台風14号災害。
2005年9月8日田舎の県の宮崎はここまで自然破壊が進んでくると一躍クローズ・アップされる資源県となる
それは地球にとっても最大の資源県である。
特に水は人間にとって命の源であり、人間生活には一日たりとも欠かせない。
これまで宮崎市内では飲料水を含め一度もその悩みはなかった。
四国の水がめ、サメウラ・ダムとは大違いである。
九州太郎・筑後川を控え持つ福岡はよく給水車が市民の前に訪れる。熊本ほかもしかりである。
「太陽と緑」は宮崎のキャッチフレーズであったが
「太陽と緑と水」とすべきであった。
「河ヲ制スル者ハ国ヲ制スル」と云う名言は武田信玄の信玄堤で知られるところである。
これは河川の氾濫による生命財産の保持のための治水と利水による生産向上と生活の保全を意味する言葉である。
よって治水と利水で河川の維持改良がなされてきた。
しかし自然との闘いには副産物がつきまとう。
それは河床上昇による水害や、河床低下による農業用水・上水用水の水源への影響、下流部での塩水遡上の被害、海浜における砂浜の後退、さらに洪水時の河川水位上昇による内水災害などの問題が発生してきた。
宮崎は3日滞在の予定の川端康成を二週間以上も引き止めさせ名作「たまゆら」を生み出させた。夕暮れの美景九州山脈を西部の背後に控えて川端康成の心を捉えたからである。
それは日向の名が示すように太平洋のかなたから朝日が上がる朝の美しさを称えるための、朝夕「陽満ち溢れる国」を表した言葉である。
またそれは山から海に注ぎ込む水溢れる資源国のうらがえしでもある。
五ケ瀬川、耳川、小丸川、一ツ瀬川、大淀川など大小10余りの河川が太平洋にそそぐ。
最も大きな河川である大淀川は、九州次郎で筑後川に次ぐ九州第二の河川である。
その名も京、大阪を流れる淀川よりも清く澄み大きく淀んだ川として大淀川と誰言うともなく吾々の先哲は名づけた。
この流域には宮崎県人口の半数に及ぶ約60万人が生活している。
大淀川は、その源を鹿児島県曽於郡末吉町金御岳(421m)に発して都城盆地を北流し、八支川を合せて、殆んど直角に東へ転流し、岩瀬川を合わせて高岡町に出、最大の支川である本庄川を合
わせ宮崎平野を貫流し、宮崎市において日向灘に注いでいる。
その流域は宮崎、鹿児島、熊本の3県にまたがり5市16町3村からなり、宮崎市と都城市で流域人口の68%を占めている。
流域面積は2,233平方kmで山地1,731平方km(77.6%)、平地453.2平方km(20.3%)。
幹川流路長は107kmで九州第二の大河である。
気象は南海型気候に属し、流域年平均雨量は2,750mmで、霧島山系(岩瀬川、高崎川上流)、米良山系(本庄川上流)および鰐塚山系(沖水川、東岳川上流)の3地域では3,000mmを越えている。
また霧島山系えびの高原は4,804mmで日本での最多雨地点である。
過去に洪水となった降雨の90%が台風によるものである。
林相は山地面積が1,731km2の78%を占め、そのうち森林面積は1,449km2の84%である。照葉樹林として日本の代表樹木であるシイ・タブ林が殆んどを占めていた。しかるに近年農山林民の経済的理由から、自然林から杉の木の人工林へとなり80%以上が人工林となってしまった。
江戸期に日向天領としての宮崎五ケ村(宮崎市)と諸県郡本庄(国富町)そして下流部以南の飫肥藩(5.7万石)、都城諸県の薩摩藩(12万石)に分割されていた。
このような分割統治の状況から、殆んど治水対策らしきものは行なわれていない。
船運を目的とした低水路工事が主体で寛政3年(1792年)に都城領主島津久倫が都城から河口までの舟路開削工事に着手し、観音瀬の開削が2年後に完成している。
この地点は河口より51km地点であり轟ダム撤去事件として昭和30年代に有名となる。
大淀川河口より51km地点は通称観音瀬と呼ばれ、舟運交通の難所であった。今から約200年前に高さ10m位の滝であったのを左岸側を掘削して舟運可能となった。
別名轟とも云われた観音瀬に轟ダムが大正13年に建設され、これが原因で昭和36年撤去されるまで約40年間、都城盆地は殆んど毎年のように水害に悩まされたのである。
轟ダムは大正7年に電気化学工業が水利使用許可を得て建設計画されたが、「盆地の出口をふさがれて水害が起る」と地元民は猛烈に反対したが、ダムは大正13年に完成した
。そして大淀第一発電所は大正15年1月から発電開始し、昭和26年5月に九州電力の所管となった。
同ダムは観音瀬滝を利用しダム全長88m、水門は巾6m・高さ4.6mのストニーゲートが11門、ダム高さ7.1mで同発電所の有効落差は44.5m、出力18,500kW、湛水末端は約7kmであった
堆積土砂により河床は上昇し、昭和30年頃は6km付近となり、建設当初より台風による浸水が起り、地元との間に浸水氾濫補償の交渉を続けていた、
昭和21年12月に1市3町による都城盆地水害対策委員会を結成しダム撤去運動が始まった。
29年8月から9月にかけて台風が4回襲来し大水害続発して、15号台風通過後の9月29日に関係市町村民大会を開き500名以上が参加し、ダム撤去、水害完全補償など4項目を決議して社会的、政治
的問題となった。
同年9月洪水による氾濫状況は浸水2,700町歩に達し、都城市の岳下橋上流にまで及んだ。
30年1月に宮崎大学工学部土木工学科川上謙太郎教授を委員長と
する轟ダム調査委員会が宮崎県によって発足
現位置でのダム撤去が最良であらうとの結論が出され宮崎県議会はダム撤去の決議をした。
轟ダムより3.6km下流に水利上も有利な地点が得られ、増出力と水害皆無との形でダム移設が承認、許可された。
そして35年4月に轟ダムは完全に撤去され、新しい大淀川第一ダムが完成した。このような経緯を経て、40年間にわたり都城盆地人々を苦しめ続け、それに対して撤去を斗って来た人々の力
により、日本の水力発電ダム史上に残る轟ダム撤去の歴史は終ったのである
。同ダム建設後の河床は撤去前までに最大2.5mの上昇地点もあり、その土砂堆積量は、徹去後は当然のことながら急速に低下し、昭和40年には殆んど建設前の河床に復帰した。
昭和2年になって内務省が大淀川改修第一次工事を着手した。
宮崎市内平野部は、この工事完成以前は洪水氾濫原であり洪水ごと自由に蛇行氾濫を行なっていた、
その河跡湖である江平池、弦月湖、神宮池その他の湖沼が存在した事で明らかであり・旧宮大綜合グランドや旧宮大工学部正門付近では旧河川敷と自然堤防が現在でも判然としている。
大宮高校では弦月祭・文化祭として過去を知らぬ青春世代がその名残を受け継いでいる。
延岡の電気工事を職人さんたちは出かけ私は資金繰りで西走。
明日を乗り切るのみを確保。どうしようもない。
悲鳴は止まらない。黒字倒産の言葉もある。
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それは地球にとっても最大の資源県である。
特に水は人間にとって命の源であり、人間生活には一日たりとも欠かせない。
これまで宮崎市内では飲料水を含め一度もその悩みはなかった。
四国の水がめ、サメウラ・ダムとは大違いである。
九州太郎・筑後川を控え持つ福岡はよく給水車が市民の前に訪れる。熊本ほかもしかりである。
「太陽と緑」は宮崎のキャッチフレーズであったが
「太陽と緑と水」とすべきであった。
「河ヲ制スル者ハ国ヲ制スル」と云う名言は武田信玄の信玄堤で知られるところである。
これは河川の氾濫による生命財産の保持のための治水と利水による生産向上と生活の保全を意味する言葉である。
よって治水と利水で河川の維持改良がなされてきた。
しかし自然との闘いには副産物がつきまとう。
それは河床上昇による水害や、河床低下による農業用水・上水用水の水源への影響、下流部での塩水遡上の被害、海浜における砂浜の後退、さらに洪水時の河川水位上昇による内水災害などの問題が発生してきた。
宮崎は3日滞在の予定の川端康成を二週間以上も引き止めさせ名作「たまゆら」を生み出させた。夕暮れの美景九州山脈を西部の背後に控えて川端康成の心を捉えたからである。
それは日向の名が示すように太平洋のかなたから朝日が上がる朝の美しさを称えるための、朝夕「陽満ち溢れる国」を表した言葉である。
またそれは山から海に注ぎ込む水溢れる資源国のうらがえしでもある。
五ケ瀬川、耳川、小丸川、一ツ瀬川、大淀川など大小10余りの河川が太平洋にそそぐ。
最も大きな河川である大淀川は、九州次郎で筑後川に次ぐ九州第二の河川である。
その名も京、大阪を流れる淀川よりも清く澄み大きく淀んだ川として大淀川と誰言うともなく吾々の先哲は名づけた。
この流域には宮崎県人口の半数に及ぶ約60万人が生活している。
大淀川は、その源を鹿児島県曽於郡末吉町金御岳(421m)に発して都城盆地を北流し、八支川を合せて、殆んど直角に東へ転流し、岩瀬川を合わせて高岡町に出、最大の支川である本庄川を合
わせ宮崎平野を貫流し、宮崎市において日向灘に注いでいる。
その流域は宮崎、鹿児島、熊本の3県にまたがり5市16町3村からなり、宮崎市と都城市で流域人口の68%を占めている。
流域面積は2,233平方kmで山地1,731平方km(77.6%)、平地453.2平方km(20.3%)。
幹川流路長は107kmで九州第二の大河である。
気象は南海型気候に属し、流域年平均雨量は2,750mmで、霧島山系(岩瀬川、高崎川上流)、米良山系(本庄川上流)および鰐塚山系(沖水川、東岳川上流)の3地域では3,000mmを越えている。
また霧島山系えびの高原は4,804mmで日本での最多雨地点である。
過去に洪水となった降雨の90%が台風によるものである。
林相は山地面積が1,731km2の78%を占め、そのうち森林面積は1,449km2の84%である。照葉樹林として日本の代表樹木であるシイ・タブ林が殆んどを占めていた。しかるに近年農山林民の経済的理由から、自然林から杉の木の人工林へとなり80%以上が人工林となってしまった。
江戸期に日向天領としての宮崎五ケ村(宮崎市)と諸県郡本庄(国富町)そして下流部以南の飫肥藩(5.7万石)、都城諸県の薩摩藩(12万石)に分割されていた。
このような分割統治の状況から、殆んど治水対策らしきものは行なわれていない。
船運を目的とした低水路工事が主体で寛政3年(1792年)に都城領主島津久倫が都城から河口までの舟路開削工事に着手し、観音瀬の開削が2年後に完成している。
この地点は河口より51km地点であり轟ダム撤去事件として昭和30年代に有名となる。
大淀川河口より51km地点は通称観音瀬と呼ばれ、舟運交通の難所であった。今から約200年前に高さ10m位の滝であったのを左岸側を掘削して舟運可能となった。
別名轟とも云われた観音瀬に轟ダムが大正13年に建設され、これが原因で昭和36年撤去されるまで約40年間、都城盆地は殆んど毎年のように水害に悩まされたのである。
轟ダムは大正7年に電気化学工業が水利使用許可を得て建設計画されたが、「盆地の出口をふさがれて水害が起る」と地元民は猛烈に反対したが、ダムは大正13年に完成した
。そして大淀第一発電所は大正15年1月から発電開始し、昭和26年5月に九州電力の所管となった。
同ダムは観音瀬滝を利用しダム全長88m、水門は巾6m・高さ4.6mのストニーゲートが11門、ダム高さ7.1mで同発電所の有効落差は44.5m、出力18,500kW、湛水末端は約7kmであった
堆積土砂により河床は上昇し、昭和30年頃は6km付近となり、建設当初より台風による浸水が起り、地元との間に浸水氾濫補償の交渉を続けていた、
昭和21年12月に1市3町による都城盆地水害対策委員会を結成しダム撤去運動が始まった。
29年8月から9月にかけて台風が4回襲来し大水害続発して、15号台風通過後の9月29日に関係市町村民大会を開き500名以上が参加し、ダム撤去、水害完全補償など4項目を決議して社会的、政治
的問題となった。
同年9月洪水による氾濫状況は浸水2,700町歩に達し、都城市の岳下橋上流にまで及んだ。
30年1月に宮崎大学工学部土木工学科川上謙太郎教授を委員長と
する轟ダム調査委員会が宮崎県によって発足
現位置でのダム撤去が最良であらうとの結論が出され宮崎県議会はダム撤去の決議をした。
轟ダムより3.6km下流に水利上も有利な地点が得られ、増出力と水害皆無との形でダム移設が承認、許可された。
そして35年4月に轟ダムは完全に撤去され、新しい大淀川第一ダムが完成した。このような経緯を経て、40年間にわたり都城盆地人々を苦しめ続け、それに対して撤去を斗って来た人々の力
により、日本の水力発電ダム史上に残る轟ダム撤去の歴史は終ったのである
。同ダム建設後の河床は撤去前までに最大2.5mの上昇地点もあり、その土砂堆積量は、徹去後は当然のことながら急速に低下し、昭和40年には殆んど建設前の河床に復帰した。
昭和2年になって内務省が大淀川改修第一次工事を着手した。
宮崎市内平野部は、この工事完成以前は洪水氾濫原であり洪水ごと自由に蛇行氾濫を行なっていた、
その河跡湖である江平池、弦月湖、神宮池その他の湖沼が存在した事で明らかであり・旧宮大綜合グランドや旧宮大工学部正門付近では旧河川敷と自然堤防が現在でも判然としている。
大宮高校では弦月祭・文化祭として過去を知らぬ青春世代がその名残を受け継いでいる。
延岡の電気工事を職人さんたちは出かけ私は資金繰りで西走。
明日を乗り切るのみを確保。どうしようもない。
悲鳴は止まらない。黒字倒産の言葉もある。
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