横須賀

2005年5月7日
ナッキーさん秘密です。
数時間もかけて書き上げた小栗上野介論が消えた。
米軍の接収利用してる横須賀ドッグをつくったひとである。
旧幕府の孤立化の中、国産軍艦を作りバルチック艦隊を破る原動力になった横須賀ドッグのことである。
江戸城徹底抗戦派で無血会城派に破れ群馬にくだり隠遁の生活をしていたが官軍の手にかかり、斬首。
勘定奉行ゆえ江戸城内にまったくの小判がないことで官軍は徳川ご用金の行方を追った。群馬に伝わるご用金埋設のミステリー話の根拠である。斬首汚名はいまだ晴らされていない。史実と違う咸臨丸の持ち上げられ方も触れたが文章がない。

かえしてく〜れー3000字丁度の文字。睡眠時間を割いて書いたのに〜〜復元は辛いよ^全然違うものになるも〜ん〜

横須賀は横浜と違い三浦半島の総称のイメージで開港150年にわく黒船来航がまず第一に浮かんでくる。
連想ゲーム的に考えると、葉山のご用邸,逗子の森林,♪横浜・ヨコスカ〜、米軍港、飛鳥田一雄市長の戦車前、座り込み
核持込疑惑の頃の空母が入港する度に大騒ぎだったのは遠い昔のどこかの国のお話。
空母ミッドウェイ、現在は空母インディペンデンスの母港、それをみおろす小泉家のルーツまでさかのぼる。
秀吉に最後まで弓を引きし北条早雲の小田原以前の三浦氏までは遡れない。
その横須賀出身の方と、営業の仕事をしているが感心してることがある。言葉の美しさである。
田舎もんと都会の洗練された言葉の差の第一は何か。
まず声の量、喜怒哀楽を内部に包み込むもどかしささえ感じる。
別に京言葉のはんなりとの差でもない。
包容力、優しく話すである。
あいずち、間の取り方、全てが参考になる。
もちろん、育ちの環境にもよるのであろうがこの方はどうにもサラリーマンの子であったのであろう。
それに比べて横須賀の小泉総理の喧嘩口調の国会答弁は相当のフラフトレーションを感ずる。
鹿児島の曽祖父の血がいまだ清算されてないのやも知れぬ。逆に言うならこれほど素直に本心を語る人もいないのかもしれない・
それが居直り、傲慢、まじめに正面から答えていないとの質問者の不満を食らっている。
ラジオでの国会答弁の的外れの多いこと。九州弁の特徴とその喋り方やもしれぬ。
いかに将来を見据え行動しても誤解を招く御仁もおられる。
幕末の英傑、小栗上野介である。藩主を持たぬ旗本の出である。
明治維新は世界に稀なる政変であった
維新は言葉の綾でフランス革命のように明治革命とするのが正しい。
世界政治の二極化の最前線での地政学から来るところ大であろう。
つまりロシアの政治体制に恐怖おののいていた証左である。
明治維新その栄誉は西郷隆盛と勝海舟に一手に帰する歴史の非常さがある。
旧政権の無血江戸城の開城、その後の国づくりの方針の下敷きは
坂本竜馬の船中八策の二条城での大政奉還のシナリオでの評価であったりする。
しかしそれは随分と違う。
日本は二度スタートしている。明治と敗戦後の昭和20年である。
その日本のきっかけを作った資本の蓄積は何か。膨大なる経済行為たる戦争である。
日清日露の大戦で世界の列強に急遽躍り出たすばやさ。
朝鮮半島の戦争で戦後昭和の奇跡の復興は今日の隆盛を招いている。
昭和史は別項にしてまずは明治期である。
司馬遼太郎の歴史観たる司馬史観でもどうにもこの人物に気づくのが遅かったやも知れぬ。小説に仕切れなかった。
小栗上野介の最後は新政府軍による斬首。
問答無用の斬首は近藤勇といい容赦ない。
西郷隆盛の助命嘆願でさえ山県有朋は許さなかった。
蝦夷地まで残り最後まで徹底抗戦した榎本武揚は薩摩の総大将たる黒田清隆の助命で明治政府に残り、大臣の要職を渡り歩き樺太問題などに功績を挙げた。
小栗上野介は横須賀ドッグを残したが考えはそれにとどまらず、郵便、学制さらには黒船でさえ木製であり、森林枯渇を心配しての森林保護を打ち出している。
その活躍の期間は8年間であった。
政治は結果論。不平等条約の不名誉そしりを受けるのみの日米修好通商条約。安政7年1月18日(1860年2月9日)アメリカ海軍軍艦ポーハタン号(2415トン)の艦上に正使新見豊前守正興(外国奉行)、副使村垣淡路守そして目付けは小栗3名が正使である。外に77名の日本人と312名のアメリカ人乗組員。
使節団が乗ったポーハタン号の随行艦が咸臨丸(625トン)
木村摂津守、艦長勝麟太郎、福沢諭吉ら日本人が初の太平洋横断は歴史の捏造だ。実際の運行はアメリカ海軍大尉ジョン・M・ブルック以下11名のアメリカ人。
史実は怖い。

日米通貨会談の記録が新聞にある。
ザ・フィラデルフィア・インクワイヤラー』紙、
「、会談が始まると秤を取り出した。それを見て我々は、ショックを受けた。我が国では鉄で出来ている部分が、日本では象牙で作っている。約1フィートの長さにわたって精緻な目盛りが刻まれ、皿と錘が付いている。実験してみると一分の狂いもない精密さを保っていた」
「日本人の重量測定システムは十進法であることが分かった。日本人の方がアメリカ人よりもはるかに合理的、進歩的なのかもしれない」
「日本の役人の一人は、アバカス(算盤)を持っていた。5ずつの木製のボタンが15列並んでいる。そのボタンをあちこち滑らせると、恐るべきスピードで計算できてしまうのである」
と、1860年6月15日付けで報じている。
安政小判1両と3ドル41セントという新通貨交換・為替レートを決定する。遣米使節団の最大の目的が成就。
関税の自主権がないなど兎角不平等性が取り上げられるがこのことは評価されていい。
当時、金と銀の交換比率が日本(1対5)と海外(1対15)の間では大幅に異なっていた。諸外国は、銀を持ち込み大量の金を持ち去る。50万両を越える金貨が海外に流出し日本経済は破滅状態に陥っていた。安政小判を3分の1にした万延小判を鋳造し、金銀比価を1対15.74とし国際比価に最も近いものにした。

駐日フランス公使レオン・ロッシュの推薦でフランソワ・レオン・ヴェルニーを横須賀造船所の責任者にした。
ヨーロッパ全土に蔓延した蚕病によりリヨンとセヴェンヌ地方の養蚕業の壊滅状態で、フランスの最大の輸出品である絹織物の危機的状況を打破するため、供給源として品質に優れた日本の絹がどうしても必要であった。
長浦、横須賀を実地検分し、横須賀を適地とした。造船所の建設費は、4ヶ年継続で総額240万ドル(現在の240億円以上)、絹の利権を担保にフランスからの借款で充当。幕府が見積もっていた経費の半額であった。ヴェルニーは公園にその名を残した。
小栗の近代化政策
・「兵庫商社」(日本で2番目の株式会社)の設立
・諸色会所(商工会議所の前身)の設立
・横浜フランス語伝習所(フランス語専門学校)の開設
・横須賀製鉄所黌舎(工業高等教育機関、最初の企業内教育)
・軍制(歩兵・騎兵・砲兵の確立)の改革
・滝野川反射炉及び火薬製造所、小石川大砲製造所の建設
・湯島鋳造所の改造
・中央銀行設立の計画
・新聞発行の計画
・書伝箱(郵便)・電信事業の建議
・鉄道建設(江戸〜横浜)の建議
・ガス灯設置の建議
・郡県制度(私案として大統領制も視野に入れていた)の建議
14年政変で追放された大隈重信談。
「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策はそっくり小栗のそれを模倣したものだから」
とかく改革者はいつも茨の道である。
よ〜くわかる。

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