国つくりの隼人・熊襲・日向
2005年5月4日熊襲・隼人の国の日本電気硝子製のオーリング、パッキンの交換工事にいった。営業せきやん転じて工事屋せきやん!ではどうにも心もとない。ご心配めされるな。私は現場ではオロオロするばかりで実際は一級電気士の方がほとんどで足手まといでした、正直。
それはさておき、実に不思議な妙な気持ちで軽い眩暈で鹿児島との縁を浮かべ国の基本、憲法記念日を偲んで書いている。
日向神話の怨霊がいまだ漂ってるやも知れぬ。・・キテル!あぶない!(笑)
憲法記念日の昨日は、敬愛する先輩のハンドルで青島・曽山寺を個別にまわった。その後、神式の結婚式のときの祝詞に出てくる阿波岐原地区を回った。
どうにもこの組み合わせが不思議な御仁との出会いとなり、冒頭の書き出しの不思議さである。
どこの国も国づくりの神話を持つ。わが国は古事記日本書紀いわゆる記紀が初代天皇神武以前の4代までの話を綴り、我等に迫る。いわゆる、いざなぎ・イザナミに始まる国づくりで日向神話の場所が点在する
イザナミを黄泉の国へ訪ねたが膿と蛆の姿の死をみととげて逃げ帰り、檍原でみそぎ祓いをする。
左の目から天照大神、右からツキヨミ命、鼻を洗うとスサノオ尊が生まれる。
「筑紫日向小戸橘檍原」の祝詞の地いずれも古代日向がその舞台である。文化不毛文化果つる土地、陸の孤島のこの地がである。
その生活の中心地はどこか。西都市である。男狭穂、女狭穂はニニギ尊・木花之佐久夜比賣(コノハナサクヤヒメ)の墳墓との言い伝えで宮内庁ご参考墓地が権威付け真実性を持たせる。
先日科学のメスが入れられたが結果が待たれる。
ニニギの尊と木花之佐久夜比賣の間に生まれる子供が山幸彦・海幸彦「山幸彦が釣り針を無くしてしまった話」は、なにも修身の読本でなく小学校の国語とかで自然に覚えたお話である。
山幸彦の孫が神武天皇ということになり統一政府を作り日向を船出した初代天皇神武を受け継ぐ今日の天皇家である。
、海幸彦は地元で怨霊として残る隼人族。実に痛快無比なお話である。
文化的優位性は必ずしも政治的優位性を物語るものではないことを言ってることでもある。お会いした御仁の説がいい
山幸の住んだ地が西都市都於郡、高屋山陵。鎌倉頼朝より建久元年(1190年) 日向の地頭職に拝領した工藤祐径の子孫。祐経の子 祐時から伊東氏と名乗った
建武四年(1337年)伊東家五代目 貞祐は、足利尊氏に仕え功績を挙げ 都於郡の地を賜った、本家を伊豆から日向に下り 都於郡に居城を築いた。
ここでなぜこの地なのかの疑問が残る。
古代、景行天皇の大和朝に従わぬ熊襲征伐に、六年をかけた日向国都於郡・高屋を拠点に留まった。
このことは中央には知れ渡った事であるはず。
もうひとつが権威付け。皇族たる山幸彦の住家であったから景行天皇もこの地とした。その後伊東氏も奉った。
伊東を大分に追いやった島津の狙いもここにあった。
皇族の島津領下への変更の下地つくりである。
伊東氏を滅ぼし都於郡の浮き船の城に入城して島津氏の目にしたものは皇族の墓であった。!日本全体の支配者足らん!皇族の祖は島津である!島津の野望は大きく膨らんだ。記紀で言う日向のところをそっくり鹿児島に移した。時間をかけた壮大なる捏造である。昭和15年ごろ日本を二分した天孫降臨の地の鹿児島説VS高千穂・日向説の論争の背景である。山幸の身柄を都於小北側お城への本道沿いの一乗院へ移した。穢れの血統の正当化である。
天孫降臨にしろ、神武以前のそれぞれの地が日向・鹿児島に二分してる要因の全ては島津氏の日本支配への礎である。
宮崎大学教育学部の金子弘二教授(岩石鉱物学)によると、
宮崎平野は海の底だった地層「宮崎層群」が隆起してできたという。「この地層に約八百万年から三百万年前の太古の海水成分が“パッケージ”されている可能性が高い」と説明する。
都於郡・高屋温泉の湯船に体を沈める。手のひらにすくった透明な湯を口に含がいい!実に塩辛い。!標高100メートルの山頂でこれだ!。「地球の歴史」、山幸彦らの「神話の歴」を感じられずにはおれない。、同温泉から北東約一キロの鹿野田神社は、「古事記」の山幸彦(彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))を祭る。
海幸、山幸は近くに住んでいたのだ都於郡域内の巨田が海幸で都於郡が山幸である。
宮崎平野を形成する標高12メートルを図表化してみるとスッポリと海中化してしまう。御仁は知り尽くされている。
西都原から石貫神社の階段を下り妻神社に至る地形は海岸段丘そのものではないか。古代人の生活環境がスッキリそこに浮かんでこないか。一ッ瀬川は悠久のの大河で大きく流れていたのであろう。
照葉樹あふれる地球環境で噴火を終えた後の海水水位であったのだ。 天照大神は稲・麦などを田畑に植えさせ、また蚕を飼わせて、万民を慈しみ、お恵みになった。瑞穂の国たる日本である。
安井息軒は今の東大総長を勤めた伊東藩の支城の清武の人。政3年(1820年)、大阪遊学の決まった21歳の息軒は、故郷の思いでにと藩主伊東氏の古跡都於郡を訪ね、 和歌を中心とした紀行文「志濃武草(しのぶぐさ)」を書く。息軒最初の著書。兄清渓(せいけい)が序文をよせ、父滄洲(そうしゅう)にこの書を奉じた
家族の期待を胸に大阪に旅立った息軒に、翌年兄清渓(せいけい)の急死が知らされ、その悲しみの中、猛勉強に励む。生活は質素そのもの。後に息軒は、門弟の谷干城(たにたてき。西南戦争時の熊本城の総隊長で西郷軍を追い払った。)に大阪での生活を、話す。
「私は10両の金をもって大阪へ出て3年修行をしたが、3年の内そば屋に入ったことが3度だけあった。それも連れがあり仕方なくだった。どこへ行っても食事は邸内に帰ってからとった。外で食事すればお金がかかるから。」
ニニギの尊に「この子の姉の石長比賣(いわながひめ)も一緒に」と姉妹揃えてニニギの尊のお嫁さんに差し出す。ところがこのお姉さんの石長比賣はシコメ。あまり容姿がよくなかったもので、ニニギの尊は石長比賣を追い返し、木花之佐久夜比賣だけと一夜を共にする。それを聞いた義父たる大山津見神はニニギの尊に「二人の姉妹を共に嫁に差し出したわけは、石長比賣が貴方様のそばにいれば貴方様は岩のごとく不老不死になり、木花之佐久夜比賣がそばにいれば木の花の栄えるようにその身は栄えるからでございます。しかし、石長比賣を追い返されて木花之佐久夜比賣だけを妻にするとならば、貴方様のお命は木の花の散るごとくはかないものとなります。」と言う。だから歴代の天皇は短命なのだ、と「古事記」は言う。木花咲姫とも書ける。木の花の散る如くはかない散り方をする桜花。木花之佐久夜比賣というのは桜の花の化身であったわけである。
古来、桜の花は農作業を始める時期の目安になる野生の花たる山桜。瑞穂の国の人々は今日の花見でなく、農耕生活の基準の自然からの告知花だったわけだ。
花見の風習も一年の耕作の開始を告げる桜の花をめでることによって秋の収穫を祈る、という農耕信仰から来ている訳である。
木花佐久夜比賣は農耕神でもあり、霊峰富士山に宿る神様も木花之佐久夜比賣がご祭神である。
太陽光発電に携わると実にいろんな方々に接することが出来る
今日の鹿児島の方は10億をもかけての浄財を集め壮大なる風力発電所を鹿児島山頂に建設した有名人。やることが違う。せせこましくしてない流石の隼人の末裔。
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それはさておき、実に不思議な妙な気持ちで軽い眩暈で鹿児島との縁を浮かべ国の基本、憲法記念日を偲んで書いている。
日向神話の怨霊がいまだ漂ってるやも知れぬ。・・キテル!あぶない!(笑)
憲法記念日の昨日は、敬愛する先輩のハンドルで青島・曽山寺を個別にまわった。その後、神式の結婚式のときの祝詞に出てくる阿波岐原地区を回った。
どうにもこの組み合わせが不思議な御仁との出会いとなり、冒頭の書き出しの不思議さである。
どこの国も国づくりの神話を持つ。わが国は古事記日本書紀いわゆる記紀が初代天皇神武以前の4代までの話を綴り、我等に迫る。いわゆる、いざなぎ・イザナミに始まる国づくりで日向神話の場所が点在する
イザナミを黄泉の国へ訪ねたが膿と蛆の姿の死をみととげて逃げ帰り、檍原でみそぎ祓いをする。
左の目から天照大神、右からツキヨミ命、鼻を洗うとスサノオ尊が生まれる。
「筑紫日向小戸橘檍原」の祝詞の地いずれも古代日向がその舞台である。文化不毛文化果つる土地、陸の孤島のこの地がである。
その生活の中心地はどこか。西都市である。男狭穂、女狭穂はニニギ尊・木花之佐久夜比賣(コノハナサクヤヒメ)の墳墓との言い伝えで宮内庁ご参考墓地が権威付け真実性を持たせる。
先日科学のメスが入れられたが結果が待たれる。
ニニギの尊と木花之佐久夜比賣の間に生まれる子供が山幸彦・海幸彦「山幸彦が釣り針を無くしてしまった話」は、なにも修身の読本でなく小学校の国語とかで自然に覚えたお話である。
山幸彦の孫が神武天皇ということになり統一政府を作り日向を船出した初代天皇神武を受け継ぐ今日の天皇家である。
、海幸彦は地元で怨霊として残る隼人族。実に痛快無比なお話である。
文化的優位性は必ずしも政治的優位性を物語るものではないことを言ってることでもある。お会いした御仁の説がいい
山幸の住んだ地が西都市都於郡、高屋山陵。鎌倉頼朝より建久元年(1190年) 日向の地頭職に拝領した工藤祐径の子孫。祐経の子 祐時から伊東氏と名乗った
建武四年(1337年)伊東家五代目 貞祐は、足利尊氏に仕え功績を挙げ 都於郡の地を賜った、本家を伊豆から日向に下り 都於郡に居城を築いた。
ここでなぜこの地なのかの疑問が残る。
古代、景行天皇の大和朝に従わぬ熊襲征伐に、六年をかけた日向国都於郡・高屋を拠点に留まった。
このことは中央には知れ渡った事であるはず。
もうひとつが権威付け。皇族たる山幸彦の住家であったから景行天皇もこの地とした。その後伊東氏も奉った。
伊東を大分に追いやった島津の狙いもここにあった。
皇族の島津領下への変更の下地つくりである。
伊東氏を滅ぼし都於郡の浮き船の城に入城して島津氏の目にしたものは皇族の墓であった。!日本全体の支配者足らん!皇族の祖は島津である!島津の野望は大きく膨らんだ。記紀で言う日向のところをそっくり鹿児島に移した。時間をかけた壮大なる捏造である。昭和15年ごろ日本を二分した天孫降臨の地の鹿児島説VS高千穂・日向説の論争の背景である。山幸の身柄を都於小北側お城への本道沿いの一乗院へ移した。穢れの血統の正当化である。
天孫降臨にしろ、神武以前のそれぞれの地が日向・鹿児島に二分してる要因の全ては島津氏の日本支配への礎である。
宮崎大学教育学部の金子弘二教授(岩石鉱物学)によると、
宮崎平野は海の底だった地層「宮崎層群」が隆起してできたという。「この地層に約八百万年から三百万年前の太古の海水成分が“パッケージ”されている可能性が高い」と説明する。
都於郡・高屋温泉の湯船に体を沈める。手のひらにすくった透明な湯を口に含がいい!実に塩辛い。!標高100メートルの山頂でこれだ!。「地球の歴史」、山幸彦らの「神話の歴」を感じられずにはおれない。、同温泉から北東約一キロの鹿野田神社は、「古事記」の山幸彦(彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))を祭る。
海幸、山幸は近くに住んでいたのだ都於郡域内の巨田が海幸で都於郡が山幸である。
宮崎平野を形成する標高12メートルを図表化してみるとスッポリと海中化してしまう。御仁は知り尽くされている。
西都原から石貫神社の階段を下り妻神社に至る地形は海岸段丘そのものではないか。古代人の生活環境がスッキリそこに浮かんでこないか。一ッ瀬川は悠久のの大河で大きく流れていたのであろう。
照葉樹あふれる地球環境で噴火を終えた後の海水水位であったのだ。 天照大神は稲・麦などを田畑に植えさせ、また蚕を飼わせて、万民を慈しみ、お恵みになった。瑞穂の国たる日本である。
安井息軒は今の東大総長を勤めた伊東藩の支城の清武の人。政3年(1820年)、大阪遊学の決まった21歳の息軒は、故郷の思いでにと藩主伊東氏の古跡都於郡を訪ね、 和歌を中心とした紀行文「志濃武草(しのぶぐさ)」を書く。息軒最初の著書。兄清渓(せいけい)が序文をよせ、父滄洲(そうしゅう)にこの書を奉じた
家族の期待を胸に大阪に旅立った息軒に、翌年兄清渓(せいけい)の急死が知らされ、その悲しみの中、猛勉強に励む。生活は質素そのもの。後に息軒は、門弟の谷干城(たにたてき。西南戦争時の熊本城の総隊長で西郷軍を追い払った。)に大阪での生活を、話す。
「私は10両の金をもって大阪へ出て3年修行をしたが、3年の内そば屋に入ったことが3度だけあった。それも連れがあり仕方なくだった。どこへ行っても食事は邸内に帰ってからとった。外で食事すればお金がかかるから。」
ニニギの尊に「この子の姉の石長比賣(いわながひめ)も一緒に」と姉妹揃えてニニギの尊のお嫁さんに差し出す。ところがこのお姉さんの石長比賣はシコメ。あまり容姿がよくなかったもので、ニニギの尊は石長比賣を追い返し、木花之佐久夜比賣だけと一夜を共にする。それを聞いた義父たる大山津見神はニニギの尊に「二人の姉妹を共に嫁に差し出したわけは、石長比賣が貴方様のそばにいれば貴方様は岩のごとく不老不死になり、木花之佐久夜比賣がそばにいれば木の花の栄えるようにその身は栄えるからでございます。しかし、石長比賣を追い返されて木花之佐久夜比賣だけを妻にするとならば、貴方様のお命は木の花の散るごとくはかないものとなります。」と言う。だから歴代の天皇は短命なのだ、と「古事記」は言う。木花咲姫とも書ける。木の花の散る如くはかない散り方をする桜花。木花之佐久夜比賣というのは桜の花の化身であったわけである。
古来、桜の花は農作業を始める時期の目安になる野生の花たる山桜。瑞穂の国の人々は今日の花見でなく、農耕生活の基準の自然からの告知花だったわけだ。
花見の風習も一年の耕作の開始を告げる桜の花をめでることによって秋の収穫を祈る、という農耕信仰から来ている訳である。
木花佐久夜比賣は農耕神でもあり、霊峰富士山に宿る神様も木花之佐久夜比賣がご祭神である。
太陽光発電に携わると実にいろんな方々に接することが出来る
今日の鹿児島の方は10億をもかけての浄財を集め壮大なる風力発電所を鹿児島山頂に建設した有名人。やることが違う。せせこましくしてない流石の隼人の末裔。
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