歩きだすやアジア
2005年4月24日1955年(昭和35年)バンドン会議はアジア・アフリカ独立史の転換点となった.
24日には50周年を記念する式典で半世紀前に会議の宿舎だったホテルから、道を隔てた会議場の「独立会館」までを各国首脳らが歩いた。
「独立会館」は、オランダ植民地時代に避暑地だったバンドンの社交場となった建物で、第二次大戦下では日本軍が「大東亜会館」として文化宣伝に使用したいいわくつきの歴史を背負っている。
かってインドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、インドのネール首相、エジプトのナセル大統領らが歩いた道を
小泉純一郎首相や中国の胡錦濤国家主席、南アフリカのムベキ大統領ら両大陸の各国首脳や国連のアナン事務総長が歩く。
世界遺産に登録された-熊野霊場と参詣道のみちを歩く修験道の如き思いを各国首脳は胸中に秘めて歩く。
京都・南禅院の前に美しいアーチの橋脚を見せている導水橋の「水路閣」。疎水の分流であるその南禅寺から約1.6km銀閣寺付近まで続く「哲学の道」。
命名は諸説ありドイツのハイデルベルグの「哲学に道」に由来と
哲学者西田幾太郎らが散策して思索にふけったゆえがいい。
「哲学の道」を歩く
映画での第三の男の最後の場面ウイーン中央墓地。
アリダ・ヴァリ=アンナがジョセフ・コットン=ホリーを無視してその前を歩き去る並木道
裏切り者と真実の愛を高らかに歌い上げ アンナは歩く。
では今日のアジア、アフリカの50年後の指導者たちは
バージン・ロードを希望に向かい歩くがごとくの晴れやかさがあるのか。そのように歩いているのか。
A・A諸国を見渡してみるといまだ政治的不安定で食、衛生面さえ完全ではなく、惨憺たる現状にある
ミャンマーのアウン・サン・スーチーは祖国で監視下に置かれてる毎日
韓国大統領になった金大中氏も一時は国外での活動を強いられた
ひどいのはカンボジアである。カンボジア野党第一党の党首のサム・レンシーは国外に逃れている。
かって1960年代には国造りのモデルとされ、世界三位のコメ輸出国が、いま人々が飢えに苦しむ国カンボジア・その枠外におかれてる。
カンボジアでは失業率が30%、平均寿命が53歳、1歳以下の乳幼児死亡率は1000人中130人、エイズの感染率4%、これらはアジアの中で最悪という数字。
カンボジア野党第一党の党首のサム・レンシーら3人の野党議員について、与党党首らの名誉を棄損したなどとして、刑事訴追の免責特権を剥奪する決議を賛成多数で可決。これを受けてサム・レンシーは同日、国外に脱出したが、議員の一人が国内で逮捕された
1997年のクーデターでフン・セン軍とフンシン・ペッグ軍とが対峙していたカンボジア。レンシーは副首相、駐英大使を務めた父を持ち、自身もフランスで教育を受く。夫人は初代駐日大使の娘で東京・赤坂で育ち、中央銀行副総裁も務めた
国際経験ゆえにか母国の資源配分のあり方に疑問を持ち、国内の権力者たちと衝突した。
もともとフンシンペック党から選出され、経済財政大臣として政府の腐敗を厳しく追及したが、ラナリット第一首相の逆鱗に触れ、大臣の座を追放さる。また国会議員資格も剥奪され何度も命を狙われながら政府との対決姿勢を鮮明にして活動を続けてきた。不正や悪と闘う政治家とのイメージに多くの人々が改革への期待を託している。
新聞は30社ぐらいだがサム・レンシー党系の2社のみが政府批判も含み事実を書くが、政府系の新聞のみが強力にサポートされ、言論統制をしている。
新聞の編集者トゥン・ブンリーは、いつもフンセンに対してはっきりものを言う人物だったが、モニボン通りという目抜き通りで、白昼に暗殺された。サム・レンシー党の活動家でもあった。
ジャーナリストで暗殺されたのは最近でも20人をかぞえると言う。怪我をしたのは200人を超える。
97年には、憲法委員会というのを作るべきだと、サム・レンシー党が支援者とともに市内をデモしたときに、CCP側の人間によって4発の手榴弾が投げられ17人が死亡し、200人以上が負傷。
民主主義の原則として言論の自由、出版の自由というのがあるわけで、また報道の自由という点から見てもカンボジアには民主主義が公正な形であるとは言えない。少なくとも大きな抑圧の下にある。選挙にもこれは大きな影響があるはずだ。
フンシンペック党・58議席(シハヌーク国王の王子ラナリットによる王立党)
CCP・・・・・・52議席(カンボジア人民党/フン・セン首相の政権党)
ソン・サン他党・・10議席で、ラナリットとフン・センの二人首相体制でスタート
人民党245万票、サム・レンシー党113万票、フンシンペック党107万票という開票結果
バンドン会議はこれらをも課題としてアジア・アフリカ諸国の
大同団結でEC圏に対応できる圏域を作るべき課題を背負っている。
「第三の男」を見てない人がいるようだ。福岡の方である。
オーソン・ウエルズの情熱が名画にし、アリダ・ヴァリ、ジョセフ・コットンが支えた。淀川長治に「映画美術の算数」と言わしめたミステリーに満ちた映画。また、映画のもつ芸術性と娯楽性が見事に融合した映画の教科書でもある。
日本封切1952/105 分。製作1949/105 製作国 イギリス
舞台は第二次大戦に敗北し米、英、仏、ソにより分割占領下にあるウィーン。旧オーストリア帝国の遺産である建造物、回り階段、大観覧車、地下水道、戦争で崩れた建物、瓦礫の山、カメラワーク、とてつもなきでかい地下道にオーソン・ウェルズの登場、全てが感動的。素晴らしき音楽はアントン・カラス演奏のチター。師カラス後の世界一のチターリストは宮崎・都農の河野保夫
チェコからの亡命者の登場、チェコが大戦中はナチスに占領され、戦後ソ連支配されていた事を示唆し、自由の重さがわかる。ストーリーも秀逸。タイトル・バックのツィターの弦。
ジョセフ・コットンがタバコに火を付けて、マッチの燃えさしを捨てる所で、タバコがうるさかったら、名画はない。タイトルが流れる。
「権謀渦巻く ボルジャ家 圧制支配下の イタリア は
ルネッサンス文化を生んだが 永世中立 永世平和の社会体制下の スイスが生んだのは鳩時計だけ"
人間社会の皮肉な一面の真理を突いて絶妙!
グレアム・グリーンは、原作者で脚本家、ホリーとアンナの二人は肩を並べて墓地から去るハッピーエンドーで映画とは丸反対。
監督のキャロル・リードがこれを、アンナがホリーには見向きもせずに立ち去る失恋の筋書きに変えた。セリフもオーソン・ウエルズが考え出した。 この映画の不思議さは、原作者の意図を越えて、ハリーなる人が創造され、巧妙に演じたことだ 原作者のグレアム・グリーンは映画が完成したあと不満をのべたがアントン・カラスの作曲・演奏するツィターの音色とともに、世界の映画ファンを熱狂させると映画の結末として、これが一番ふさわしいことを認めたそうである。
エリダ・ヴァリ=アンナがジョセフ・コットン=ホリーを無視してその前を歩き去る並木道は、当時のママ。
一歩づつ確実に歩く。
見積り依頼を二件いただく。とにかく確実なる一歩である。
http://blog.with2.net/link.php/34016
24日には50周年を記念する式典で半世紀前に会議の宿舎だったホテルから、道を隔てた会議場の「独立会館」までを各国首脳らが歩いた。
「独立会館」は、オランダ植民地時代に避暑地だったバンドンの社交場となった建物で、第二次大戦下では日本軍が「大東亜会館」として文化宣伝に使用したいいわくつきの歴史を背負っている。
かってインドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、インドのネール首相、エジプトのナセル大統領らが歩いた道を
小泉純一郎首相や中国の胡錦濤国家主席、南アフリカのムベキ大統領ら両大陸の各国首脳や国連のアナン事務総長が歩く。
世界遺産に登録された-熊野霊場と参詣道のみちを歩く修験道の如き思いを各国首脳は胸中に秘めて歩く。
京都・南禅院の前に美しいアーチの橋脚を見せている導水橋の「水路閣」。疎水の分流であるその南禅寺から約1.6km銀閣寺付近まで続く「哲学の道」。
命名は諸説ありドイツのハイデルベルグの「哲学に道」に由来と
哲学者西田幾太郎らが散策して思索にふけったゆえがいい。
「哲学の道」を歩く
映画での第三の男の最後の場面ウイーン中央墓地。
アリダ・ヴァリ=アンナがジョセフ・コットン=ホリーを無視してその前を歩き去る並木道
裏切り者と真実の愛を高らかに歌い上げ アンナは歩く。
では今日のアジア、アフリカの50年後の指導者たちは
バージン・ロードを希望に向かい歩くがごとくの晴れやかさがあるのか。そのように歩いているのか。
A・A諸国を見渡してみるといまだ政治的不安定で食、衛生面さえ完全ではなく、惨憺たる現状にある
ミャンマーのアウン・サン・スーチーは祖国で監視下に置かれてる毎日
韓国大統領になった金大中氏も一時は国外での活動を強いられた
ひどいのはカンボジアである。カンボジア野党第一党の党首のサム・レンシーは国外に逃れている。
かって1960年代には国造りのモデルとされ、世界三位のコメ輸出国が、いま人々が飢えに苦しむ国カンボジア・その枠外におかれてる。
カンボジアでは失業率が30%、平均寿命が53歳、1歳以下の乳幼児死亡率は1000人中130人、エイズの感染率4%、これらはアジアの中で最悪という数字。
カンボジア野党第一党の党首のサム・レンシーら3人の野党議員について、与党党首らの名誉を棄損したなどとして、刑事訴追の免責特権を剥奪する決議を賛成多数で可決。これを受けてサム・レンシーは同日、国外に脱出したが、議員の一人が国内で逮捕された
1997年のクーデターでフン・セン軍とフンシン・ペッグ軍とが対峙していたカンボジア。レンシーは副首相、駐英大使を務めた父を持ち、自身もフランスで教育を受く。夫人は初代駐日大使の娘で東京・赤坂で育ち、中央銀行副総裁も務めた
国際経験ゆえにか母国の資源配分のあり方に疑問を持ち、国内の権力者たちと衝突した。
もともとフンシンペック党から選出され、経済財政大臣として政府の腐敗を厳しく追及したが、ラナリット第一首相の逆鱗に触れ、大臣の座を追放さる。また国会議員資格も剥奪され何度も命を狙われながら政府との対決姿勢を鮮明にして活動を続けてきた。不正や悪と闘う政治家とのイメージに多くの人々が改革への期待を託している。
新聞は30社ぐらいだがサム・レンシー党系の2社のみが政府批判も含み事実を書くが、政府系の新聞のみが強力にサポートされ、言論統制をしている。
新聞の編集者トゥン・ブンリーは、いつもフンセンに対してはっきりものを言う人物だったが、モニボン通りという目抜き通りで、白昼に暗殺された。サム・レンシー党の活動家でもあった。
ジャーナリストで暗殺されたのは最近でも20人をかぞえると言う。怪我をしたのは200人を超える。
97年には、憲法委員会というのを作るべきだと、サム・レンシー党が支援者とともに市内をデモしたときに、CCP側の人間によって4発の手榴弾が投げられ17人が死亡し、200人以上が負傷。
民主主義の原則として言論の自由、出版の自由というのがあるわけで、また報道の自由という点から見てもカンボジアには民主主義が公正な形であるとは言えない。少なくとも大きな抑圧の下にある。選挙にもこれは大きな影響があるはずだ。
フンシンペック党・58議席(シハヌーク国王の王子ラナリットによる王立党)
CCP・・・・・・52議席(カンボジア人民党/フン・セン首相の政権党)
ソン・サン他党・・10議席で、ラナリットとフン・センの二人首相体制でスタート
人民党245万票、サム・レンシー党113万票、フンシンペック党107万票という開票結果
バンドン会議はこれらをも課題としてアジア・アフリカ諸国の
大同団結でEC圏に対応できる圏域を作るべき課題を背負っている。
「第三の男」を見てない人がいるようだ。福岡の方である。
オーソン・ウエルズの情熱が名画にし、アリダ・ヴァリ、ジョセフ・コットンが支えた。淀川長治に「映画美術の算数」と言わしめたミステリーに満ちた映画。また、映画のもつ芸術性と娯楽性が見事に融合した映画の教科書でもある。
日本封切1952/105 分。製作1949/105 製作国 イギリス
舞台は第二次大戦に敗北し米、英、仏、ソにより分割占領下にあるウィーン。旧オーストリア帝国の遺産である建造物、回り階段、大観覧車、地下水道、戦争で崩れた建物、瓦礫の山、カメラワーク、とてつもなきでかい地下道にオーソン・ウェルズの登場、全てが感動的。素晴らしき音楽はアントン・カラス演奏のチター。師カラス後の世界一のチターリストは宮崎・都農の河野保夫
チェコからの亡命者の登場、チェコが大戦中はナチスに占領され、戦後ソ連支配されていた事を示唆し、自由の重さがわかる。ストーリーも秀逸。タイトル・バックのツィターの弦。
ジョセフ・コットンがタバコに火を付けて、マッチの燃えさしを捨てる所で、タバコがうるさかったら、名画はない。タイトルが流れる。
「権謀渦巻く ボルジャ家 圧制支配下の イタリア は
ルネッサンス文化を生んだが 永世中立 永世平和の社会体制下の スイスが生んだのは鳩時計だけ"
人間社会の皮肉な一面の真理を突いて絶妙!
グレアム・グリーンは、原作者で脚本家、ホリーとアンナの二人は肩を並べて墓地から去るハッピーエンドーで映画とは丸反対。
監督のキャロル・リードがこれを、アンナがホリーには見向きもせずに立ち去る失恋の筋書きに変えた。セリフもオーソン・ウエルズが考え出した。 この映画の不思議さは、原作者の意図を越えて、ハリーなる人が創造され、巧妙に演じたことだ 原作者のグレアム・グリーンは映画が完成したあと不満をのべたがアントン・カラスの作曲・演奏するツィターの音色とともに、世界の映画ファンを熱狂させると映画の結末として、これが一番ふさわしいことを認めたそうである。
エリダ・ヴァリ=アンナがジョセフ・コットン=ホリーを無視してその前を歩き去る並木道は、当時のママ。
一歩づつ確実に歩く。
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