平和の願いの塔

2005年11月15日
民主主義国家ゆえ使われなくなった言葉がある。
降嫁もその一つであろう。
天皇家から庶民階級の家柄に嫁に行くことである。
報道ネタのないマスコミがこことぞばかりに一斉に報道した。
紀宮のご成婚の日であった。
宵闇迫らんとする夕方に、宮崎市内を一望する「平和台」に佇んでいる。
資金繰りでこのに近辺の在住の方にお会いしての帰りである。
南十字星を背景に立つ異様なる暗がりの塔。
18時からキッチリにライト・アップ一瞬に華やいだ塔が忽然と姿を現した。
戦後GHQにより、禁止された「八紘一宇」の文字がクッキリと浮かんでいる。
「八紘」は四方と四隅つまり世界・天下のこと、「宇」は家天下を一つの家のようにすること。
太平洋戦争の「大東亜共栄圏」の建設を意味し、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた。
この時点で紀宮のご成婚は記憶になくまったくの偶然である。
末永きご多幸をお祈りした。
平和の塔名を変えた八紘一宇の塔は日本書紀「八紘をおほひて宇(いへ)とせむ」からきている。
私共の世代は八紘台と呼んでいた。建設後からの呼び名らしい。
戦後は「平和の塔」と改称されたが、「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」が正式名称で、通称「八紘一宇の塔」と呼ばれた。
神武天皇が大和に東征するまでの皇居と伝えられる皇宮屋(こうぐや)の北方の丘の大地である。
紀元2600年の記念事業として昭和14年5月に着工、昭和15年11月に竣工した。
この時期を代表する彫刻家日名子実三(1893〜1945年:大分臼杵出身)出身の設計による。
これではご愛読いただいてハズのうどんさんがお喜びにならないので私共の観光協会のHPを参考にして記すとこうである。
サッカーのサポーターなる人々が着用してる応援グッズのユニホームの左上の変な鳥(?)のことである。
アレは何なのか。うどんさんにお伺いしたいものである。(笑い)
日名子実三は日本サッカー協会(JFA)のシンボルマーク「八咫烏(やたがらす)」の製作者、でも知られている。
八咫烏(やたがらす)は、神話に出てくる鳥、神武天皇が東征の時に熊野から大和に入る吉野の山中にて、道に迷われ、その際に天の神が道案内としてつかわした鳥何だそうな。
これは、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助に敬意を表し、その出身地である和歌山県那智勝浦町にある熊野大社の八咫烏をデザインした物との事。(えっへん!)(エバッテラ〜アホみたい・・ウェキペデアにアルジャァ~ン)
ところで塔であるが御幣を四方からみたイメージモデルをもとに設計施工された。
基柱の高さは礎石から120尺(1尺は約3メートル)塔の
高さ37m、基部面積1070平方m、敷地9900

苑地設計:林学博士 田村剛
基柱設計 模型 日名子実三
模型による仕様設計 南省吾
施工 大林組

着工 昭和14年05月20日
定礎 昭和15年04月03日
竣功 昭和15年11月15日
正面中央には秩父宮殿下の御染筆を拡大した「八紘一宇」の文字。
基柱の四隅には民族の結束と向上をあらわす篝火台がおかれ、
その下には武人・工人・農人・魚人として仮の姿を見せた神霊(荒御魂・和御魂・幸御魂・奇御魂)が配されている。
約30メートル手前から拍手を打つといわゆる鳴き龍(日光の東照宮「鳴き龍」)と言うの如き反響音がある極めつくされた技がある。
塔を製作するにあたり日名子実三氏は昭和13年秋頃より約二ヶ月間、宮崎県下の高千穂、美々津、西都原等を見て回り、構想を得たそうだ。
 外形は神事に用いるご幣を象徴しており、そのひとつひとつは宮崎神宮の御楯の形である。
塔の四隅に基柱四魂像を配置、正面の扉は西都原の鬼の巌屋を形どり、全体の段々は高千穂町に多い段々畑や、神武天応お船出の地、美々津(日向市)にある立磐神社境内にある天皇腰掛岩を表現し、皇子原(高原町)の玉垣などを取り入れ、ている。
スペインのガルデーの建築物を超えるものがある日本の誇る一大建築モニューメント。
「八紘一宇」という言葉は、神武天皇が橿原で即位された時の勅語の一節「八紘を掩いて宇と成さんこと亦よからずや」という建国の理想からきている。
GHQ司令部は昭和20年12月、「八紘一宇」という語の公文書における使用を一切禁止。
日本を侵略戦争にかりたてた世界征服思想とした。
観光協会のHPにはこう書いてある。
礎石に使用された1789個の石材は「宮崎県や郡市町村を区域とする公的団体。道府県及び道府県を区域とする公的団体。樺太庁、朝鮮総督府及び各道、台湾総督府及び各州庁、南洋庁、関東州の
公的団体、満州国各省、及び同区域に在住の日本人会、支那各地、独伊其の他帝国大公使館、領事館所在地日本人会、大陸又は太洋上に挺身奉公中の郷土部隊」に提供を依頼したもので、それぞれに提供者の名前が彫り込まれている。
世界中からの切石がらなっている。
「侵略の象徴」とされた塔が復活してきているのは時の政治情勢。
復元と保存の機運が起こり37年になって「荒御魂」像が、40年には「八紘一宇」の文字が復元された。
「もはや戦後ではない」の言葉を生んだ昭和39年の東京オリンピックの聖火リレーはこの「平和台=八紘台公園」がスタート地点となっている。
正面厳室の入口は、西都原古墳の石室をかたどったもので、
扉には神武天皇が東征のため美々津から船出する模様が描かれている。
このレリーフももちろん日名子実三の作品。
日向にはこのエピソードの記念碑「日本海軍発祥之地」の碑があり、これも日名子の造形である。
市内夜景が一望できるこの地にも太陽光発電所を建設できないものか。
平和の塔をバベルの塔やスペイン・ガルヂィーにはなりえないものか。
バツグンのアペール効果があるはずである。
65年前全国の勤労隊が無償奉仕でこの大地を切り開き、この塔を作り上げた。
純粋無垢の国家への忠誠、国家の繁栄を祈念してのことだ。
時代は変われどその精神は受け継がれていいハズだ。
形を変えたエネルギー問題の解決の糸口としての巨大太陽光発電所を子の地に建設するのである。決して無謀なるお話ではあるまい。
朝の8時の太陽光発電オール電化のお話ははキャンセルになり夕方に変更。結局は幻になった。
本日お昼前、宮崎第一級のパネル520枚=70KWの太陽光発電所建設の受注に成功したのもここにお導き頂いたごりやくの後付なのか。工事の安寧をお祈りした。
偶然に、まったくの自然にこの地を訪れた不思議の平和の願いの
塔。
再度紀宮ご成婚のいやさかのご多幸を祈った。

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