久留米と日向
2005年6月18日PCが動かなくなりヤマダ電機で借りて書いている、補助たるものも含め一切作動しなく書けなくなった。いわく因縁であろうか。
えぇっ!久留米に触れたから??ダト?
日向の国と久留米は少なからずの繋がりがある。
久留米市はキリシタン大名有馬藩の国。お国替えで日向は延岡に転封される内藤家の前の有馬氏である。
専制支配体制の武家社会においてキリシタン大名は数奇な運命をたどった。
国内支配を終えた豊臣家は朝鮮支配の先鋒にはいずれもキリシタン大名をあてた事でもわかる。
国禁となった徳川時代では領地変え、あるいは取り潰しの悲哀を浴びた。
江戸中期には260の寺院があり、善導寺、千光寺などの古刹の中、慈雲山 福聚寺は円通寺(五穀神社)と共に、久留米では最も新しく建立された寺院の一つ。
近世禅林僧宝伝に名を連ねる佐土原・島津の古月禅師。
日向国の天寿山・自得寺の名僧として東の白隠、西の古月と並び称され知られていた。
白隠の強靭な意志の禅に対して、古月の禅は、潔癖、端正な禅。
筆もよくした古月禅師は「月見の宴の詩」で、風雅な志も深く、禅界には稀な存在として知られた。
佐土原の佐賀利集落で生を受けた根っからの日向人。
福聚寺の開山に際しては、七代藩主有馬頼僮は古月禅師に開山を懇請し、6年の歳月をかけ古月禅師が福聚寺を開山した。
現在でも福聚寺の敷地が広いのは寺領250石の印証を、古月襌師に授け たことに由来する。
1729年(享保14年)六代藩主則維が、農民一揆処理問題や嗣子問題などで家老中と対立した
後隠居したのを受けて頼僮、七代藩主を襲封する
幕末の薩摩藩の名君斉彬の誕生に酷似している。
数々の寺社の造営や新築を行い、郡中に三十三観音巡礼所を定める、学問の面でも、和算書「拾幾算法」を刊行する
藩主祈祷寺として、1749年(寛延2年)10月に開山したのが慈雲山 福聚寺。
伝えられている多くの話の中でも特筆する鏡のことがある。
古月和尚が亡霊の求めに応じて剃髪を行いその謝礼に亡霊謝剃鏡を賜り、現在に伝えられているという物だ。。
佐土原島津との繋がりは少なくない。家臣の町田家。
町田家は島津本家から出、佐土原島津の御側御用人を勤めた。
島津二代忠時の七男忠経を初代とし八代清久から直久に枝分かれし子孫の忠長が佐土原・島津の臣となった。
五代景高は嘉永2年10月3日嫡男景前の罪を被り、80石のうち30石を召し上げられるが
安政2年2月28日恩赦で召し上げられた30石を返還され用人および舎長を勤めた。
彼の経歴を見ると久留米藩、石野郡左衛門長正柔術指南の免許受けたとある。
なんか引っかかるものを感ずる。
社歴のホーム・ページから引用する有馬家のお話。
有馬家の怨霊とは、幕末の大江戸寄席の講釈で当時全国的に有名になった「有馬怪猫伝」がその一つです。当時有馬中務殿(後の八代藩主頼貴)の側妾であった「お滝の方」が老女岩波にいじめ殺された後、お滝の愛猫が岩波を噛み殺し、藩中の者にあだをなしていったというものですが、これは、
頼貴の祖父則維と妾腹の宅之進との間の家督継承争いのカモフラージュの為作られた話しである
といわれています。 又、有馬藩には柳田国男の「妖怪談義」でも紹介される砂撒き狸の話
(久留米市宮ノ陣町、京町原古賀町で報告される大榎の上から狸が砂をふらせるというもの)
や竜巻(当時竜巻は竜の昇天とされていた)による被害高良社座主の白蛇が原因でおきた暴風被害、
「耳のある白蛇」の話、又、当時全国的にも数ヵ所で見受けられたという「シイ」という怪獣(いたちに似て牛馬を襲う。
長さ1.5m程で、色は白黒赤などのまだら模様をしており、尾は牛のような動物。)による被害など、全て怪奇なものであり、これらの事が起こるのは、先に述べた、第二代藩主忠頼孝の非道によるものと考えられており、それらを併せ鎮める目的の為に、頼僮公が福聚寺の建立を考えた可能性が大きいと思われます。
以上ホーム・ページからすべて引用した。
実は20日に支払いがあり、ご了解を求めたら久留米の工事費のことなどになり、すべて円満に片付けていただけることになった。
感謝である。どこでお世話になるやら分からない。
私の場合は感謝感謝の久留米である。
長州の久坂玄端とともに夢半ば、蛤の変で倒れた久留米の生んだ英傑水天宮様の真木和泉の恩と徳やも知れぬ。実に救われた。
PCは自分でインストールしなおしたが勝手なるパスワードで修復させることができない。(怒り)
責任ある復旧をしてもらいたいものである。
お読みいただいたら、マウスでクリック!。
お願いします。
http://blog.with2.net/link.php?62076
http://blog.with2.net/link.php/34016
えぇっ!久留米に触れたから??ダト?
日向の国と久留米は少なからずの繋がりがある。
久留米市はキリシタン大名有馬藩の国。お国替えで日向は延岡に転封される内藤家の前の有馬氏である。
専制支配体制の武家社会においてキリシタン大名は数奇な運命をたどった。
国内支配を終えた豊臣家は朝鮮支配の先鋒にはいずれもキリシタン大名をあてた事でもわかる。
国禁となった徳川時代では領地変え、あるいは取り潰しの悲哀を浴びた。
江戸中期には260の寺院があり、善導寺、千光寺などの古刹の中、慈雲山 福聚寺は円通寺(五穀神社)と共に、久留米では最も新しく建立された寺院の一つ。
近世禅林僧宝伝に名を連ねる佐土原・島津の古月禅師。
日向国の天寿山・自得寺の名僧として東の白隠、西の古月と並び称され知られていた。
白隠の強靭な意志の禅に対して、古月の禅は、潔癖、端正な禅。
筆もよくした古月禅師は「月見の宴の詩」で、風雅な志も深く、禅界には稀な存在として知られた。
佐土原の佐賀利集落で生を受けた根っからの日向人。
福聚寺の開山に際しては、七代藩主有馬頼僮は古月禅師に開山を懇請し、6年の歳月をかけ古月禅師が福聚寺を開山した。
現在でも福聚寺の敷地が広いのは寺領250石の印証を、古月襌師に授け たことに由来する。
1729年(享保14年)六代藩主則維が、農民一揆処理問題や嗣子問題などで家老中と対立した
後隠居したのを受けて頼僮、七代藩主を襲封する
幕末の薩摩藩の名君斉彬の誕生に酷似している。
数々の寺社の造営や新築を行い、郡中に三十三観音巡礼所を定める、学問の面でも、和算書「拾幾算法」を刊行する
藩主祈祷寺として、1749年(寛延2年)10月に開山したのが慈雲山 福聚寺。
伝えられている多くの話の中でも特筆する鏡のことがある。
古月和尚が亡霊の求めに応じて剃髪を行いその謝礼に亡霊謝剃鏡を賜り、現在に伝えられているという物だ。。
佐土原島津との繋がりは少なくない。家臣の町田家。
町田家は島津本家から出、佐土原島津の御側御用人を勤めた。
島津二代忠時の七男忠経を初代とし八代清久から直久に枝分かれし子孫の忠長が佐土原・島津の臣となった。
五代景高は嘉永2年10月3日嫡男景前の罪を被り、80石のうち30石を召し上げられるが
安政2年2月28日恩赦で召し上げられた30石を返還され用人および舎長を勤めた。
彼の経歴を見ると久留米藩、石野郡左衛門長正柔術指南の免許受けたとある。
なんか引っかかるものを感ずる。
社歴のホーム・ページから引用する有馬家のお話。
有馬家の怨霊とは、幕末の大江戸寄席の講釈で当時全国的に有名になった「有馬怪猫伝」がその一つです。当時有馬中務殿(後の八代藩主頼貴)の側妾であった「お滝の方」が老女岩波にいじめ殺された後、お滝の愛猫が岩波を噛み殺し、藩中の者にあだをなしていったというものですが、これは、
頼貴の祖父則維と妾腹の宅之進との間の家督継承争いのカモフラージュの為作られた話しである
といわれています。 又、有馬藩には柳田国男の「妖怪談義」でも紹介される砂撒き狸の話
(久留米市宮ノ陣町、京町原古賀町で報告される大榎の上から狸が砂をふらせるというもの)
や竜巻(当時竜巻は竜の昇天とされていた)による被害高良社座主の白蛇が原因でおきた暴風被害、
「耳のある白蛇」の話、又、当時全国的にも数ヵ所で見受けられたという「シイ」という怪獣(いたちに似て牛馬を襲う。
長さ1.5m程で、色は白黒赤などのまだら模様をしており、尾は牛のような動物。)による被害など、全て怪奇なものであり、これらの事が起こるのは、先に述べた、第二代藩主忠頼孝の非道によるものと考えられており、それらを併せ鎮める目的の為に、頼僮公が福聚寺の建立を考えた可能性が大きいと思われます。
以上ホーム・ページからすべて引用した。
実は20日に支払いがあり、ご了解を求めたら久留米の工事費のことなどになり、すべて円満に片付けていただけることになった。
感謝である。どこでお世話になるやら分からない。
私の場合は感謝感謝の久留米である。
長州の久坂玄端とともに夢半ば、蛤の変で倒れた久留米の生んだ英傑水天宮様の真木和泉の恩と徳やも知れぬ。実に救われた。
PCは自分でインストールしなおしたが勝手なるパスワードで修復させることができない。(怒り)
責任ある復旧をしてもらいたいものである。
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