漱石と龍之介
2005年6月9日生命を受けし時から人生はどうにも運命付けられてるやも知れない。
もっとも胎児の時の堕胎罪があるので正確には十月十日以前にさかのぼろう。
誰しもが我が子の平穏なる人生を願い命名する。男子には武士の国にあったものであったり、
女子には子が一般的であった。
然るに今日名字とくに名前における、宛字の濫用がどうにも気になる。
音声表現の貧弱さからか、その宛字に使う漢字の組み合わせで読めないものが多くなっている。
目立ち、他人と区別、あるいは名前のアピール力からか、
、パズルを組み合わせるが如き感覚で名前文化が花開いている。
コンビニはおろかどこでも名札に名が見えるご時世。結構楽しめる。
ゆえに意味不明の名前も見受けられ芸能人作家の名が綺羅星の如きである。
娼婦の源氏名なの如きでおかしくことに出くわすこともある。
もともと宛られた漢字でそこ浅き、お隣の国からの借り物の漢字文化ゆえ恥も外聞もないのであろう。
お隣はスッキリしており百家の姓だが、わが国は10万〜30万の国で山、川、海まで取り込んで姓名に当てている。
仏典や経文に近い凝ったものもあり、千奇百怪の様相をなしている。
城下町佐土原では古月、日講、愛読してる日記のなつめさんの言われる芥川龍之介、夏目漱石
僧侶の名前や文人の号など、文化の香りの高い名前が数々存在した。
名は態を現すのおもいで呻吟して子に命名する親心。私もそうであった。
大内兵衛の白雲幽石の著書のなかに漢詩があり、いずれ優秀に成るをタネ源語にして○○を決めた。
画数や強い弱いの音源、総画数判断など数冊に目を通した
さらに知人の占いに造詣の深い人の意見を参考にした。
これらの曲折があったため産医院退院の日にようやく決め役所に届け出た。笑われたものである。
娘の○○○のときも同じような経緯をたどった。
当然父母の名をそれぞれ忍び込ませた。
宛字の習慣はどうやら教養には関係なく、家の掟、村の伝統を黙守する、大和人の伝統性にある。
超俗の坊さんや、文人に変身すると、高雅な名前が自由につけられるが、百姓の場合、そう簡単にはいかぬ。
昔と同様、いまの日本人も、万世一系の一大家族の一部なのだから、
タロウ、ジロウ、ハナコのような呼び名しか必要はなく、漢字の使用も限られたのだろう。
今も存在する山○分校の同級生の女の子はほとんど子があった。
芥川 龍之介(1892年3月1日 - 1927年7月24日)は数奇なる形の本名である。
文学座俳優の芥川比呂志は長男、次男多加志はビルマで戦死、作曲家の芥川也寸志は三男。
牧原敏三、新原フクの元に生まれた龍之介であったが生後すぐにフクが発狂、育てられたのは伯母、
儔のもとであった。芥川家である。
龍之介の名前は、彼が辰年・辰月・辰日・辰の刻に生まれたことに由来すると言われている。
かつて龍之介の名を竜之介と表記していたこともあった。
元の苗字は「新原」だった訳で芥川家の養子になったんで芥川龍之介。新原龍之介では響きが悪い。
芥川の自殺については諸説がある。
芸術的な行き詰まり,労働者文学の台頭への敗北感,いわく生活力の欠乏があげられている。
後に言われてるボンヤリとした不安だけだったのであろうか。
海軍学校の同僚で、漱石の門下同士として芥川と親しかった内田百間の,
「河童忌」の中で,百?先生らしき説がある。
「あんまり暑いので,腹を立てて死んだのだろうと私は考えた」これはいい。
クロサワ映画の最後の作品は内田百間を題材にしたものであったがクロサワの審眼力が生きてくる。
芥川は二十四日の未明に三十六歳で自殺。記録では前日の最高気温三十六度の不可思議。
友人総代として弔辞を読んだのは文芸春秋社をおこし芥川賞を作った菊池寛。
年毎に二十四日のあつさ哉
一九三二年(昭和七)の河童忌で読まれた句である。
河童は暑さに弱い。芥川の辞世の句である
水洟や鼻の先だけ暮れ残る
太宰の死にも似通っている不吉な数字がある。。
いわゆる桜桃忌は六月十九日である。太宰の好物はこの時期が旬の桜桃だったそうな。
1948年の六月十九日も雨だった。十三日に失踪してから六日後,
三鷹の玉川上水で,愛人の山崎富栄と。紐で体をくくりつけしっかり抱きあった姿で
みつかったという。 奇しくもこの日は太宰三十九歳の誕生日だった。
太宰の最後の作品「グッド・バイ」の原稿は第十三回で終わっている。
伊藤左千夫の短歌を直筆で太宰が書きつけた短冊が山崎富栄の部屋に遺書とともに残されていた。
池水は濁りににごり藤波の
影もうつらず雨降りしきる
宮崎の一番辛い季節でもある梅雨どきのことでもある。。
井伏鱒二は太宰の情死について,「ものの弾みと云ったらどうだろう」と書いた。
太宰は梅雨に負けたのかもしれない,
アジサイが七変化と嫌われる人がいるがこのあたりにあるやもしれぬ。
アジサイにはカエルがよく似合う。
大学教授から朝日新聞に移った夏目漱石にマスコミは騒いだ。
京大教授の経済学者河上肇が国禁たる共産党運動に身を転じたる如きであったのであろう。
漱石は精神的に不安定な状態が続く。
このような不安な日々は明治36年(1903)6月頃から明治37年(1904)5月頃まで続いた
ようである。
『吾輩ハ猫デアル』は、このような漱石の不安な日々の中で執筆された。
『吾輩は猫である』の第一回は明治38年(1905)1月発行の雑誌『ホトトギス』第8巻第4号に掲載された。
漱石は、一回限りのつもりで書いたが、大きな反響を呼び第十回まで同誌に断続的に掲載された。
明治38年(1905)から明治39年(1906)にかけて漱石は「坊っちやん」、「草枕」などを相次いで
発表している。
明治39年10月11日からは、「木曜日の午後三時からを面会日と定候」とし、「木曜会」が開催された。
「木曜会」には、小宮豊隆、寺田寅彦、鈴木三重吉、らが集った。
大正4年(1916)には、菊池寛、芥川龍之介、久米正雄らが木曜会に参加した。
晩年の夏目漱石と芥川龍之介は一同に介しているのである。
吉田なつめさ〜〜ん!おひさ! 現代文、クラスで2位でした。H大OKですね!前日の落ち込みの 舞姫 鴎外?でしたっけ。
結果オーライでしたね。オメデトウございます。
夏目龍泉、夏泉龍望そんなにひくほどさむくはありませんよ〜
ただ龍泉洞は義経ブームの岩手にあり、三大洞窟、秋吉台、龍河洞に匹敵するもの。
兎に角、龍泉は全国あちこちにあり大変よろしいかと思われます。
竜は女性の化身です。八犬伝や白蛇伝の作品がありました。
宮崎においで!龍にまつわる有名な学業の神様、速川神社があります。
古事記、日本書紀いわゆる「記紀」の初代天皇以前の天孫ニニギ尊が、伴人である瀬織津姫命を速川の瀬で亡くす。
御霊を慰めるためこの社が創建された実に古き神社。
周りにある七滝の一つ「蛇滝」にお供えすると願いはかないます。
龍神信仰から蛇の神様となっていのです。お供え物はタマゴで〜す。
独身男性は蛇=女がつくので要注意!。
ほかにも高原町の白蛇様がある。
天孫降臨の地を巡っては昭和15年紀元2600年で鹿児島か宮崎かで大論争があり、
常に鹿児島近辺と高千穂町の二箇所に分かれてしまうので二箇所です。
記念に雑文をお祝いにささげます。多忙な中の寸暇を裂いての徹夜のものです。
熊本ペイント塗りはどうにも終わりません!
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もっとも胎児の時の堕胎罪があるので正確には十月十日以前にさかのぼろう。
誰しもが我が子の平穏なる人生を願い命名する。男子には武士の国にあったものであったり、
女子には子が一般的であった。
然るに今日名字とくに名前における、宛字の濫用がどうにも気になる。
音声表現の貧弱さからか、その宛字に使う漢字の組み合わせで読めないものが多くなっている。
目立ち、他人と区別、あるいは名前のアピール力からか、
、パズルを組み合わせるが如き感覚で名前文化が花開いている。
コンビニはおろかどこでも名札に名が見えるご時世。結構楽しめる。
ゆえに意味不明の名前も見受けられ芸能人作家の名が綺羅星の如きである。
娼婦の源氏名なの如きでおかしくことに出くわすこともある。
もともと宛られた漢字でそこ浅き、お隣の国からの借り物の漢字文化ゆえ恥も外聞もないのであろう。
お隣はスッキリしており百家の姓だが、わが国は10万〜30万の国で山、川、海まで取り込んで姓名に当てている。
仏典や経文に近い凝ったものもあり、千奇百怪の様相をなしている。
城下町佐土原では古月、日講、愛読してる日記のなつめさんの言われる芥川龍之介、夏目漱石
僧侶の名前や文人の号など、文化の香りの高い名前が数々存在した。
名は態を現すのおもいで呻吟して子に命名する親心。私もそうであった。
大内兵衛の白雲幽石の著書のなかに漢詩があり、いずれ優秀に成るをタネ源語にして○○を決めた。
画数や強い弱いの音源、総画数判断など数冊に目を通した
さらに知人の占いに造詣の深い人の意見を参考にした。
これらの曲折があったため産医院退院の日にようやく決め役所に届け出た。笑われたものである。
娘の○○○のときも同じような経緯をたどった。
当然父母の名をそれぞれ忍び込ませた。
宛字の習慣はどうやら教養には関係なく、家の掟、村の伝統を黙守する、大和人の伝統性にある。
超俗の坊さんや、文人に変身すると、高雅な名前が自由につけられるが、百姓の場合、そう簡単にはいかぬ。
昔と同様、いまの日本人も、万世一系の一大家族の一部なのだから、
タロウ、ジロウ、ハナコのような呼び名しか必要はなく、漢字の使用も限られたのだろう。
今も存在する山○分校の同級生の女の子はほとんど子があった。
芥川 龍之介(1892年3月1日 - 1927年7月24日)は数奇なる形の本名である。
文学座俳優の芥川比呂志は長男、次男多加志はビルマで戦死、作曲家の芥川也寸志は三男。
牧原敏三、新原フクの元に生まれた龍之介であったが生後すぐにフクが発狂、育てられたのは伯母、
儔のもとであった。芥川家である。
龍之介の名前は、彼が辰年・辰月・辰日・辰の刻に生まれたことに由来すると言われている。
かつて龍之介の名を竜之介と表記していたこともあった。
元の苗字は「新原」だった訳で芥川家の養子になったんで芥川龍之介。新原龍之介では響きが悪い。
芥川の自殺については諸説がある。
芸術的な行き詰まり,労働者文学の台頭への敗北感,いわく生活力の欠乏があげられている。
後に言われてるボンヤリとした不安だけだったのであろうか。
海軍学校の同僚で、漱石の門下同士として芥川と親しかった内田百間の,
「河童忌」の中で,百?先生らしき説がある。
「あんまり暑いので,腹を立てて死んだのだろうと私は考えた」これはいい。
クロサワ映画の最後の作品は内田百間を題材にしたものであったがクロサワの審眼力が生きてくる。
芥川は二十四日の未明に三十六歳で自殺。記録では前日の最高気温三十六度の不可思議。
友人総代として弔辞を読んだのは文芸春秋社をおこし芥川賞を作った菊池寛。
年毎に二十四日のあつさ哉
一九三二年(昭和七)の河童忌で読まれた句である。
河童は暑さに弱い。芥川の辞世の句である
水洟や鼻の先だけ暮れ残る
太宰の死にも似通っている不吉な数字がある。。
いわゆる桜桃忌は六月十九日である。太宰の好物はこの時期が旬の桜桃だったそうな。
1948年の六月十九日も雨だった。十三日に失踪してから六日後,
三鷹の玉川上水で,愛人の山崎富栄と。紐で体をくくりつけしっかり抱きあった姿で
みつかったという。 奇しくもこの日は太宰三十九歳の誕生日だった。
太宰の最後の作品「グッド・バイ」の原稿は第十三回で終わっている。
伊藤左千夫の短歌を直筆で太宰が書きつけた短冊が山崎富栄の部屋に遺書とともに残されていた。
池水は濁りににごり藤波の
影もうつらず雨降りしきる
宮崎の一番辛い季節でもある梅雨どきのことでもある。。
井伏鱒二は太宰の情死について,「ものの弾みと云ったらどうだろう」と書いた。
太宰は梅雨に負けたのかもしれない,
アジサイが七変化と嫌われる人がいるがこのあたりにあるやもしれぬ。
アジサイにはカエルがよく似合う。
大学教授から朝日新聞に移った夏目漱石にマスコミは騒いだ。
京大教授の経済学者河上肇が国禁たる共産党運動に身を転じたる如きであったのであろう。
漱石は精神的に不安定な状態が続く。
このような不安な日々は明治36年(1903)6月頃から明治37年(1904)5月頃まで続いた
ようである。
『吾輩ハ猫デアル』は、このような漱石の不安な日々の中で執筆された。
『吾輩は猫である』の第一回は明治38年(1905)1月発行の雑誌『ホトトギス』第8巻第4号に掲載された。
漱石は、一回限りのつもりで書いたが、大きな反響を呼び第十回まで同誌に断続的に掲載された。
明治38年(1905)から明治39年(1906)にかけて漱石は「坊っちやん」、「草枕」などを相次いで
発表している。
明治39年10月11日からは、「木曜日の午後三時からを面会日と定候」とし、「木曜会」が開催された。
「木曜会」には、小宮豊隆、寺田寅彦、鈴木三重吉、らが集った。
大正4年(1916)には、菊池寛、芥川龍之介、久米正雄らが木曜会に参加した。
晩年の夏目漱石と芥川龍之介は一同に介しているのである。
吉田なつめさ〜〜ん!おひさ! 現代文、クラスで2位でした。H大OKですね!前日の落ち込みの 舞姫 鴎外?でしたっけ。
結果オーライでしたね。オメデトウございます。
夏目龍泉、夏泉龍望そんなにひくほどさむくはありませんよ〜
ただ龍泉洞は義経ブームの岩手にあり、三大洞窟、秋吉台、龍河洞に匹敵するもの。
兎に角、龍泉は全国あちこちにあり大変よろしいかと思われます。
竜は女性の化身です。八犬伝や白蛇伝の作品がありました。
宮崎においで!龍にまつわる有名な学業の神様、速川神社があります。
古事記、日本書紀いわゆる「記紀」の初代天皇以前の天孫ニニギ尊が、伴人である瀬織津姫命を速川の瀬で亡くす。
御霊を慰めるためこの社が創建された実に古き神社。
周りにある七滝の一つ「蛇滝」にお供えすると願いはかないます。
龍神信仰から蛇の神様となっていのです。お供え物はタマゴで〜す。
独身男性は蛇=女がつくので要注意!。
ほかにも高原町の白蛇様がある。
天孫降臨の地を巡っては昭和15年紀元2600年で鹿児島か宮崎かで大論争があり、
常に鹿児島近辺と高千穂町の二箇所に分かれてしまうので二箇所です。
記念に雑文をお祝いにささげます。多忙な中の寸暇を裂いての徹夜のものです。
熊本ペイント塗りはどうにも終わりません!
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