パリッ!!
2005年4月26日黒糖かりんとうは茶、コーヒーと受けがいい。疲れを取るために糖分は棚とかのどこかに隠してある秘密の食べ物であった。
黒砂糖は塊をそのまま齧るがその固かったこと!、歯の抜け替わる時期の少年たる私の盗み食いをばらされる結果を強いられた。
黄色の丸型ブリキ缶に入っていたのは「黒あめ」の「那智黒」。
素朴で昔気質な黒あめを食する懐かしさをかみしめた。
一粒の飴にこだわりる素朴で昔気質な黒あめ造りの菓子職人技の100年の歳月を思い浮かべた。
黒砂糖類はのどや体にやさしい自然食品当世は飽食の時代もありそう喜ばれる食ではなくなってるようである。
ミツゲンなる偽糖分も不足する糖分を補うために使われた時代の産物であったのであろう。
新聞によるとスナック世代の台頭でおみやげの定番のせんべい類の売り上げが減ってきているという
しょうゆ味の手焼きとその「かたさ」の「ポリッ!」が伝統の味だが、その「かたさ」が敬遠されてるそうだ。
日本歯周病学会のセミナーで「噛むことはなぜ大切か」で斎藤滋幹事が実験結果を披露。
現代人が1回の食事でかむ回数は平均620回、弥生時代の約4000回の6分の1以下、
戦前に比べても2分の1以下に減った。
弥生期の献立といえば、乾物や木の実の乾燥したもの、玄米のおこわ。いかにも固そうでかみ応えがありそう。
現代人はスナック世代でやわらかく、あまりかまなくても味覚を満足させる食べ物に慣れ切っている。
かむことには消化を助け、肥満予防や脳の活性化に効果があるという。
「現代風草加せんべい」のPRに「従来のせんべいよりやわらかい口当たり」とある。背に腹はかえられぬ、
何か抗議のせんべいのこえがきこえてくる。パリッ!
ありえないせんべいの変化である。
変化しないのは大自然の風景は大分県湯布院町
一夜千両のお湯が沸く別府の奥座敷でお湯の中で「極楽、極楽」とつぶやく気分を味わいそこねた。一昨日はその地での宿泊予定の行事をキャンセルしたが、そこに参加された福岡と延岡の方々がお目見えされた。
資金作りの時間とダブッたためおざなりな対応であった。
楽しそうに朝4時まで飲み明かされたと言う。親鸞とかの宗教論ありで由布院を満喫されたようである。
この地は「別府観光の父」油屋熊八(1863〜1935)を抜きには語れない。別府公園内にある顕彰碑のその人のことである。
「亀の井ホテル」「亀の井別荘」「亀の井バス」を残した訳だが宮崎の岩切正太郎に酷似。
今では「亀の井ホテル」は高鍋町でも楽しめる。
この奥座敷由布院の大正時代の開拓者は愛媛県宇和島市出身
さらにはあの温泉マークの発案者として知られる。
1928(昭和3年)、亀の井バスの前身「亀の井自動車」の観光バスが、女性ガイドを乗せて走り始めた。別府湾をスタートし、温泉の噴気や熱泥が噴き出す「地獄」を回るコース。
初代ガイドの村上アヤメ(93歳)は健在。
ここは名高い流れ川
情けのあつい湯の街を
真すぐに通る大通り
旅館商店軒並び
夜は不夜城でございます……
七・五調に整えられた案内文は、別府をよく訪れていた菊池寛の監修といわれるだけに心地よい。
身長5尺2寸5分の160センチ足らず。はげ頭にまん丸の眼鏡。まんじゅうが大好き。酒は飲まない。右の手のひらが異様に大きいのが自慢とくればなんか書いてる人そのものではないか。
「いつもキャラメルを上着の両方のポケットにいっぱい入れて、下はニッカーボッカーだから格好悪いったらありゃしない。そのキャラメルを、子どもに出会うたびに一つずつあげるのが、とても楽しそうだった、と。豪胆で、借金も構わずばかげたことを平気でやってしまう一方で、非常にきめの細かいソフトな人だった」とくればシタリとひざを打つ由布院にいけなかった私。
奇想天外、進取果敢。富士山に立てた別府宣伝の看板といい、逸話に事欠かない営業。会社立ち上げの天賦の才。
年間稼働率90%の人気旅館、亀の井別荘も熊八の手になる。
その総決算が湯布院である。
このまちには熊八が説いた「もてなしのこころ」がよく似合う。
全て宮崎の先駆をなしている。
大地の音符となりしや、湯布院で過ごされた方。
多忙さも重なり何一つ出来ない自分が悔しくてならぬ。
共有時間を充分いただいたことはない。
バリッ!黒砂糖かりんとうを塩辛く食らう。
湯布院は親鸞の語らい鶴みだけ(鶴見岳)。
http://blog.with2.net/link.php/34016
黒砂糖は塊をそのまま齧るがその固かったこと!、歯の抜け替わる時期の少年たる私の盗み食いをばらされる結果を強いられた。
黄色の丸型ブリキ缶に入っていたのは「黒あめ」の「那智黒」。
素朴で昔気質な黒あめを食する懐かしさをかみしめた。
一粒の飴にこだわりる素朴で昔気質な黒あめ造りの菓子職人技の100年の歳月を思い浮かべた。
黒砂糖類はのどや体にやさしい自然食品当世は飽食の時代もありそう喜ばれる食ではなくなってるようである。
ミツゲンなる偽糖分も不足する糖分を補うために使われた時代の産物であったのであろう。
新聞によるとスナック世代の台頭でおみやげの定番のせんべい類の売り上げが減ってきているという
しょうゆ味の手焼きとその「かたさ」の「ポリッ!」が伝統の味だが、その「かたさ」が敬遠されてるそうだ。
日本歯周病学会のセミナーで「噛むことはなぜ大切か」で斎藤滋幹事が実験結果を披露。
現代人が1回の食事でかむ回数は平均620回、弥生時代の約4000回の6分の1以下、
戦前に比べても2分の1以下に減った。
弥生期の献立といえば、乾物や木の実の乾燥したもの、玄米のおこわ。いかにも固そうでかみ応えがありそう。
現代人はスナック世代でやわらかく、あまりかまなくても味覚を満足させる食べ物に慣れ切っている。
かむことには消化を助け、肥満予防や脳の活性化に効果があるという。
「現代風草加せんべい」のPRに「従来のせんべいよりやわらかい口当たり」とある。背に腹はかえられぬ、
何か抗議のせんべいのこえがきこえてくる。パリッ!
ありえないせんべいの変化である。
変化しないのは大自然の風景は大分県湯布院町
一夜千両のお湯が沸く別府の奥座敷でお湯の中で「極楽、極楽」とつぶやく気分を味わいそこねた。一昨日はその地での宿泊予定の行事をキャンセルしたが、そこに参加された福岡と延岡の方々がお目見えされた。
資金作りの時間とダブッたためおざなりな対応であった。
楽しそうに朝4時まで飲み明かされたと言う。親鸞とかの宗教論ありで由布院を満喫されたようである。
この地は「別府観光の父」油屋熊八(1863〜1935)を抜きには語れない。別府公園内にある顕彰碑のその人のことである。
「亀の井ホテル」「亀の井別荘」「亀の井バス」を残した訳だが宮崎の岩切正太郎に酷似。
今では「亀の井ホテル」は高鍋町でも楽しめる。
この奥座敷由布院の大正時代の開拓者は愛媛県宇和島市出身
さらにはあの温泉マークの発案者として知られる。
1928(昭和3年)、亀の井バスの前身「亀の井自動車」の観光バスが、女性ガイドを乗せて走り始めた。別府湾をスタートし、温泉の噴気や熱泥が噴き出す「地獄」を回るコース。
初代ガイドの村上アヤメ(93歳)は健在。
ここは名高い流れ川
情けのあつい湯の街を
真すぐに通る大通り
旅館商店軒並び
夜は不夜城でございます……
七・五調に整えられた案内文は、別府をよく訪れていた菊池寛の監修といわれるだけに心地よい。
身長5尺2寸5分の160センチ足らず。はげ頭にまん丸の眼鏡。まんじゅうが大好き。酒は飲まない。右の手のひらが異様に大きいのが自慢とくればなんか書いてる人そのものではないか。
「いつもキャラメルを上着の両方のポケットにいっぱい入れて、下はニッカーボッカーだから格好悪いったらありゃしない。そのキャラメルを、子どもに出会うたびに一つずつあげるのが、とても楽しそうだった、と。豪胆で、借金も構わずばかげたことを平気でやってしまう一方で、非常にきめの細かいソフトな人だった」とくればシタリとひざを打つ由布院にいけなかった私。
奇想天外、進取果敢。富士山に立てた別府宣伝の看板といい、逸話に事欠かない営業。会社立ち上げの天賦の才。
年間稼働率90%の人気旅館、亀の井別荘も熊八の手になる。
その総決算が湯布院である。
このまちには熊八が説いた「もてなしのこころ」がよく似合う。
全て宮崎の先駆をなしている。
大地の音符となりしや、湯布院で過ごされた方。
多忙さも重なり何一つ出来ない自分が悔しくてならぬ。
共有時間を充分いただいたことはない。
バリッ!黒砂糖かりんとうを塩辛く食らう。
湯布院は親鸞の語らい鶴みだけ(鶴見岳)。
http://blog.with2.net/link.php/34016
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