大化の改新

2005年11月13日
カッターシャツにネクタイの昨日は車の中の暑いこと。
それが今朝から急に寒くなりました。
ようやく枯葉の舞い散る季節がやってくるのでしょうか。
京都の紅葉の美しさが今一であるニュースを昨日朝見た。
この百年で4度上がった事や寒さが襲来してないこと雨の量が少ないことを研究者は揚げていた。
〈わが歩む落葉の音のあるばかり 杉田久女〉。
落ち葉を歩くと、カサリ、というかすかな音は、人のつぶやきにも似ていると新聞が書いた。
強い風に吹かれて一斉に転がるときには、無数の風車のように、かしゃかしゃと鳴る。と続ける。
枯葉舞い散る季節の到来もマジか。
枯葉は越路吹雪がいい。
そりゃ〜ピアフやイブ・モンタンはフランス語で異国を感じて情緒溢れ出でる本場仕込み。
1921(大正10)年の10月13日、フランスのシャンソン歌手、俳優のイヴ・モンタンが誕生。
イタリア・モンスマーノに生まれたが、2歳の時にファシズム政権を逃れてマルセイユへ。
1944年にはパリ・ムーランルージュなどで舞台に立ち、
1946年の映画「枯葉/夜の門」で歌った主題歌「枯葉」は後に世界的なスタンダード・ナンバー「枯葉」。
 「枯葉をかき集めるのはシャベル 思い出もそして未練も/北風はそれらを運んでゆく 忘却の冷たい夜へ」。詩人ジャック・プレベールが作詞した」の翻訳の一節だ。
「あのころ 人生はもっと美しく 陽はもっと燃えさかっていた」
 この詞は知らなくとも、この季節に「枯れ葉よ……」の印象的なメロディーを思い起こす人は私のみではあるまい。
プレベールとの共作が多いジョセフ・コスマが、第二次大戦が終わった1945年に作曲した。
 やがてイブ・モンタンの歌で世界に広まった。
ジュリエット・グレコが世に出た曲としても知られている。
コスマは、100年前、ハンガリーのブダペストで生まれた。
移ろいゆく人生を「枯葉」として哀切な旋律に結晶させこの季節を現した。
食べ物が又、旬で出回る季節。
立冬の女生き生き両手に荷 岡本眸
両手のものは 白菜か、大根かなど勝手に想像する、店頭にあるといっても、やはり冬こそ似合う
漬物はすっかり店で買うものになった昨今だが、かつてはこの季節、どこの家庭でも漬け込みを始めた。
それぞれのぬかみそがあった。
鍋の季節の到来でもある。白菜は鍋に欠かせない。
大根も同じでふうふうやるのがこたえられない
「暮しの手帖」別冊の最新号で30年前の同誌の特集
「どうして大根の葉を棄てるの」を再録している。
「あんなにおいしいものを、平然と棄てているのは、なんとももったいないことです」
ソリャ〜そうだ。昨日都城で頂いた間引きした大根葉の味噌汁は最高であった。
日本の最高の歴史ニュース。
歴史の年号覚えで最初に来るのは645年の大化の改新ではないのか。1192の鎌倉幕府が次に出てくる。
その大化の改新の蘇我入鹿邸の遺構が明日香で発掘された。
甘樫丘東麓遺跡 は蘇我入鹿邸の建物跡でそこから出土した。  
 大化の改新で暗殺された飛鳥時代の大豪族、蘇我入鹿の邸宅「谷(はざま)の宮門(みかど)」の可能性のある5棟の建物跡が、奈良県明日香村川原の甘樫丘東麓(あまかしおか)遺跡で出土したと、奈良文化研が13日、発表した。
 建物が甘樫丘に入り込んだ谷を大規模に造成して建てられ、焼けた壁土なども見つかったことが、「日本書紀」の記述と一致した。
古代の豪族支配を象徴する蘇我氏と、国家の大改革を導いた大化の改新の実像に迫る一級の資料。
 現場は甘樫丘の東麓で、入鹿暗殺の舞台となった飛鳥京跡の西約600メートルの地点。
蘇我氏が建立した日本最古の寺、飛鳥寺からは南西に約600メートルの位置。
 約730平方メートルを発掘したところ、建物5棟分の柱穴と長さ12メートル以上の塀の跡が見つかった。
1棟は幅10・5メートル、奥行き3・6メートルの規模で、直径20〜30センチの柱穴が並んでいた。
柱筋に沿った溝(深さ20〜30センチ、幅80センチ)には、7世紀前半の土器や、焼けた土や炭が埋まっていた。
 これらの建物は倉庫などとみられ、母屋にあたる主要な建物は、さらに東側にあると予想される。
現場のすぐ南の斜面でも1994年の調査で、焼けた壁土や建築部材、土器が出土していた。
 「日本書紀」には、644年11月に「蘇我大おお臣おみ蝦えみ夷しと、子の入鹿は家を甘樫丘に並べ建てる。大臣の家は上の宮門、入鹿の家は谷の宮門という」という記述があり、翌645年6月に入鹿が暗殺された翌日、蝦夷が自邸と入鹿邸に火を放って自害したと書かれている。
 現地見学会は16日午前10時〜午後3時。
 和田萃(あつむ)京都教育大教授(古代史)の話
「大化の改新は強大な権力を持っていた蘇我氏が滅び、天皇家が律令体制を固める契機となった古代国家最大の政争。
その舞台の一つが発見されたのは、歴史の解明に結びつく非常に重要な成果だ」
4・5世紀,地方の豪族を制圧し大和王権(大和朝廷)が全国を統一。
6世紀の中頃に日本に仏教が伝わる。
この時,都は奈良県の飛鳥。
聖徳太子は蘇我氏とともに仏教を広め,大王(天皇)を中心とした国家建設を目指す。
この理想は7世紀に継承され,大化の改新や壬申の乱を経て律令国家の完成へとつながっていく。
百済の聖明王から仏像がおくられたが、天皇は,これをまつるべきかどうか迷って大臣の蘇我氏に預ける。
蘇我氏はさっそく家に持ち帰り,別邸を寺に造りかえる。
やがて,国内に疫病がはやり始め,蘇我氏と対立していた大連の物部氏は
「仏などまつったから古来の神々が怒ったのだ」と言って寺を焼き払い,仏像を池に投げ捨ててしまう。」
74年,一人の聡明な子が誕生。
馬小屋の前で生まれたと伝えられる廐戸皇子,後の聖徳太子。
蘇我氏の血を引く廐戸皇子は,蘇我氏と物部氏との対立の渦に巻き込まれる。
587年,蘇我氏と物部氏は総力を挙げて戦う。
はじめ戦上手な物部軍に押されていた蘇我氏と廐戸皇子連合軍でしたが,廐戸皇子が四天王に祈り,そのご加護もあって勝利します。これで実質的な権力を握った蘇我氏は,推古天皇をたて,その摂政を聖徳太子とする。
聖徳太子は603年に冠位十二階を,翌年憲法十七条を出して国の政治を整えていく。また,外国とも積極的に交流し遣隋使を派遣して大陸の文化を取り入れる。
22年,聖徳太子が亡くなると,蘇我氏は大王と同等かそれ以上の力を持つようになる。
蘇我氏は大陸や朝鮮半島からの渡来人たちと深くつながり,新しい知識や技術をいち早く取り入れ,革新的な考えで政治を進める。
乙巳の変・大化の改新
国の政治の先行きを心配した中臣鎌足は中大兄皇子に蘇我氏打倒の策を相談。
645年6月12日,雨の飛鳥板蓋宮では皇極天皇が朝鮮からの使者と会談その席に蘇我入鹿も同席。
中臣鎌足や中大兄皇子は一気に蘇我入鹿を惨殺。
「わたしにどんな罪があるというのだ。」と叫んで入鹿は息絶えたと言う。
中大兄皇子は皇極天皇に「入鹿は大王一族を滅ぼそうと企てていた。」と説明し,すぐさま甘樫丘の蘇我氏邸を包囲,入鹿の父蝦夷は館に火を放ち自害したため,ここに蘇我氏は滅ぶ。
大化の改新は飛鳥時代に発布された改新之詔(みことのり)に基づく政治的改革。
天皇の宮を飛鳥から難波宮 (大阪) に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治への転換点となった。
大化改新は NHK、で05年放送された。
組織を考えるとき、わからないでもない。

ブログ・ランキング引き上げて元気くださ〜〜い。
ワン・クリック!よろしく!

http://blog.with2.net/link.php?62076

コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索