とどまることを知らない好奇心と恐れを知らぬ探究心屈託のないは子供の特権であろうか。子供は、喜怒哀楽を、むき出しで表現する。嬉しいときは、体全体で喜び泣くときも本気で泣く。
子供は子供なりに辛い思いはしているはずだ。
しかし大人になって振り返ると、幼い頃の記憶になればなるほど、それは懐かしさにも彩られ、美しい思い出になっている。
辛い経験というのは、ほとんど思い出せない。
子供が遊ぶ姿を詩情豊かに描いた永久の名曲《子供の情景》、ロマン的な幻想がほとばしるドイツ・ロマン派を代表するシューマンのピアノ作品である。
当時婚約中だった愛妻に宛てた音の恋文ともいえる作品が定説。「子供の情景」はシューマンがピアニストになろうとして挫折し、作曲家に転向して新しい境地で書かれたとも言われており、自然でくったくがない。
私でさえトロイメライは記憶にある。幼い頃の思い出は、美しい。
桂文朝の落語なら買い物をねだらないとの父子の約束で出かけたお祭りの出店の前。
「ネェねえアメ買ってよ!」
江戸弁での子供と父親は特にその対比がいい。
文朝、志ん朝の噺がないゆえ小三治でしかきけないのか〜。
近日息子(桂文朝)、子ほめ(柳家小三治)薮入り(宴楽)子供の情景(笑福亭仁鶴)
まだきけそうな気がしてくる。
洋の東西を問わず子供の無邪気さは同じようである。
ところが50過ぎてのそれでは相方はよっぽどでないと持たない。
延岡から福岡までの約4時間30分感激のしっぱなし。
が、隣にいてはさぞ五月蝿かったことであろう。
感激を知るには高速道を走るべからずである。
延岡駅より5分政府軍参謀の山形有朋の西南の役のときの本陣跡や北方の西郷の館,可愛岳の西郷軍突破を車窓でやり過ごす。
ここは日本の歴史で初めてで最終の国内戦の西南戦争の地。
大分県緒方町原尻の滝は鹿児島・大口の滝と同様の段丘の平地の珍しきものである。
これぞマスコミの正体見たりと悔しき心情。黒川温泉のアイレデーィス化粧品の跡地。
この2ヶ月前まではこの温泉で最大の6Fの威容を誇っていたのに撤去され売却され空き地。
そりゃぁ人権もあろうがライ患者と一般人が保養地での温泉で同居しようか。理想と現実のギャップは計り知れぬ。
私がここの支配人であっても断っていたやも知れぬ。
会社を守るためである。
このような風評被害が起こるのは予測できないではないか。
ひとえにマスコミの騒動が大きすぎるのではないのか。
ところがその感激も覚めやらぬうちにカメルーンで有名になった中津江村
よくぞこのような田舎があったものである。
鯛生金山はかすんでいる。
こちらはマスコミたるNHK中心で全国にその名を轟かせた。
いやァ〜マスコミたるもの。・・
考えていたら、休みをくれない。
黒川温泉は筑後川たる”筑紫次郎”の源泉のひとつである。
その黒川温泉の下流の中流部に下筌ダムはある。
左岸河川底下に水位の低下したところに水没した旧道路が見える。
昭和35年6月建設省の代執行は、日米新安全保障条約の騒動、解雇反対の大牟田の三井三池労働争議と重なり、ダム建設反対行動が全国からの労組の支援を受けるなかで蜂の巣城で行われたが、激しい抵抗にあった。そのことは新聞でしか知らない中学生である。
肥後小国の山林地主であった室原知幸の生涯は、59歳のときに激変する。
1957年に建設省が筑後川治水のため下筌・松原ダムの建設を計画するが、彼の住む志屋集落は水没地域。
村人の要請で、反対運動の指導者となつた彼は、ダム建設は、
「法にかない、理にかない、情にかなう」ものでなければならないとし予定地の険しい山腹に「蜂ノ巣砦」を築いた。
次々と繰り出される訴訟は、彼が大学時代に大正デモクラシーを求める学生運動の演説で聞いた
田中正造の足尾鉱毒事件に対する闘争を髣髴させるもの。
彼の過激で効果的な反対闘争のため国側が立ち往生する大闘争に発展。
彼が提示した「公権と私権の相克」という問題は70年代における住民運動のテーマ。
この蜂の巣城のゆくえはだれも予測できなかった。
ホリエモンが株の売り抜けであり、裁判官さえだました手口とは人間の深部、襞。人間の尊厳が違う。
それは事件の背景をかいたノーベル賞に最も近かった安部公房(安部公房全作品14)でさえ見通しを誤った。
事件に興味を持って熊本県まで行くが、全く相手にされず
、この事件について彼独自の見解をまとめたこの著作での彼の仮説はすべて外れた。
事実について少しでも知っている人なら、笑止の筆致である
第一蜂の巣城が行政代執行により落城すれば、第二蜂の巣城を築き、更に第三蜂の巣城を構築。
支援団体等が離れ、最後には親族だけでも彼の信念はひるまず、水没予定地にある自邸に赤地に白丸の室原旗を掲げて抵抗。テレビでも放映された。
法廷における理論斗争に情念を燃やし土地収用法の適用に対する事業認定無効確認訴訟の提起
結果は、判決に負けて訴訟に勝ったといわれるぐらい、国側の理論を圧倒。
ダム建設に必要な用地は、その大部のものが既に任意買収され、工事の進展をみている状況下で
、室原自身も「ダム反対」は逆さに読めば「対反ムダ」「大半は無駄」と常に明るい。
国などが行う公共事業の適正な在り方を訴えると共に、補償をもらって水没地域を去り、生活再建を計る地元民の利益を掩護する意思を秘めて抵抗をゆるめなかった。
知事の斡旋や、建設大臣の直接の話し合いの申し入れも全て拒否。
他方82件に及ぶ法廷での記録や、科学的根拠に裏付けられた理論の社会的、あるいは学問的価値を客観的に評価してもらうことにより、歴史上に正しく名を止めようとする意識もあってか、厳正中立の姿勢、客観的な純粋学問的立場から蜂の巣城紛争を調査研究し、論評してもらえることを模索したフシがあるともいう。
室原知幸と対峙した天草出身の東京帝大卒の野島虎治は東北の雄物川上流の鎧畑ダム1947年に赴任。
ダム屋の雄である。
ダムを絶対造らせまいとする者と、筑後川流域における人命と財産を守るために、ダムを絶対造らねばならない者との確執と葛藤。
裁いた石田哲一東京地方裁判長は
「あの判決は裁判官としての私自身の社会的良識による判断です。その訴訟でもし国を敗訴させていたら、あれ以降ほとんどの公共事業が停滞することになったでしょう。」と述懐。
室原は石田を恨むことはなかったと言う。
この三人には日の出のような美しき後日談がある。
昭和43年の秋、室原、石田、副島の三人は、耶馬渓に小旅行に出かけているのだ。
新地ノ山架橋これ恩讐の彼方我も建設省も
室原の 詠んだ歌、胸中やいかに。
この近辺の断崖絶壁は杖立温泉の背景の柱状摂理の状況でわかろう。
菊池寛の「恩讐の彼方に」の禅海和尚の境地まで昇華させてるのか。いつ、どのような方法でもって、和解の道をとればよいかをに考えていたのか人間の心理は多面体。
、昭和45年6月に室原はこの世を去り13年の闘争が終結し、真理の追求の研究は残った。
室原文庫は関大に永久保存されている。
身近には次の諸著作で知れよう。
直木賞作家・佐木隆三の『大将とわたし』(講談社・昭和51年)、
松下竜一『砦に拠る』(筑摩書房・昭和52年)
室原知幸著『下筌ダム − 蜂之巣城騒動日記 −』(学風社・昭和35)
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http://blog.with2.net/link.php/34016 [編
子供は子供なりに辛い思いはしているはずだ。
しかし大人になって振り返ると、幼い頃の記憶になればなるほど、それは懐かしさにも彩られ、美しい思い出になっている。
辛い経験というのは、ほとんど思い出せない。
子供が遊ぶ姿を詩情豊かに描いた永久の名曲《子供の情景》、ロマン的な幻想がほとばしるドイツ・ロマン派を代表するシューマンのピアノ作品である。
当時婚約中だった愛妻に宛てた音の恋文ともいえる作品が定説。「子供の情景」はシューマンがピアニストになろうとして挫折し、作曲家に転向して新しい境地で書かれたとも言われており、自然でくったくがない。
私でさえトロイメライは記憶にある。幼い頃の思い出は、美しい。
桂文朝の落語なら買い物をねだらないとの父子の約束で出かけたお祭りの出店の前。
「ネェねえアメ買ってよ!」
江戸弁での子供と父親は特にその対比がいい。
文朝、志ん朝の噺がないゆえ小三治でしかきけないのか〜。
近日息子(桂文朝)、子ほめ(柳家小三治)薮入り(宴楽)子供の情景(笑福亭仁鶴)
まだきけそうな気がしてくる。
洋の東西を問わず子供の無邪気さは同じようである。
ところが50過ぎてのそれでは相方はよっぽどでないと持たない。
延岡から福岡までの約4時間30分感激のしっぱなし。
が、隣にいてはさぞ五月蝿かったことであろう。
感激を知るには高速道を走るべからずである。
延岡駅より5分政府軍参謀の山形有朋の西南の役のときの本陣跡や北方の西郷の館,可愛岳の西郷軍突破を車窓でやり過ごす。
ここは日本の歴史で初めてで最終の国内戦の西南戦争の地。
大分県緒方町原尻の滝は鹿児島・大口の滝と同様の段丘の平地の珍しきものである。
これぞマスコミの正体見たりと悔しき心情。黒川温泉のアイレデーィス化粧品の跡地。
この2ヶ月前まではこの温泉で最大の6Fの威容を誇っていたのに撤去され売却され空き地。
そりゃぁ人権もあろうがライ患者と一般人が保養地での温泉で同居しようか。理想と現実のギャップは計り知れぬ。
私がここの支配人であっても断っていたやも知れぬ。
会社を守るためである。
このような風評被害が起こるのは予測できないではないか。
ひとえにマスコミの騒動が大きすぎるのではないのか。
ところがその感激も覚めやらぬうちにカメルーンで有名になった中津江村
よくぞこのような田舎があったものである。
鯛生金山はかすんでいる。
こちらはマスコミたるNHK中心で全国にその名を轟かせた。
いやァ〜マスコミたるもの。・・
考えていたら、休みをくれない。
黒川温泉は筑後川たる”筑紫次郎”の源泉のひとつである。
その黒川温泉の下流の中流部に下筌ダムはある。
左岸河川底下に水位の低下したところに水没した旧道路が見える。
昭和35年6月建設省の代執行は、日米新安全保障条約の騒動、解雇反対の大牟田の三井三池労働争議と重なり、ダム建設反対行動が全国からの労組の支援を受けるなかで蜂の巣城で行われたが、激しい抵抗にあった。そのことは新聞でしか知らない中学生である。
肥後小国の山林地主であった室原知幸の生涯は、59歳のときに激変する。
1957年に建設省が筑後川治水のため下筌・松原ダムの建設を計画するが、彼の住む志屋集落は水没地域。
村人の要請で、反対運動の指導者となつた彼は、ダム建設は、
「法にかない、理にかない、情にかなう」ものでなければならないとし予定地の険しい山腹に「蜂ノ巣砦」を築いた。
次々と繰り出される訴訟は、彼が大学時代に大正デモクラシーを求める学生運動の演説で聞いた
田中正造の足尾鉱毒事件に対する闘争を髣髴させるもの。
彼の過激で効果的な反対闘争のため国側が立ち往生する大闘争に発展。
彼が提示した「公権と私権の相克」という問題は70年代における住民運動のテーマ。
この蜂の巣城のゆくえはだれも予測できなかった。
ホリエモンが株の売り抜けであり、裁判官さえだました手口とは人間の深部、襞。人間の尊厳が違う。
それは事件の背景をかいたノーベル賞に最も近かった安部公房(安部公房全作品14)でさえ見通しを誤った。
事件に興味を持って熊本県まで行くが、全く相手にされず
、この事件について彼独自の見解をまとめたこの著作での彼の仮説はすべて外れた。
事実について少しでも知っている人なら、笑止の筆致である
第一蜂の巣城が行政代執行により落城すれば、第二蜂の巣城を築き、更に第三蜂の巣城を構築。
支援団体等が離れ、最後には親族だけでも彼の信念はひるまず、水没予定地にある自邸に赤地に白丸の室原旗を掲げて抵抗。テレビでも放映された。
法廷における理論斗争に情念を燃やし土地収用法の適用に対する事業認定無効確認訴訟の提起
結果は、判決に負けて訴訟に勝ったといわれるぐらい、国側の理論を圧倒。
ダム建設に必要な用地は、その大部のものが既に任意買収され、工事の進展をみている状況下で
、室原自身も「ダム反対」は逆さに読めば「対反ムダ」「大半は無駄」と常に明るい。
国などが行う公共事業の適正な在り方を訴えると共に、補償をもらって水没地域を去り、生活再建を計る地元民の利益を掩護する意思を秘めて抵抗をゆるめなかった。
知事の斡旋や、建設大臣の直接の話し合いの申し入れも全て拒否。
他方82件に及ぶ法廷での記録や、科学的根拠に裏付けられた理論の社会的、あるいは学問的価値を客観的に評価してもらうことにより、歴史上に正しく名を止めようとする意識もあってか、厳正中立の姿勢、客観的な純粋学問的立場から蜂の巣城紛争を調査研究し、論評してもらえることを模索したフシがあるともいう。
室原知幸と対峙した天草出身の東京帝大卒の野島虎治は東北の雄物川上流の鎧畑ダム1947年に赴任。
ダム屋の雄である。
ダムを絶対造らせまいとする者と、筑後川流域における人命と財産を守るために、ダムを絶対造らねばならない者との確執と葛藤。
裁いた石田哲一東京地方裁判長は
「あの判決は裁判官としての私自身の社会的良識による判断です。その訴訟でもし国を敗訴させていたら、あれ以降ほとんどの公共事業が停滞することになったでしょう。」と述懐。
室原は石田を恨むことはなかったと言う。
この三人には日の出のような美しき後日談がある。
昭和43年の秋、室原、石田、副島の三人は、耶馬渓に小旅行に出かけているのだ。
新地ノ山架橋これ恩讐の彼方我も建設省も
室原の 詠んだ歌、胸中やいかに。
この近辺の断崖絶壁は杖立温泉の背景の柱状摂理の状況でわかろう。
菊池寛の「恩讐の彼方に」の禅海和尚の境地まで昇華させてるのか。いつ、どのような方法でもって、和解の道をとればよいかをに考えていたのか人間の心理は多面体。
、昭和45年6月に室原はこの世を去り13年の闘争が終結し、真理の追求の研究は残った。
室原文庫は関大に永久保存されている。
身近には次の諸著作で知れよう。
直木賞作家・佐木隆三の『大将とわたし』(講談社・昭和51年)、
松下竜一『砦に拠る』(筑摩書房・昭和52年)
室原知幸著『下筌ダム − 蜂之巣城騒動日記 −』(学風社・昭和35)
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コメント
でも、間もなく集落や商店学校が解体され水が溜って、そしてついにいままで通っていた道や橋が沈むに至り、いいしれない恐怖を感じたのを思い出します。
「なにもかにもなくなる」という恐怖からか、小学2年生まで激しい夜泣きで、両親を困らせてしまいました。
いまは東京で暮らしています。
ときどき帰郷したときに通る湖畔の道から暗い湖面を見るたびに、村が冷たい水底に沈んでなくなることの「恐怖」をいまでも感じてます。
室原氏は、大きなものを失うことを予見されていたのでしょうか。わたしはいまも克服できていないかもしれません。