ありがとう!

2005年11月22日
YAHOOで明暗のニュース。
米ゼネラル北米9工場を閉鎖し、3万人をリストラすると言う。
NYでは鹿児島・熊本・宮崎協同で焼酎の試飲会を開催したそうである。
空前の焼酎ブームが沸き起こっている。
焼酎はかって下級の酒であった。
1970年ころの当時の宮崎県内では県北・延岡では宴会は酒でまだ焼酎と思しきものは愛飲されてなかった。
東京出張の折には焼酎がまったく入手不可能ゆえバッグに忍ばせて思いリュュクをさらに重くしたものである。
それが状況が一変している。
かつて焼酎は暑さに弱く、仕込んでも酸敗や腐敗がしばしば起こっていた。
酒のなりそこないを蒸留したようであった。
わたしの幼き記憶のころでさえ「ドブロク酒」でまだそのような状態であった戦後のことだ。
我が家では味噌を作るのに麹菌を買ってきた。
似たようなものであろう。
そのとき麹菌は見た記憶がある。
菌糸は、違ってたのであろうか。
なんか菌の入ってる袋の川内菌のイメージがあるのであるが違ってたのであろうか。
焼酎が劇的に旨くなったのは大正時代という。
現代焼酎の父「川内源一郎」の存在なくして語れ得ない。
もともと生家はヒロシマの醤油屋である。
ゆえに麹やもろ味には慣れ親しんできたわけである。
今の大阪大学で醗酵学を修得して明治42年=1909年に26歳で焼酎蔵元に派遣サル。
酒造りは一麹、二にモト酒母、三に造りといわれる。
ところが清酒と同じ黄色麹が使われていた。
寒冷地の清酒に向く黄麹がここの焼酎に合うわけがない。
南国には南国の麹である。
そこで沖縄の泡盛に使われる黒麹に着目、醸造したし、
仕込みやすくやや辛口の旨い焼酎を醸し出した。
「ハイカラ焼酎」の誕生である。
大正12年黒麹の中に白い点を発見。
培養してみると突然変異で生まれた黒麹のアルピノ=白子である。
それで焼酎を造ると黒麹に比べ口当たりも柔らか。
新しき菌の発見である。
川内菌=アスベルギルス カワチ キタハラと命名
昭和6年種麹屋川内源一郎商店の誕生である。
ところが育ててきた麹屋と競合する。
そこで白麹は朝鮮半島や満州に送られ自らもその地で焼酎を作った。
韓国のマッコリや中国のコウリャン酒は川内菌が今でも使われている。
どうりで日本の味がするはずである。
そこから逆輸入。
日本の焼酎文化を変えたわけである。
ところが成果をみずして急逝。
現在の川内源一郎商店の社長山本正明に引き継がれた。
九大で醗酵学を修め数奇な縁で川内の長女昌子と結ばれる。
甘く切れ味のいい焼酎の黒菌を発見しクロ焼酎に火をつけた。「黒麹NKニュークロ」と呼ばれる菌である。
黒麹で仕込まれる芋焼酎の殆んどがこのNKが使われている。
川内源一郎商店が扱う焼酎陽の種菌は全国シェアーの80パーセントを超えている。
今飲まれたダレヤメのバンシャクもそうなんですヨ!
私はお別れの焼酎である。
ご冥福をお祈りいたします。
北郷で現場協議。そこから延岡。
門川から都城に向かう途中、延岡の恵比寿様からお電話を頂いた。
鹿児島からの帰りで都城の食事処の紹介の要請。
いけすの川太郎を推薦し待ち合わせ。
狭まばれた交友関係の中での充実しきっている。
どうにも瞼がゆれている。何も列車の振動での画像のブレではない。
どうにも疲れの蓄積のようだ。
寂しさはどうにもカバーできないがどうしても無理なら捨て去るが言い。ところが都城の出会いは空振り。
川太郎は満員でお断り。
さりとて長崎より帰りし仲間二人とはすれ違い。野尻という。
お通夜ゆえ行き違いは仕方ない。
ただ、宮崎駅まで迎えに来ていただいていた。感謝である。
多忙はまだまだつづく。
23日は名古屋より太陽光発電架台メーカーの方がわざわざ525枚のパネルの技術指導を頂くためにご來所される。
24日は行事のめじろ押し。
オゾン工事の着工、14時からバイオマス・システムの説明会。16時にはエネパックについて本社からこられ説明会。大阪からは○○課長さんがNEDOの現場協議でお目みえになる。
延岡の冷房工事もある。
又、毎日10人の職人さんを派遣せよ!との命令の仕事の打ち合わせ。
県内一の方の要請はきつい。お話は絶対なる命令である。
命ながらえよ〜。ゆっくりゆっくり
私はまだまだしぶとく生きる。
ありがとう。!さようなら。

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