○○さんとのコーヒータイム
日本の米作りと紀尾井坂と話は盛り上がったが2004年11月5日 に書いたとおりである。眠くてたまらないのでその人に向けてに再掲した。

太陽光発電の設置を薦めるためにNEFなるかっての通産省の機関の財団法人がある。

事務所は赤坂の紀尾井町ビルで公務員でもなく民間人でもない厄介な役人がいる。

昨年年3月にはこの地まで出向くハメになった苦い経験である。
赤坂見付け駅で下車して弁慶橋を渡り、目印である前にに高くそびえる赤坂プリンスホテルを右に廻って、大久保利通の殉教の地清水公園でしばし感嘆して目的地に着いたものだ。

弁慶橋のたもとには貸ボート屋があり、弁慶橋は 棟梁で知られた弁慶小左衛門が築いたことに由来。明治22年に創架。

赤坂プリンスホテルの名称は旧・北白川宮邸、日韓併合で朝鮮を滅した日本は李王家をこの地に住まわし日本の宮様とした。

朝鮮李朝の東京邸跡地に由来してる、呪われた地ではないか。江戸時代は紀伊徳川家中屋敷であった。
戦後西武のピストル堤が戦後買収した。

昭和5年(1930)建築の宮内庁内匠寮設計による木造地上2階、一部地下1階寄棟造りで昭和初期の洋式建築の旧館も現存しブライダルとか芸能
人のパーテーとして使用されている。とはHPよりの情報である。

戦後、丹下健三設計による超高層40階建てのクリスタル・パレス(略称赤プリ)別館、五色が建ち、ホテルニューオータニとともに赤坂見附交差点からの眺めに偉容を誇っている。

私みたいな田舎ものでもシーガイヤを毎日見てるので40Fは5階低いではないか、とのへんな自信がある。

赤坂見附とは江戸城三十六見附の一つ。見附とは濠の門をさし、見張所という意味。明治5年(1872)に撤廃された赤坂御門の跡である。
枡形の石垣石の刻印に福岡藩黒田家の赤坂見附跡とある。

日枝神社は文明10(1478)年太田道灌が江戸築城にあたり、守護神として川越山王社から勧請した。
その後、徳川家康の江戸入城に際して城内の紅葉山に国家鎮護の基としてこれを祀った。

毎年6月15日の祭礼は天下祭と称されて神田明神の祭礼とともに江戸の二大祭りとされた。

二つの神社の神輿だけが、将軍の高覧を受け、半蔵門から江戸城に入ることを許されたので、「天下祭り」と呼ばれた。

境内には、国歌に登場するさざれ石が置かれている。
この石の親戚筋が高千穂の天岩戸神社にも保管されている。

日枝神社は二・二六事件のあったところだ。昭和11(1936)年の二・二六事件当時、料亭「幸楽」とともに本部として皇道派反乱軍部隊が一時占拠したことで知られる。

談志師匠にして五代目小さんが参加したから負けた戦いである。
知らず知らずに反乱軍にいた五代目小さん。この反乱部隊はその後も受難が続いた。

反乱軍は雪の中、約1400名の兵を率いて首相官邸・警視庁などを襲撃した。松本清張らの研究によって、一部皇居内近衛軍との連携によって皇居侵入の可能性も指摘されている。近衛軍が動かず、現実のものとはならなかった。

岡田啓介首相は難を逃れて命が助かったものの、高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・渡辺錠太郎陸軍教育総監らは殺害され、命を落とした。

昭和天皇の怒りを受けて、クーデタは鎮圧されたが、戒厳令の中、閣僚の人選について軍の意見を入れた広田弘毅内閣が成立し城山三郎は『落日燃ゆ』の中で広田を弁護しているが軍部を政権に近づけてしまった内閣である。

山王ホテルは戦後になって、米軍に接収され、米軍宿舎として使用された。

溜池跡江戸時代から明治時代中頃までは、赤坂見附から山王坂下までが池であった。

神田上水や玉川上水などが完成する以前は、江戸の人々の飲み水として溜池の水が、江戸城内濠の千鳥が淵、牛が淵とともに利用されていた。

明治初年でも、幅の最も広いところで約2丁(220m)もあり、明治5(1872)年まで日枝神社下から対岸の赤坂田町4丁目まで、渡し舟が通っていたという。

3代将軍徳川家光は子供の頃、溜池で水泳を楽しんだと伝えられる。溜池は現在の清水谷公園あたりに水源をもとめる天然の遊水池だったので、明治43(1910)年の大洪水で溜池一帯が大被害を受けた。

溜池の交差点から約50mほど赤坂見附寄りのところに、溜池跡の碑を見ることができる。永田町千代田区皇居の南、内濠(桜田濠)を隔てた地域。町名は永田伝十郎らの武家屋敷があったことに由来する

何故にココまでも引っ張るのか。
落語ファンにして江戸学は楽しい

 昨日の11月四日、世界イネ研究会議が東京で開かれた。(会場は赤坂プリンスホテル)なのである。

 この世界イネ研究会議は、〇四年が国連の定めた「国際コメ年」にあたっており、それにもとづいて世界各国が「食糧安全保障の確保と貧困撲滅」のために、コメが果す役割の重要性を再認識すべく設定されたものだ。

なぜコメが重要なのか、それは世界の半数以上の人びとの主食であることと、栄養価においてムギやトウモロコシなどをはるかにしのぐ穀物であるからだ。
 
マレーシアのカリマンタン(ボルネオ)島のキナバル山(4101メートル)を中心に東に二五度が「葦牙(あしかび)の国」日本であり、西に二五度が「葦の生える沼沢地」カルカッタで、この地帯は生物学では「アジア・グリーンベルト」と緑が多いのである。

その緑を代表する植物が温暖湿潤の地に生える葦であるが、葦はムギやトウモロコシなどと同じく、イネ(禾本(かほん))科に属している。

 つまり東は日本から西はインド(カルカッタ)までの葦の生える「泥の風土」において、人びとはその葦をふくむイネ科の穀物類から最終的にコメを選び出したのである。

そして、そこに世界最大の人口を養い、定住させることになったのである。その意味では、コメが「泥の文明」を成り立たせている、ともいえるわけだ。

  日本民俗学の柳田国男は、日本とは何か、と問うて、その構成要素を「島国」と「コメづくり」と答えた。これに、「定住」、という要素を付け加えればいい。

コメづくりは一粒のコメ、一枚の田、一つの共同体=ムラ、そうして一つの国の内部に富を蓄積し、増大させるのである。

 近代欧米の文明は、牧畜を基幹産業とすることによって、その発展のために新しい土地(テリトリー)を獲得し、「外に進出する」こと

を必然としてきた。欧米の文明は「外に進出する力」をその本質とするのである。

 しかし、地球はいまや「外に進出する」土地の余裕がない。環境はますます悪化し、人口は増え続けている。現在、世界の人口は六十億人を数え、50年には百億人に達すると予想される。

 としたら、それぞれの民族が先祖伝来の土地に「定住」して生きてゆくために、一粒のコメ、一枚の田、一つの共同体=ムラ、そうして

一つの国の内部に富を蓄積し増大してゆくコメづくりの「内に蓄積する力」を、いまこそ再認識することが必要だ。

 コメづくりを産業と考えれば、アメリカのカリフォルニア州のように、大した利益があがらないとなればコメづくりをやめイチゴづくりに変え、

いざとなればディズニーランドに土地を売り払って別の土地に移住してゆく。そこには「暮らし」にもとづく文化(民族の生きるかたち)は生まれない。

コメづくりを「暮らし」とするためには、土地の人びとによる共同の水路づくりや草取りや土地改良、そうして品種改良や品質管理が必要とされる。つまり、「共同体」が形成されなければならない。

もはや通用せぬ欧米文明、地球環境救うコメづくりの意義を参加予定者1千名はかみしめてほしいものだ

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