島原復活

2005年11月11日
企業活動をするに当たっては世界を見据えてのこととなる。
グローバル化が世界をお覆いつくしてしまってる感が否めない。
太陽光発電のパネルさえ世界需要の関係で入荷が大変である。
ここにもご多分の事例が惹起している。
今朝5じに長崎に向かって出発したが地域経済もその波に飲まれてる。
宮崎内に見られる地域の拠点の町の中心部に人影がまばら。
小林のアーケード街のシャッターの閉まってることの多さ。
モーターリゼンション化で郊外大型店化で移転もあるが概ね総人口の減少化のせいであろう。
長崎も同じ状況である。どこでも同じ状況で悩み解決策を模索していよう。
解決策はどこにあるのか。
大事なのは、おらが国さの意識の矜持であろう。
地域で取れたものは地域で消費する地産地消なる思考であろう。
特に送り届ける際の負荷のかかるエネルギーはこの地域エネルギー管理が一番手っ取り早い。
地域経済の枠組み作りの最高が解決策になるやも知れない。
市町村の合併が進んでるのがその前段の役を果たしてるならいい。
役場や市町村のリーダーにその思考があるや無しやは疑わしい。
その枠組みを考えるのがリーダーの資質である。
その地域のワク内は群雄割拠した戦国時代の藩政ぐらいでもいいのかもしれない。
中世の九州は京の都には遠いゆえ天下盗りには無縁であった
九州に覇を唱える戦いの断片のある時期に、
大友宗麟、伊東、島津、竜造寺,有馬=島原が割拠してた時期があった。
何代か遡る作業の中で必ず行き着く
11月11日の日は早起きでサッカーの日をお祝いされた方もおられたようでもある。
長崎・島原では本家復活の記念碑序幕式であった。
島原市の名の由来は旧島原城=浜の城跡=中央公園にある。
その公園に記念碑が立った。
島原氏は中世島原半島の有馬を拠点に覇を立てた有馬氏の一族である。
島原純茂、純豊父子はその祖である。佐賀の竜造寺に与したゆえ1584年沖田の戦いで故郷を追われた。
島原の名前は残ったが松倉、高力、松平の居城となり島原城=森岳城となり、島原氏の記憶は一切きえた。
420年の歳月が流れての今日なのである。
神奈川県在住の純豊の末裔、島原弘之
先祖の供養にこの日を迎えたのである。その胸中いかほどばかりか計り知れない。
島原フェリー・ターミナルはそぼ降る小雨。
神は全てお見通しなのか。
歴史は文化そのごの経済さえ形づくる。
有明町と島原は来年1月合併し新島原市となる。
天草四郎の悲劇の原城はここにも登城しない。
松倉藩政の時代であったと記憶する。
島原フェリー・ターミナルより僅かに数キロ南だが、いまだ見てない。
為政者は町並みを城移築とともに街の中心さえ変えた。
農民一揆では様にならぬゆえキリスタン一揆と置き換えた歴史の捏造であろう。
私がここに無理やり泊されるのなんかの因縁めいている。
最終フェリーをやり過しこの日も宿泊。
ナントなれば太陽光発電の仕事がうまくいき、小長井町のご紹介者にご挨拶に入ったスケジュールがオーバー時間となった故である。
仕事がうまくいき、終わりはどうでも由と開き直り宿泊である。
太陽光発電を補完するバックアップ・バッテリー機器の納入をも決めていただいた。
全てを良しとせねばならない。
精神を込めた島原復活が果たされた日。
市民は殆んど知らないのであろう。
シマバラの雨は涙雨なのかもしれない。
これではシマバラの起爆剤にはならない。
民主主義時代は舵取りが難しい。
地産地消の思考はなにもそこで取れるものをそこで食べようでは
地域パワーにはならない。
地域エネルギーさえ見据えた地域の復活、中心地の再建なのである。
太陽光発電エネルギーがその根底となろう。
エネルギー問題は人を地域を変ええるパワーを持つ。
ドイツで実証された環境立国にお手本がある。
ことは危険なる地球環境ゆえ急がねばならぬ
危急存亡のときを地球存亡のときと読み替えてもいい。
ネット環境さえない島原で足止め。
普賢さまの呼びかけの言霊に答えなかったからであろう。
精神的島原復活の今日という日にここにいる不可思議さ
奇妙なる縁を感じている。
何かゾクゾクとしてくる。
いい機会を得たのやも知れない。

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