水の神
2005年6月28日夜になっても30度を切らない。初の熱帯夜を記録しそうである。
沖縄では梅雨明け宣言が出た。天気図で見る限り列島自体も梅雨の気圧配置ではない。梅雨前線が新潟を横切ってる神の悪戯。
経験則からくる梅雨前線の配置はもう望めないのであろうか。
異常気象の常態化では農業は困難である。
田植え前の瑞穂の国にいかほどの降雨があったというのか。
一昨日の日向の国の雨は都城、小林の普通作の田植えは済ませたが、高千穂地区は満たしうるほどの水量が保てなかった。早期水稲も稲穂の分割時期で水量がほしい時期。
国難である。15年ぶりの雨乞いを祈願するマスコミ報道もある。
国の生い立ちから、国難にあっては御祓いで邪気を取り除き霊験あら高なれば神とあがめ社を創建した。
日本最古の歴史書『古事記』の冒頭に、「天御中主神」あめのみなかぬしのおおかみの名がある。水天宮様である。
日本一の元気都市を福岡に命名したせきやんに脆弱点の記述がかけていた。
筑後太郎に水源を求めてる筑紫の人々は渇水期の夏などには水不足を生じる。
この地にはズ〜ットこの問題が横たわって他の川はいざ知らず、筑後川は水神さんを祀ってきた。
筑後太郎に水源を求めてる筑紫の人々は渇水期の夏などには水不足を生じる。
全国水天宮の総本山が福岡・久留米にあることをご存じない方はかなりのものであろう。ここいらに謂れがあるにやも知れぬ。
水天宮様総本山って人形町んとこんやつ?だろ?正式には日本橋蛎殻町。
これが、お江戸の水天宮が賑やかゆえの誤解である。
これは、久留米・有馬公の参勤交代の折の江戸詰期に江戸藩邸に分詞された1818(文政元)年に水天宮を祀ったのを紀元とする。
江戸っ子口調は歯切れとトントンとたたみ込む所がいい。
「恐れ入りやの鬼子母神」とともに「情けありまの水天宮」という。
有馬家と水天宮を洒落て、「情け深い」ことを感謝する際に有馬の殿様をしのんで、「情けありまの水天宮」という。
按察使局伊勢命(あぜちのつぼね)伊勢は壇ノ浦から逃れた高倉天皇の女官。
筑後川のほとり鷺(サギ)野ヶ原に遁れ来て初めて水天宮を祀った。この頃は未ただ荒漠たる原野であったという。
伊勢は後に剃髪して名を千代と改め尊崇するもの日増しに多くなり尼御前と称え慕い社名を尼御前神社と呼ばれるに至った。
千代女逝去の後、里人その墓を営み松を植えて千代松明神とあがめ奉った。
同女は大和国石上布留神社(現石上神宮)の神官の娘
筑後の水がめはこの神に由来するといってもいい。
「雨乞い小町 」は[著]筒井康隆 の作品。
雨乞いの和歌を天に捧げる大役に選ばれた小野小町。在原業平たち六歌仙は、未来から来たマッドサイエンティスト星右京の力を借りて、雨を降らせようとする。果たして、その結果は?
宮崎での雨乞いは青島の西にある「斟鉢(くんぱち)山」が霊験あらたかである。
宮崎市街地からもよく見える標高は五百メートルあまり。
謂われは古く日向地誌に「久牟鉢(くんはち)山」として記述があり、「彦火火出見尊(ひこほほでみのみ
こと)」(山幸彦)の御陵と伝える。山頂近くに「斟八神社」がある。その昔鉢に水を入れて神前に供え、雨ごいしたところ雨が降った。それが斟鉢山の由来という言い伝えが残る。
雨が降ったら三日間だけ水が流れるという「三日谷」がある。
樹林もここから変わり広葉樹の森に入る。
水天宮さまの 30日 は大祓の日 半年間の罪や過ち、心身の穢を祓い清めるための神事である。
、毎年6月と12月の2回、その月の末日に行なわれる。
今年は雨の振らぬ祟りを祓ってもらうがいい。
梅雨期はやはりあめがいい。水徳の神様彌都波能売神(みつはのめのかみ)に祈祷するしかないのかも。
IT時代の時勢でも変わらぬものがある。
私にしては明治維新を指し示した偉人・真木和泉守保臣を祀る真木神社をお参りしたい。
真木和泉は久留米人ながら長州藩が起した蛤御門の変においても、真木和泉が長州正規軍参謀総長の役目に就き久坂玄瑞を副官にした。 会津、桑名、薩摩らの前に自刀した。
京都・山崎は戦国時代の豊臣秀吉と明智光秀の決戦で有名な天王山があるところ。山頂近くにある「十七士の墓」には、戦いに敗れ時期そうしょうで長州藩久坂久坂玄瑞ともども自刀は京都御所を追われ王政復古の後退を招いた。
天王山中で自刃した真木とその同志16名が眠っている。
天王山は標高270.4メートル。涙の雨がよく似合う。
真木和泉の辞世の句。
大山の峯の岩根に埋めけり 我とし月のやまと魂
第22代の水天宮宮司でもあった真木和泉。水天宮境内には幕末の激しい動乱期に勤王派の旗頭として、
王政復古に一生を捧げた明治維新の先覚者真木和泉守保臣(第22代の水天宮宮司)を祀る真木神社がある。
いつか竜神が巻き起ころう。
アフリカの大地はどうなってるのか思いをはせる。
丁度、理解しやすい記述がある。
預言者ムハンマドの教友、アブー・アイユーブはイスラーム軍によるコンスタンチノープル包囲に参加した
672年、死亡した。その遺体は遺言により、コンスタンチノープルの壁のしたに埋葬されたといわれている。ビザンツの人びとは旱魃のときに彼の墓に詣で雨乞いの礼拝を行ったとされる。なお、かれの墓はオスマン朝によるコンスタンチノープル征服時に、有名な聖者のアク・シャムスッディーンによって発見されたと
いわれている。アラブの著作家、イブン・クタイバによれば、
雨が降らないとき、(コンスタンティノープルの人びとは)かれの墓を開ける。すると雨が降る1)と述べている。似たような話がもうひとつある。アラブ軍の将軍のアブドゥッラフマーン・バーヒリーは7世紀中ごろ、中央アジアでハザル族に敗れ死亡した。このときハザル族は彼の遺体を保存して、雨乞いの礼拝に使用したという。
雨乞いの礼拝に使われる墓は軍人ばかりではない。バグダードにマァルーフ・カルヒーという聖者の廟があり、多くの巡礼者を集めていた。カルヒーは9世紀はじめになくなった有名なスーフィーである。ここもやはり雨乞いの礼拝に使用されている。また16世紀のスーフィー、サヌーシーの廟(トレムセン)でも雨乞い
の礼拝が行く。
特定の場所、あるいは人(聖者)が雨を降らせる力を有している例である。しかし、雨乞いの礼拝はイスラーム世界のほとんどすべての地域で行われており、こうした地域性とは無関係のケースも見られる。とくに現代のようにメディアの発達した時代では、雨乞いはしばしば国家単位で行われることも少なくない。もともと雨乞いは、農業と直接的に結びつき、また広範な地域に関連するため、個人的な祈願というより共同体全体の祈願という色彩が強い。したがって雨が少なく、旱魃の恐れのあるとき、あるいはすでに旱魃になってしまったときには国家規模で雨乞いが行われる。
アジサイも、五穀豊穣を祈り頭重たげ
青島、市内の撤去を終える。
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沖縄では梅雨明け宣言が出た。天気図で見る限り列島自体も梅雨の気圧配置ではない。梅雨前線が新潟を横切ってる神の悪戯。
経験則からくる梅雨前線の配置はもう望めないのであろうか。
異常気象の常態化では農業は困難である。
田植え前の瑞穂の国にいかほどの降雨があったというのか。
一昨日の日向の国の雨は都城、小林の普通作の田植えは済ませたが、高千穂地区は満たしうるほどの水量が保てなかった。早期水稲も稲穂の分割時期で水量がほしい時期。
国難である。15年ぶりの雨乞いを祈願するマスコミ報道もある。
国の生い立ちから、国難にあっては御祓いで邪気を取り除き霊験あら高なれば神とあがめ社を創建した。
日本最古の歴史書『古事記』の冒頭に、「天御中主神」あめのみなかぬしのおおかみの名がある。水天宮様である。
日本一の元気都市を福岡に命名したせきやんに脆弱点の記述がかけていた。
筑後太郎に水源を求めてる筑紫の人々は渇水期の夏などには水不足を生じる。
この地にはズ〜ットこの問題が横たわって他の川はいざ知らず、筑後川は水神さんを祀ってきた。
筑後太郎に水源を求めてる筑紫の人々は渇水期の夏などには水不足を生じる。
全国水天宮の総本山が福岡・久留米にあることをご存じない方はかなりのものであろう。ここいらに謂れがあるにやも知れぬ。
水天宮様総本山って人形町んとこんやつ?だろ?正式には日本橋蛎殻町。
これが、お江戸の水天宮が賑やかゆえの誤解である。
これは、久留米・有馬公の参勤交代の折の江戸詰期に江戸藩邸に分詞された1818(文政元)年に水天宮を祀ったのを紀元とする。
江戸っ子口調は歯切れとトントンとたたみ込む所がいい。
「恐れ入りやの鬼子母神」とともに「情けありまの水天宮」という。
有馬家と水天宮を洒落て、「情け深い」ことを感謝する際に有馬の殿様をしのんで、「情けありまの水天宮」という。
按察使局伊勢命(あぜちのつぼね)伊勢は壇ノ浦から逃れた高倉天皇の女官。
筑後川のほとり鷺(サギ)野ヶ原に遁れ来て初めて水天宮を祀った。この頃は未ただ荒漠たる原野であったという。
伊勢は後に剃髪して名を千代と改め尊崇するもの日増しに多くなり尼御前と称え慕い社名を尼御前神社と呼ばれるに至った。
千代女逝去の後、里人その墓を営み松を植えて千代松明神とあがめ奉った。
同女は大和国石上布留神社(現石上神宮)の神官の娘
筑後の水がめはこの神に由来するといってもいい。
「雨乞い小町 」は[著]筒井康隆 の作品。
雨乞いの和歌を天に捧げる大役に選ばれた小野小町。在原業平たち六歌仙は、未来から来たマッドサイエンティスト星右京の力を借りて、雨を降らせようとする。果たして、その結果は?
宮崎での雨乞いは青島の西にある「斟鉢(くんぱち)山」が霊験あらたかである。
宮崎市街地からもよく見える標高は五百メートルあまり。
謂われは古く日向地誌に「久牟鉢(くんはち)山」として記述があり、「彦火火出見尊(ひこほほでみのみ
こと)」(山幸彦)の御陵と伝える。山頂近くに「斟八神社」がある。その昔鉢に水を入れて神前に供え、雨ごいしたところ雨が降った。それが斟鉢山の由来という言い伝えが残る。
雨が降ったら三日間だけ水が流れるという「三日谷」がある。
樹林もここから変わり広葉樹の森に入る。
水天宮さまの 30日 は大祓の日 半年間の罪や過ち、心身の穢を祓い清めるための神事である。
、毎年6月と12月の2回、その月の末日に行なわれる。
今年は雨の振らぬ祟りを祓ってもらうがいい。
梅雨期はやはりあめがいい。水徳の神様彌都波能売神(みつはのめのかみ)に祈祷するしかないのかも。
IT時代の時勢でも変わらぬものがある。
私にしては明治維新を指し示した偉人・真木和泉守保臣を祀る真木神社をお参りしたい。
真木和泉は久留米人ながら長州藩が起した蛤御門の変においても、真木和泉が長州正規軍参謀総長の役目に就き久坂玄瑞を副官にした。 会津、桑名、薩摩らの前に自刀した。
京都・山崎は戦国時代の豊臣秀吉と明智光秀の決戦で有名な天王山があるところ。山頂近くにある「十七士の墓」には、戦いに敗れ時期そうしょうで長州藩久坂久坂玄瑞ともども自刀は京都御所を追われ王政復古の後退を招いた。
天王山中で自刃した真木とその同志16名が眠っている。
天王山は標高270.4メートル。涙の雨がよく似合う。
真木和泉の辞世の句。
大山の峯の岩根に埋めけり 我とし月のやまと魂
第22代の水天宮宮司でもあった真木和泉。水天宮境内には幕末の激しい動乱期に勤王派の旗頭として、
王政復古に一生を捧げた明治維新の先覚者真木和泉守保臣(第22代の水天宮宮司)を祀る真木神社がある。
いつか竜神が巻き起ころう。
アフリカの大地はどうなってるのか思いをはせる。
丁度、理解しやすい記述がある。
預言者ムハンマドの教友、アブー・アイユーブはイスラーム軍によるコンスタンチノープル包囲に参加した
672年、死亡した。その遺体は遺言により、コンスタンチノープルの壁のしたに埋葬されたといわれている。ビザンツの人びとは旱魃のときに彼の墓に詣で雨乞いの礼拝を行ったとされる。なお、かれの墓はオスマン朝によるコンスタンチノープル征服時に、有名な聖者のアク・シャムスッディーンによって発見されたと
いわれている。アラブの著作家、イブン・クタイバによれば、
雨が降らないとき、(コンスタンティノープルの人びとは)かれの墓を開ける。すると雨が降る1)と述べている。似たような話がもうひとつある。アラブ軍の将軍のアブドゥッラフマーン・バーヒリーは7世紀中ごろ、中央アジアでハザル族に敗れ死亡した。このときハザル族は彼の遺体を保存して、雨乞いの礼拝に使用したという。
雨乞いの礼拝に使われる墓は軍人ばかりではない。バグダードにマァルーフ・カルヒーという聖者の廟があり、多くの巡礼者を集めていた。カルヒーは9世紀はじめになくなった有名なスーフィーである。ここもやはり雨乞いの礼拝に使用されている。また16世紀のスーフィー、サヌーシーの廟(トレムセン)でも雨乞い
の礼拝が行く。
特定の場所、あるいは人(聖者)が雨を降らせる力を有している例である。しかし、雨乞いの礼拝はイスラーム世界のほとんどすべての地域で行われており、こうした地域性とは無関係のケースも見られる。とくに現代のようにメディアの発達した時代では、雨乞いはしばしば国家単位で行われることも少なくない。もともと雨乞いは、農業と直接的に結びつき、また広範な地域に関連するため、個人的な祈願というより共同体全体の祈願という色彩が強い。したがって雨が少なく、旱魃の恐れのあるとき、あるいはすでに旱魃になってしまったときには国家規模で雨乞いが行われる。
アジサイも、五穀豊穣を祈り頭重たげ
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