが、花の咲く舞台は確実に移ろい、失われていく。神宮での出来事。
話を聞かずしての罵声はどうにも共通項。どのような時間が流れたのか。察するのも胸が痛む。誰かが食いちぎった残像。
池波正太郎の「人斬り半次郎」の描く中村半次郎は維新後の陸軍少々桐野利秋
京在日記,会津戦記、鎮台進言書、時勢論を残している。
京在では坂本竜馬暗殺の日のことが触れられてるが、研究し尽くされてはいない。また上田藩で薩摩砲術指南の赤松小三朗暗殺の下りは真拍迫る凄さがある。幕府軍仕官の意向があったゆえの二人係による暗殺。人斬り。土佐の岡田以蔵の悲惨さはない。
その粗野なイメージは西南の役を伝える浮世絵にも描かれた。
その粗野なイメージは西南の役を伝える浮世絵にも描かれた。
1677(明治十)年の西南の役を伝える浮世絵に、県内の場面が多数描かれていた宮崎の遊郭で桐野利秋が大暴れ。
従軍記者の電報を基に在京の絵師たちが描いた木版画。
佐土原城が陥落、延岡城に入城の西郷隆盛と、史実にない場面を、表情豊かに芝居がかって描いている。
綾町・酒泉の杜の骨董の館永井文庫が51組153枚を所蔵。
「綾蔵春まつり」の十日、初公開。当時の東京の庶民の目で、西南の役を見詰めている。
自者と他者の違い、落差には責任感の視点から問われなければならない。他者に迷惑をかけての将来はない。
知らぬ間の評決がされてるのではどうにももどかしい。
権謀術の海千山千がまかり通る太陽光発電の世界に生き残れるか。ここんとこが山場の胸突き八丁。
宮銀、国金と周り遅まきの決断。トップ不在の組織は呈をなしていないゆえ。図太い神経、骨太でなければ生きられぬ。
それにしては如何様に生きていくのか。
名人戦将棋の3年越しの対決の緒戦は羽生4冠が名人森内を福島の地で制した。さらに、34歳で900勝の新記録。確実なる復活。
次は伊勢神宮の三重県。
勝てば官軍、評判は後でついてくる。ホリエモンの傲慢さを寸分デモ見習わねばならぬようだ.修羅での評決を受けるよう邁進せねばならぬ。
熊本の連携が本日終了、日向の二件、木城、西都は10日に終えた。野尻をやり過ごすわけには、行かぬが所詮間に合わぬ事後処理。
転ばぬ先の杖とか言うが余裕があってイイワ〜な〜。
全てにいえるが終わったことは取り返しがつかぬ。
平常人は誰でも二の足を踏むのが人生哲学。
幕末をリードした水戸学、陽明思想など乱世のものである。
さらに言えばここは日向ぞ!大過なくの国。
http://blog.with2.net/link.php/34016
1927年兵庫県生れ。東京大学法学部卒。電通PR局長を経て、八七年フリーのプロデューサー。
キャッチ・コピーはなにも糸井重里に一人帰するものではない。
さらに大衆心理や、流通、市場分析まで及ぶその道の草分け。
学問に昇華させた感をおぼゆるのは私一人か。
日本の広告史を画したキャンペーン「モーレツからビューティフルへ」(70年)、「ディスカバージャパン」(70〜77年)、「いい日旅立ち」(79〜82年)などをつぎつぎとプロデュース。 広告の文化価値を確立。
テレビのテレビスペシャルやシンポジウム・ブームのパイオニア。
84年のベストセラー『さよなら、大衆。』(PHP研究所)は、成熟消費社会における少衆化現象、「感性革命」を摘出。“少衆・大衆論争”を巻き起す、企業の多品種少量販売戦略の理論的支柱
「モーレツはいわば王道として世の中を罷り通っていた……私にはそれがいやでいやでしょうがなかった」
この人の手がけた広告は、「国鉄は話したい」にかぎらず、すべて意見広告。
「モーレツからビューティフルへ」がゼロックスの広告だったことを知らずとも鮮明なイメージは誰もが覚えている。
マスとして一括りにされてきた人々の意識下にあるもう一つの生き方への欲求を、代って言葉にした。
その延長上に位置したのが『さよなら、大衆。』。
「総企業対総消費者という構図が、そのままこの国の大衆消費社会の理解だった……大衆は、そんな構図からは消え去りたかったのだ」。
これからの大衆は「感性」を共有する「少衆」としてまとまる、との考え方は、そのまま稲増龍夫の市場分析「棲み分け理論」に受け継がれている。
これからの「生活再編」は何によってもたらされるのか。
「一人一人の『教養』(考える力)によって静かに、深く、そして着実に進行している」と藤岡。
「残したい日本の風景」のキャンペーンに取り組む。
里山や散居村など絶滅のおそれのある日本の原風景を紹介する。
私に言わせるならば資本の食いちぎった残骸の風景への惜別、鎮魂歌。
「年年歳歳、花相似たり」というが、花の咲く舞台は確実に移ろい、失われていく。神宮での出来事。
話を聞かずしての罵声はどうにも共通項。どのような時間が流れたのか。察するのも胸が痛む。誰かが食いちぎった残像。
池波正太郎の「人斬り半次郎」の描く中村半次郎は維新後の陸軍少々桐野利秋
京在日記,会津戦記、鎮台進言書、時勢論を残している。
京在では坂本竜馬暗殺の日のことが触れられてるが、研究し尽くされてはいない。また上田藩で薩摩砲術指南の赤松小三朗暗殺の下りは真拍迫る凄さがある。幕府軍仕官の意向があったゆえの二人係による暗殺。人斬り。土佐の岡田以蔵の悲惨さはない。
その粗野なイメージは西南の役を伝える浮世絵にも描かれた。
その粗野なイメージは西南の役を伝える浮世絵にも描かれた。
1677(明治十)年の西南の役を伝える浮世絵に、県内の場面が多数描かれていた宮崎の遊郭で桐野利秋が大暴れ。
従軍記者の電報を基に在京の絵師たちが描いた木版画。
佐土原城が陥落、延岡城に入城の西郷隆盛と、史実にない場面を、表情豊かに芝居がかって描いている。
綾町・酒泉の杜の骨董の館永井文庫が51組153枚を所蔵。
「綾蔵春まつり」の十日、初公開。当時の東京の庶民の目で、西南の役を見詰めている。
自者と他者の違い、落差には責任感の視点から問われなければならない。他者に迷惑をかけての将来はない。
知らぬ間の評決がされてるのではどうにももどかしい。
権謀術の海千山千がまかり通る太陽光発電の世界に生き残れるか。ここんとこが山場の胸突き八丁。
宮銀、国金と周り遅まきの決断。トップ不在の組織は呈をなしていないゆえ。図太い神経、骨太でなければ生きられぬ。
それにしては如何様に生きていくのか。
名人戦将棋の3年越しの対決の緒戦は羽生4冠が名人森内を福島の地で制した。さらに、34歳で900勝の新記録。確実なる復活。
次は伊勢神宮の三重県。
勝てば官軍、評判は後でついてくる。ホリエモンの傲慢さを寸分デモ見習わねばならぬようだ.修羅での評決を受けるよう邁進せねばならぬ。
熊本の連携が本日終了、日向の二件、木城、西都は10日に終えた。野尻をやり過ごすわけには、行かぬが所詮間に合わぬ事後処理。
転ばぬ先の杖とか言うが余裕があってイイワ〜な〜。
全てにいえるが終わったことは取り返しがつかぬ。
平常人は誰でも二の足を踏むのが人生哲学。
幕末をリードした水戸学、陽明思想など乱世のものである。
さらに言えばここは日向ぞ!大過なくの国。
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