楽しき民族

2005年7月16日
芥川賞、直木賞が文藝春秋社を興こした作家の顔も併せ持つ菊池寛の肝いりで制定されて70周年。
133回にして商業的イベントがますます色濃ゆくしてきている。
オリンピックもクーベルタンの創立趣旨の声を無視して、商業化してる状況が派手な誘致合戦となってるのと同じ状況がある。
5つの候補地パリ、ロンドン。ニューヨーク、モスクワ、マドリード
商業化を推し進めた母国スペインの会長・オリンピックのドン・サマランチまで引っ張り出してきたのでスペイン・マドリードで決まりと読んでたが、以外や以外の結末。
施設の着工もない島国のIRAさえ存在してる英国・ロンドンで私もおどろいた。
何も決定会場にサミットを控えながらも首相やベッカムが現れたのでひっくり返った訳でもなかろう。
競技場さえ整えていたパリの落胆振りがうかがえる。
ユーロ圏なる大欧州構想の中心たらんフランスの政治的野望に米英が一矢報いた感がある。
やはり、英国は米国と結託してくるわな〜。政治的読みである。
ところで芥川賞は芥川龍之介にちなんだものであることは承知の事実で常識化してるが直木賞となると誰?となる。宮大教育をでた一人娘にして
「直木賞て何のこと?誰?」
と子育て中に聞かれたことを思い出す。
娘は果たしてどこで何をしてるのか。お盆だナァ〜
これまで詳しき評伝のなかった直木三十五について一番顔つきが似てるといわれ続けてきた甥の早稲田出身の植村鞆音テレビ東京専務が身内にしかかけないユニークな生き方をした人生をまとめた。直木三十五伝 1,800 出版元もちろん: 文芸春秋
直木は大阪の市岡中から早稲田と進んだ。
小心にして傲岸、寡黙にして雄弁、稀代の浪費家で借金王、女好き昭和初期の文壇に異彩を放った人気作家の評伝。「直木賞」創設70周年記念出版。
直木の生涯は波乱万丈の番組のテレビに取り上げられる格好の材料であろう。
植村さんは直木の10歳弟の清二の長男。伯父さんと甥っ子直木の没後に生まれているので直木の生前のことは知らない。
6歳年上の学生時代の同棲者で後の妻の佛子寿満、愛人香西織恵
の追憶も絡まさせている。
この時期の文人の貧乏さのご多分に漏れず壮絶なる経済状況であったようだ。
出版社、映画会社と輿す大阪人らしき旺盛な事業欲。絶えず新しきものを求めていた。
裏返せば常に借金に負われた自転車操業の生涯であった。
43歳で早世した原因で先日のプロレスラー橋本真也と同じである。同じ境遇の悩みを持っているので痛いほどわかる。
出版のプラトン社で本邦初のトルストイ全集の刊行は成功した。なんか改造社の山本実彦を彷彿させる。
映画会社では製作と配給を志向した近代的センスを披瀝している。東京に転じては文芸春秋社の社友として企画をした。
文壇棋術行脚で囲碁、将棋に興じる文学者を描き
文学散歩は文学者の衣食や趣味を描き今日の文学散歩、雑誌のスタイルの原型を作った。
小説家としての作品の「南国太平記」は薩摩藩の内紛を描いた。
海音寺潮五郎の前進をなす作品。
彼の文章は随筆に近いか、現在を交差させたりで小説言うより雑文と揶揄され、文学には深入りしなかった。
作品には吉川英治、谷崎潤一郎らは注目した。
出身地の人情の街大阪では直木三十五記念館を昨年オープンさせた。
大阪市中央区の通称「空堀地区」にある複合文化施設「萌(ほう)」の2階である。
直木三十五は同地区近くで生まれ、記念館が入る施設は直木が通った小学校跡地の横に立つ。
空堀地区の町おこしを手掛ける「からほり倶楽部」のメンバーらが計画。呼び掛け人には直木賞作家の藤本義一氏や作家の眉村卓氏らが名を連ねた。
「直木賞の名こそ有名だが、その作品などはあまり知られていない直木の業績に光を当て、町おこしにもつなげたい」と関係者。
ちなみに純文学の芥川賞より、仕事の依頼が多い直木賞を誰もが望んだ時期もある。現に名前も三十二〜順に変え三十五で変更しないことを決めたという逸話がある。
ところでロンドン・オリンピックからソフト・ボール、野球が競技種目から消えていく。マイナー競技らしいので驚きだ。 
プロ、都市対抗、高校野球とレベルがある。 
NOMOベースボールクラブが大阪・堺市代表として8月の都市対抗野球大会の出場切符を獲得した。
 NOMOクラブは、新日鉄堺(休部中)出身の野茂投手が私財を投じて03年3月に設立したチーム。
昨年は企業チームの厚い壁にはね返されたが、今年はラストチャンスの近畿代表決定戦を勝ち抜いて初の栄冠を射止めた。
日米通算200勝を達成したが、デビルレイズが戦力外通告と苦境にある野茂投手に対する何よりの恩返しである。
 アマ野球の最高峰である都市対抗大会に、特定の企業の支援を受けないクラブチームが出場するのは78年の足利市・全足利クラブ以来27年ぶりだそうな。
 ここ数年社会人野球からの企業離れが進んでいる
。日本野球連盟によると最盛期には237もあった企業チームが、現在は84チームに減った。
高校や大学で硬式野球をしていた若者たちにとっては「就職」先の激減で、企業チーム入りは従来とは比較にならないほどの狭き門となった。
 高校時代、全国的には全く無名だった野茂投手は「社会人野球が僕を育ててくれた」と話す。自前のクラブチームを作った動機は、野球を続けたくても続ける環境が乏しくなった若者たちのために、自分の夢に挑戦し、完全燃焼する場を提供することだった。
萩本欽一「茨城ゴールデンゴールズ」もチーム創設の趣旨は共通している。
こちらの欽ちゃん球団はあと一歩のところで茨城県代表の座を逃し、都市対抗出場は来年以降に持ち越された。
宮崎に「欽ちゃん球団」ができたが、来年は県代表として全国展開を目指すことであろう。
 ほかにもアテネ五輪銀メダルの豪州選手が主力のウェルネス魚沼という、全く新しい形のクラブチームが出現し、社会人野球の地図は大幅に塗り替わろうとしている。
 元ダイエーの石毛宏典が旗揚げした独立リーグ、四国アイランドリーグも、新しいプロ野球のあり方に一石を投じた。
従来の枠を超え、新しい野球の形が次々と台頭している。
 昨年、プロ野球は新球団の誕生、セ・パ交流試合で騒動に決着をつけた。まだまだ日本の野球人気は根強い。
 だが、プロ野球の危機は回避されたわけではない。
NOMOクラブの都市対抗での活躍は、新たな夢を広げてくれよう。甲子園球児ももうすぐ出揃う。
日本民族ほどあらゆるジャンルにわたり、あらゆる物を取り入れ生活をエンジョイしてる民族は、ほかにはない。
豊かなる自然、こまやかなる生活空間、生活手段の中に取り入れる手法。情熱ある人材。
暑き辛い夏にはそれなりな、楽しみ方があるはずである。
フエニックスの方向から花火・・ねぇ明日にしよう。

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