選挙権って凄いんですヨ!
2005年6月8日時代背景を見ずして歴史は語れない。ましてや荒れ狂う弾圧の官憲の怖さを知らずして語れまい。
治安維持法を改訂して共産党非合法化、その成員に死刑、無期の重罰を加えうるようにしての普選法の実施であった。
大正七年以来八年間、三度び明治民権運動のリーダーだった河野広中に国会に上提されて否決、大正十四年三月二日に衆議院を通った
ようやく獲得された普通選挙を最初に実施することになったのは、ビリケン寺内内閣の先駆をなす田中義一のサーべル内閣だった。
政府の狙いは、この選挙運動によって浮上してくる共産党の組織を捕捉することである。
このように昭和三年二月二十日に予定される第一回普選をまちうけていた時代背景がある。
昨日書いたヤクルトの社長たる南喜一の立候補のことである。
27年テーゼで共産党は忽然と消えた。山村工作隊なる武力革命に走ったのである。
共産党史の言う間違った分派が起こした行動は私から見ても大方の人と同じで正直ではない。史実を見すえて昨日書いた、
署の方のクレーム。
私は何も反共主義者でも逆に共産党支持者でもない。
55年体制時の闘う時の社会党支持者ではあったが党員ではない
もっとも党員以上に全生活をかけ東奔西走した過去の活動記録をもつ。
体制、反体制る単純なメルクマールで言うと青年は誰もがマルキシストであった。
今は太陽光発電を普及させ地球エネルギーで社会改革を魂にもち、生きている。自然エネルギー普及による社会改革である。
もう地球はあらゆる角度から行き詰まりに来ている。
食わんがために取り組んでる面はあるが夢を深き胸底に置いての夢の実現である。
また最高裁までの裁判で多くの方に借金をしてしまったことの人生の清算がある。
死の恐怖の影は常に自裁をせまり、そのサイトのホーム・ページさえ見た。死ねない!踏みとどまっている。
かっての社会改革者の旗手を任じていたものがこれぐらいのことでは死んでたまるや。
鶴と菊を書くと大変なことになるのでガマンしている。
宗教と組織は怖い!日記さえ破壊されよう。
しかしこの日記を読んでいただいてる方々からのパワーを頂き、
裸になって取りくんでいる。(大層な!笑い)
さて岡山の人たる松田義男さんの個人ホームページにはお世話になっている。
-蒼々たる方々の著作を収集されておられる。
読み解くには膨大な時間が要るので今の私には到底無理である。
芦田均、尾崎秀実、佐々弘雄、田中王堂、永井柳太郎、中野正剛、馬場恒吾、蝋山政道等の著作目録がぎっしりと並ぶ。早稲田の血を引き継ぐ人である。
永井柳太郎は各大臣を歴任して電力国家管理法案,大日本育英会法案の実現に努力した早稲田の先輩、大隈重信,安部磯雄の薫陶を受けた石川県金沢の人。
普選法はこの人のご努力になる。 三木内閣の文部大臣の永井道雄の岳父。
片脚不自由で、演壇には必ず松葉杖かステッキをついて登場し「諸君」といって話しはじめるのが常だったと言う。
先哲のホーム・ページから以下美しい文章に触れた。
・・・ 親密になると、不躾に「先生の脚はどうしてそんな風になったのですか」と聞く人がよくいた。
「私は少年時代に腕白で、よく木登りをしたものです。ある日、柿の木に登って柿をもごうとしたら、私の乗っていた枝が折れて、大地にしたたか脚を打ちつけたため、それがもとで骨膜炎になり、このようになったというわけです」
「あれは親父のついた唯一の嘘でした」子息の永井道雄元文相。
「親父の両親、すなわち私の祖父母は貧乏でした。祖母は家計を助けて針仕事で賃稼ぎをしていました。
ある日、部屋中を這いずりまわって遊んでいた赤ン坊の柳太郎が火のついたように泣き出しました。
祖父母は注意深い人でしたが、畳の上に針を一本落とした侭になっていたのを、赤ン坊は膝で拾ってしまったのです。
医学も進んでいない上、医療器具なども普及していなかった時代のことです。
何で赤ン坊がそんなに泣くのか判らなかったようです。
そのうち、泣き疲れて泣きやむ。そしてまた泣き出す。泣いてまた泣きやむ。その繰返しの揚句の果てに、赤ン坊の脚は到頭骨膜炎になってしまったのです。それが真相でした」永井文相は淡々として続けた。
「しかし本当のことをいえば、自分の母親の落度を人前に曝すことになります。母親の恥をあばくことになります。
子として、そんなことがやれるでしょうか。
親父はこの嘘を、死ぬまでつき続けていました」
私の脳裡には蒼穹の飛行雲のような四文字が鮮やかに浮かんだ。
「美しい嘘」嘘にも美しい嘘のあることを、私は初めて知った。
永井柳太郎の演説で「西にレーニン,東に原敬」はつとに有名。
大正九年頃の日本ではレーニンは「冷忍」と当て字され極悪非道の独裁者で総理を同列に扱ったわけである。
・・-あげくが原首相は東京駅頭で、中岡良一によって刺殺される。 一国の宰相が街頭で殺されたのは、幕末桜田門外で全実権があった井伊大老が暗殺されて以来のこと。
桜田門事件の水戸藩士は義士とほめたたえられた。実行犯は記憶では薩摩の海江田?であったはずである。
中岡良一にも「よくやってくれた」という感謝の蔭の声が全国に渦をまいた。
中岡の弁護にあたった清瀬一郎の法廷での弁論は痛快無比
「原が殺されて社会にプラスが多かったかマイナスが多かったか」という論理で原の枇政の数々を列挙し
「だから原は殺されたことで社会に責献した。従って中岡のしたことはよかったことなのだ」というまことに大胆な論述。
私にもこのような弁護士がほしかったものである。
頼まれた事実と客観的証明者があるのに私は裁判が成立せず、断罪された。バカな!権力は怖く事実は抹消された。
法を知らぬ盲目者は所詮どうしようもない。あの時は私は気がふれていた。
清瀬一郎は政友会犬養毅との訣別、治安維持法の反対投票、特許法の成立・陪審法の成立等法律の立案・整備に関わった若き弁護士、法律家としての政治信条を矜持。
信念を貫き通し例え自分の先輩・師匠筋に当たる人でも、
是は是、非は非として、訣別離別も辞さず、常に戦いの連続。
公職追放に遭いながら弁護士活動では、かの「東京裁判」でその名を、全国にとどろかせた。
忘れられぬニックキことがある。樺美智子を虐殺したデモ規制の60年安保。
70年安保の私はこのときは小学生で実行はしてないが「安保国会」での強行採決は第59・60代の衆議院議長たるこのひとである。
郵政民営化のみが報じられるこの国会で超党派の活字文化議員連盟が、「文字・活字文化振興法案」を国会に提出する。
書物が人類の歴史のなかで果たしてきた役割と国民が読書しやすい環境を整えることなどが骨格になる
具体的には学校に司書教諭を配置するような提案もある。
少しは考える人が増えるのであろうか。
わたしの愛読してる若き人々たとえばchuyaさんは青山の同潤会アパートに涙するヨーロッパ人の感覚の人である。
なにも時の権力者小泉が駆け落ちした青山・同潤会だからではない。
太宰治の書簡が発見されたと今日報じられていたが、中也の書簡も宮崎で先週発見されている。
受験で明け暮れておられる厳しき状況でニュースは知っておられないことであろう。短い人生の中で4度も宮崎に来た中也。
見目麗しき知的な人を是非宮崎にお連れしたい。
熊本のペイント工事がどうにも終了しない。採算どころではない。
クリック!お願いします。
http://blog.with2.net/link.php?62076
http://blog.with2.net/link.php/34016
治安維持法を改訂して共産党非合法化、その成員に死刑、無期の重罰を加えうるようにしての普選法の実施であった。
大正七年以来八年間、三度び明治民権運動のリーダーだった河野広中に国会に上提されて否決、大正十四年三月二日に衆議院を通った
ようやく獲得された普通選挙を最初に実施することになったのは、ビリケン寺内内閣の先駆をなす田中義一のサーべル内閣だった。
政府の狙いは、この選挙運動によって浮上してくる共産党の組織を捕捉することである。
このように昭和三年二月二十日に予定される第一回普選をまちうけていた時代背景がある。
昨日書いたヤクルトの社長たる南喜一の立候補のことである。
27年テーゼで共産党は忽然と消えた。山村工作隊なる武力革命に走ったのである。
共産党史の言う間違った分派が起こした行動は私から見ても大方の人と同じで正直ではない。史実を見すえて昨日書いた、
署の方のクレーム。
私は何も反共主義者でも逆に共産党支持者でもない。
55年体制時の闘う時の社会党支持者ではあったが党員ではない
もっとも党員以上に全生活をかけ東奔西走した過去の活動記録をもつ。
体制、反体制る単純なメルクマールで言うと青年は誰もがマルキシストであった。
今は太陽光発電を普及させ地球エネルギーで社会改革を魂にもち、生きている。自然エネルギー普及による社会改革である。
もう地球はあらゆる角度から行き詰まりに来ている。
食わんがために取り組んでる面はあるが夢を深き胸底に置いての夢の実現である。
また最高裁までの裁判で多くの方に借金をしてしまったことの人生の清算がある。
死の恐怖の影は常に自裁をせまり、そのサイトのホーム・ページさえ見た。死ねない!踏みとどまっている。
かっての社会改革者の旗手を任じていたものがこれぐらいのことでは死んでたまるや。
鶴と菊を書くと大変なことになるのでガマンしている。
宗教と組織は怖い!日記さえ破壊されよう。
しかしこの日記を読んでいただいてる方々からのパワーを頂き、
裸になって取りくんでいる。(大層な!笑い)
さて岡山の人たる松田義男さんの個人ホームページにはお世話になっている。
-蒼々たる方々の著作を収集されておられる。
読み解くには膨大な時間が要るので今の私には到底無理である。
芦田均、尾崎秀実、佐々弘雄、田中王堂、永井柳太郎、中野正剛、馬場恒吾、蝋山政道等の著作目録がぎっしりと並ぶ。早稲田の血を引き継ぐ人である。
永井柳太郎は各大臣を歴任して電力国家管理法案,大日本育英会法案の実現に努力した早稲田の先輩、大隈重信,安部磯雄の薫陶を受けた石川県金沢の人。
普選法はこの人のご努力になる。 三木内閣の文部大臣の永井道雄の岳父。
片脚不自由で、演壇には必ず松葉杖かステッキをついて登場し「諸君」といって話しはじめるのが常だったと言う。
先哲のホーム・ページから以下美しい文章に触れた。
・・・ 親密になると、不躾に「先生の脚はどうしてそんな風になったのですか」と聞く人がよくいた。
「私は少年時代に腕白で、よく木登りをしたものです。ある日、柿の木に登って柿をもごうとしたら、私の乗っていた枝が折れて、大地にしたたか脚を打ちつけたため、それがもとで骨膜炎になり、このようになったというわけです」
「あれは親父のついた唯一の嘘でした」子息の永井道雄元文相。
「親父の両親、すなわち私の祖父母は貧乏でした。祖母は家計を助けて針仕事で賃稼ぎをしていました。
ある日、部屋中を這いずりまわって遊んでいた赤ン坊の柳太郎が火のついたように泣き出しました。
祖父母は注意深い人でしたが、畳の上に針を一本落とした侭になっていたのを、赤ン坊は膝で拾ってしまったのです。
医学も進んでいない上、医療器具なども普及していなかった時代のことです。
何で赤ン坊がそんなに泣くのか判らなかったようです。
そのうち、泣き疲れて泣きやむ。そしてまた泣き出す。泣いてまた泣きやむ。その繰返しの揚句の果てに、赤ン坊の脚は到頭骨膜炎になってしまったのです。それが真相でした」永井文相は淡々として続けた。
「しかし本当のことをいえば、自分の母親の落度を人前に曝すことになります。母親の恥をあばくことになります。
子として、そんなことがやれるでしょうか。
親父はこの嘘を、死ぬまでつき続けていました」
私の脳裡には蒼穹の飛行雲のような四文字が鮮やかに浮かんだ。
「美しい嘘」嘘にも美しい嘘のあることを、私は初めて知った。
永井柳太郎の演説で「西にレーニン,東に原敬」はつとに有名。
大正九年頃の日本ではレーニンは「冷忍」と当て字され極悪非道の独裁者で総理を同列に扱ったわけである。
・・-あげくが原首相は東京駅頭で、中岡良一によって刺殺される。 一国の宰相が街頭で殺されたのは、幕末桜田門外で全実権があった井伊大老が暗殺されて以来のこと。
桜田門事件の水戸藩士は義士とほめたたえられた。実行犯は記憶では薩摩の海江田?であったはずである。
中岡良一にも「よくやってくれた」という感謝の蔭の声が全国に渦をまいた。
中岡の弁護にあたった清瀬一郎の法廷での弁論は痛快無比
「原が殺されて社会にプラスが多かったかマイナスが多かったか」という論理で原の枇政の数々を列挙し
「だから原は殺されたことで社会に責献した。従って中岡のしたことはよかったことなのだ」というまことに大胆な論述。
私にもこのような弁護士がほしかったものである。
頼まれた事実と客観的証明者があるのに私は裁判が成立せず、断罪された。バカな!権力は怖く事実は抹消された。
法を知らぬ盲目者は所詮どうしようもない。あの時は私は気がふれていた。
清瀬一郎は政友会犬養毅との訣別、治安維持法の反対投票、特許法の成立・陪審法の成立等法律の立案・整備に関わった若き弁護士、法律家としての政治信条を矜持。
信念を貫き通し例え自分の先輩・師匠筋に当たる人でも、
是は是、非は非として、訣別離別も辞さず、常に戦いの連続。
公職追放に遭いながら弁護士活動では、かの「東京裁判」でその名を、全国にとどろかせた。
忘れられぬニックキことがある。樺美智子を虐殺したデモ規制の60年安保。
70年安保の私はこのときは小学生で実行はしてないが「安保国会」での強行採決は第59・60代の衆議院議長たるこのひとである。
郵政民営化のみが報じられるこの国会で超党派の活字文化議員連盟が、「文字・活字文化振興法案」を国会に提出する。
書物が人類の歴史のなかで果たしてきた役割と国民が読書しやすい環境を整えることなどが骨格になる
具体的には学校に司書教諭を配置するような提案もある。
少しは考える人が増えるのであろうか。
わたしの愛読してる若き人々たとえばchuyaさんは青山の同潤会アパートに涙するヨーロッパ人の感覚の人である。
なにも時の権力者小泉が駆け落ちした青山・同潤会だからではない。
太宰治の書簡が発見されたと今日報じられていたが、中也の書簡も宮崎で先週発見されている。
受験で明け暮れておられる厳しき状況でニュースは知っておられないことであろう。短い人生の中で4度も宮崎に来た中也。
見目麗しき知的な人を是非宮崎にお連れしたい。
熊本のペイント工事がどうにも終了しない。採算どころではない。
クリック!お願いします。
http://blog.with2.net/link.php?62076
http://blog.with2.net/link.php/34016
コメント