鯨を食して

2005年8月13日
お盆の入り。精霊さまがご帰還なさる日々である。
職人集団はようやく暇が取れた。
昨夕ご連絡を今日に変更で朝のうちにクーラーのガス交換メンテに出向いた。
結局は部屋面に対してクーラー能力が足りないのが原因であるので新品に取り替え、このクーラーは別のうちに付け替えとした。お盆連休明けである。
幼少のころ昭和20〜30年代はジャパニーズ扇風機なる団扇。
寝入り前に添い寝の人の仕事であった。
10数人の大家族の末っ子の私は兄たちから蚊帳の中であおいでもらった。
右、左と伝わる風を数えながら寝入った。羊を数える風習はそのころはなかった。
怪談話はかえって眠りを覚まし、ションベンさえ行けず、布団に放出する結果を招き次の朝に面目丸つぶれでふさぎこんでる始末であった。
集落の中心の床屋さんは文化発信基地。漫画、雑誌があったし、
道路に打ち水をして縁台の上で将棋を指しながら夕涼みをする集落の社交場であった。
上級生を負かすほど将棋の棋力はあった。相手のなんて目か先が読め、上機嫌で遊んだ。
冬は庭の片隅の相撲土俵でヘトヘトになるまで相撲をとった方々でもある。将棋には誰かが必ずのぞき込む
それが、近所付き合いも少なく、暑い日はクーラーの部屋で過ごす。エアコンの効いた、部屋でごろ寝をしてテレビを見る大変な贅沢だ。
宮崎市内の橘百貨店で冷房なるものをはじめて知った。そこに涼みに出かけるのが楽しみだった。
新聞にある。昔はオフィスも暑かった。旧日経連会長を務めた桜田武さんが日清紡の社長になった終戦後である。部屋に扇風機を置いたら、元社長の宮島清次郎翁が「工場では、みな暑い中で仕事をしているんだよ」とたしなめたという。
経営者も従業員と一緒に汗を流せというわけである。
太陽光発電の工事は炎天下の上に屋根の上。
私はクーラー無しでいいがお客さんがこられる手前そういうわけには行かない。
冷えないクーラーを回している。
最初のエアコンの特許は1902年に米国の発明家が取り、第1号はニューヨークの印刷工場で用いられたそうだ
依頼100年、猛暑でも仕事の能率は上がり生活も快適になったが、
風情が薄れたと言ったらやはり贅沢か
田舎ではお盆の供養で一族が一同にあいそろう。
岩崎青年部は初盆の家を盆踊りで回ってるそうな。先日の新聞に練習風景があった。。
灯篭流しはしてなかった。ただし三財川の岩崎橋 から眺めて記憶はある。
裕福な地方でやってたのではないか。
鯨の白きものでオバクジラを酢味噌で食した。
久子姉の輪郭で涙が止まらない。
続けて岩雄、ツユ子。祖父袈裟助、金市さん、指の怪我のときの
内山田の人。大利のおばさん。文利君とこの親父さん。。
助役さん多くの人々の薫陶を受けたのにどこに生かされているのやら。
食からこんなにも連想できるのもお盆ゆえであろう。
迎え火はわたしの仕事であった。
霊に畏れを成さずして大和人ではない。祓いが必要である。

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