ベアテの贈り物

2005年5月5日
お昼にお食事の招待の誘いがあり、ご相伴にあやかったうれしき子供の日。金欠のおり、ありがたき援軍、パワーを奪われしこと続きの中で特筆できる出来事。そこでのお話。未熟児で生まれられたお孫さんの力強さのことである。
一才なのに実に我慢強く、生みの苦しみを乗り越えたほどどうもガマン強く逞しいとの説。お孫さんゆえの贔屓目を差し引いてもその真実性は、いずれにも当てはまることやも知れぬ。

わが国は明治維新と敗戦後の出発と二度のスタートをしている。
それぞれ国家目標たる憲法を定めて出発した。

5月岩波ホールでに封切られる「ベアテの贈り物」は新憲法制定の経緯が憲法24条の草案を作った、ベアテ・シロタ・ゴードン女史の立場から描かれてる

制作費3000万は製作委員会代表・赤松良子 副代表・落合良 事務局長・岩田喜美枝の寄付金の呼びかけで捻出できた。

監督は 藤原智子でこの人は「ルイズ その旅立ち」(1997年)、「夢は時をこえてー津田梅子が紡いだ絆」(2000年)など多くのドキュメンタリー映画を演出撮って数多くの授賞のドキュメンタリー映画作家。
「ルイズ その旅立ち」は大正12年9月1日、の関東大震災に便乗して大杉栄との伊藤野枝を虐殺した亀戸事件の遺児を描いた。

「戦後、60年近く、一度も日本国憲法が改正されなかったのは、よい憲法だったから」と1923年生まれのベアテさんは、82歳。リストの再来と謳われたロシアのピアニスト、レオ・シロタの娘としてウィーンに生れた。
彼女が5歳の時、山田耕作の招聘でお父さんが東京音楽学校に赴任するに伴い、一家は来日して東京の乃木坂に住まうことになり、ベアテさんも15歳までの少女時代を過ごし、日本の庶民や芸術家などと交わりながら成長した。

 1939年、勉学にため単身渡米、やがて日米開戦。そのため日本にいる両親とは引き離され、学資もとだえてしまう。6か国語に堪能という語学力を生かして勉学とアルバイトをつづけ最優秀の成績で卒業、日本の敗戦と両親の消息を背負いタイム誌で働き、両親の消息を探す。1945年の12月24日、クリスマス・イヴの日にGHQのスタッフの一員として、5年ぶりに再来日。ベアテさんは、軽井沢に移住させられていた両親と劇的な再会を果す。

彼女の人生で最大の出来事は、GHQ民政局のスタッフの一員として
日本国憲法の作成に携わったこと。この話はジェームス三木原作『真珠の首飾り』で舞台にかけられる。6/22(水) 宮崎県立芸術劇場 演劇ホール 、6/25(土) 都城市民会館
真珠の美しい光沢は、アコヤ貝の中で苦悶しつつ絞り出されて、だんだん重なって生まれるものだ。GHO民政局にしても、他国の憲法をたった一週間でひねりだすには、相当な苦悶があっただろう。その部分の再現を試みたのがこの芝居である。私は日本国憲法を、103粒の真珠になぞらえたつもりだ(ジェームス三木談)

聞いた?作品名?そうです!第二次大戦中に戦死したグレン・ミラーの音楽で、戦後になって世界中を席捲した。この芝居の主題曲 グレン・ミラーが妻の誕生日にプレゼントしたのが〔真珠の首飾り〕である。占領軍司令官マッカーサー元帥も、戦後の日本に新憲法をプレゼントするという意識があったのではないか。押しつけといわれようとも実に美しく燦然と輝てる難産の産物。
日本政府案、民間の憲法研究会案、GHQ案ど、百家争鳴の時代背景、で産声を上げたのである。未熟児は自ら育つ!
話を戻そう。彼女は得意な語学力を駆使して憲法案作成準備作業に活躍し、さらに人権に関する草案作成小委員会のひとりとして、とくに日本の女性の権利条項を具体的に明記することにこだわりつづけた。
 日本で育ち、日本人を愛し、日本の女性がおかれていたさまざまの理不尽な状況をよく知っていた、当時22歳の彼女の情熱と涙が、日本政府側(もちろん男ばかり)の「日本には、女性が男性と同じ権利をもつ土壌はない。日本女性には適さない」という抵抗を押しきり、現行憲法第24条の「婚姻は、両性の同意のみに基づく」「夫婦が平等の権利を有する」という基本理念を掲げさせた。24条生みの親。
「5歳から15歳まで過ごした日本は、母国オーストリアよりもふるさと」というベアテさんの改憲風潮への懸念。新憲法はどうなるのか。

「14年の政変」と言う。 1881年(明治14)明治政府の筆頭参議だった大隈重信が,憲法制定・国会開設,それに北海道開拓使の官有物払い下げの疑惑などにおける対立が原因で,大隈の配下にあった矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄他多くの福澤門下も一斉に職を追われるという事件で政府から一掃された政変をいう
。1880年4月,国会期成同盟の成立および国会開設の請願は,右大臣の岩倉具視らは欽定憲法の調査を上奏し,各参議に
意見を述べさせることに決めた。1881年3月大隈は,政党官と永久官を区別した政党内閣制,本年中に欽定憲法制定,2年後に国会開設を上奏し伊藤博文らと衝突した。また北海道開拓使長,黒田清隆の官有物払い下げ,1,400万円の国費をかけた事業を,38万円無利息30年賦という条件で薩摩生まれの政商五代友厚らの関西貿易商会に払い下げるという決定にも大隈は反対し
,反大隈の薩長派は大隈・福沢諭吉・三菱の反政府陰謀説を口実に大隈一派を政府から追放した。
この時、同時に10年後の国会開設政府によって約束され日本近代史の大きな転換点となった事件であった。

明治国家の法整備の陰の主役は井上毅である。熊本藩三家老長岡(米田)監物の家臣の家に生まれた。
井上毅(1844-1895)は、明治14(1881)年の政変の際には、参事院議官として欽定憲法の綱領を作成、岩倉具視・伊藤博文らによる国会開設の基本方針策定をたすけ、その後、日本帝国憲法の起草にあたるとともに、法制局長官として諸法令の起草に参与した。明治21(1888)年には枢密院書記官長として憲法制定の総仕上げをし、同23年には枢密顧問官として教育勅語の制定に尽力した。そして同26年文相として高等学校令を制定、実業教育の普及をはかっている。彼はこのように明治国家法制整備の2つの骨組といえる憲法と教育制度を立案・起草。この文書はそれらを中核として、明治諸法典の編纂、議会制度、行政、自治、外交などの広範な分野に及んでいる。井上の記録・情報収集が巨大でしかも精細であったことを示しており、まさに明治憲法を背負って生きた。
熊本県の必由館高校は米田家が子弟のためにたてた必由堂に由来。井上毅もここで学んだ。。産湯の井戸もある。

伊東博文は初代首相となり明治憲法定めた。自由民権運動は憲法制定の10年の猶予期間のうちに消滅した。そのご600年続いた韓国・李王朝を滅ぼし1910年日韓併合で初代の統治者になった。
安重根にハルピン駅で狙撃される。文字通り、政治に体を張った時代である。
「ベアテの贈り物」は60パーセントを超えた改憲派にこそ、見てほしきドキュメンタリー映画である。

字数を超え書けなかったが山東勢力の日向伊東氏。都於郡史談は黒貫寺、岩爪神社さらに積年伊東氏を二分してた都於郡衆の平等寺VS一乗院の歴史とともに調べなおされなければならぬ。

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