憂国忌

2005年11月25日
文化の秋を思わせるにふさわしき憂国忌
人生は複雑である。
複雑なるものを簡単にするのは暴力よりほかにあるはずがない。
絞死で去ったNPO法人の中心人物の残滓が離れない。
自分自身と周りへの暴力的なるこの世からの去り方である。
自分自身への課題の問い詰めで去れない者がここにいる。
罪滅ぼしでの地球環境の改善にまい進している。
その様はセルバンテスがドンキホーテとしてパンチョとともに風車に向かって喜劇を演じてるが如くである。
グローバリズムなる利益本位の凶暴なる牙が世界を席巻してるのに背いてる滑稽なる姿である。
既に相撲で言う死に体なのやも知れぬ。初黒星の日の朝青龍の燃え盛るものではない。
死に別れと生き別れを考える場合にどちらが酷か。
諦めるという思考能力を持ち合わせているホスピタルゆえおのずとどちらに分があるかは自明の理
それは芸術作品に洋の東西を問わず昇華する。
名画「第三の男」のハリー・ライムは死んだハズなのに異国の地に生きていた。であり、松本清張の原作をテレビ放映したなかに戸籍のない男が国際を法浪するストリーであった
のを彷彿する作品があった。
このことからしても明らかだ。
友人知人を失い続け、打たれ強くはなっている。どうにもすすり泣くのに弱い。
忽然と姿を消した小市民の平和なる家庭・家族。
国家形成の最小単位のつながりである。
家族らはどのように変わらず生きているか。
国家権力なるものの暴力的断罪がまかり通る限り常識ある社会は安寧であろう。
憂国忌はこの時期チョッピリでも哲学的になれる人間らしさにふさわしき問題提起の日である。
敬愛するブログの方のように・・・優雅にひと時を見直すのもいい。・・・上野でやっている「北斎展」へ行ってきた。噂通り凄い混みようであった。 国立博物館所蔵のばかりでなく、海外からのお里帰り、他の美術館からの貸し出しを含めて、300点近い作品の展示である。///
私が左陣営に身を置き模索してるとき衝撃が走ったのが1970年の今日この日であった。
軍隊の本拠地・市ヶ谷のバルコニーから三島由紀夫が自衛隊将士に投げかけた断腸の叫びである。
それはマスコミを通じた全国民に対する問いであり、全世界に発信すれことも計算されての天才三島の 憂国の叫び出あった。
「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へと落ち込んでゆくのを見た」、
バルコニーからの「檄」の断末魔の叫びに結びつく。
語彙にかける私はこのとき「檄」なる言葉を知った。
人類史における文明間の接触は、数千年間つづいてきたがいずれ同根で「コーランか剣か」の二者択一によって行われてきた。
聖書が鉄砲とともに伝来したのは、歴史の一挿話ではなく本質そのもの。
食うか食われるかの世界で、文明間の力学関係から文化がまぬがれていると思いこむのは稚戯にすぎない。
鶴の新聞が毎日届けられてるので証明されている通りである。
この組織の持つ文化性と本質的暴力性は政権与党としても欺瞞に満ち溢れてる
文化が宗教の座を占めようとする現代特有の、現象ににすぎない。
かつては自分自身の信仰を受けいれるにさいして、「しからずんば死」を決定しなければならなかった
しまばらの歴史であり、都城地区のかくれ念仏である。
「日本人は自己の宗教的感情を祖国の観念に転化する国民であり、現人神=天皇こそはかかる観念のシンボルにほかならない・・・・」(フィリップ・ラブロ)
バッハ は奏でる“マタイ受難曲=ペテロの否認” 第39曲 アリア 「憐れみたまえ、わが神よ」
ペンの力の才能を借りて、アンドレ・マルローは仏・文化省大臣まで勤めた。
1958年、ド・ゴール大統領のもとにフランス第五共和国が成立したとき、フランスはアンドレ・マルロー
を特使として日本に派遣し、国交を樹立した。
今日の日露100年プーチン訪日とはずいぶんと違う手法にお気付きのはずである。にほんが世界で一番輝いていたときである。
小津監督の作品群に見て取れ時代で、封切られている「夕日が丘三丁目」?Or{三丁目の夕日}がちょうどいい。
その時、偉大なる使者は、日本人の知識階級の聴衆を集めた講演席上において次のように提唱した。
「西欧全体にたいしてフランスは日本の精髄のたらんとするものであります」と。
仏国大使・マルローはこう言ったのだ。
日本の精髄について全世界が甚だしい無知のなかにいるということを高らかに謳いあげたのである。
欧州一の歴史ある国を感嘆させたものである。
「日本は中国の一遺産ではない。なぜなら日本は、愛の感情、勇気の感情、死の感情において中国とは切り離されているから。騎士道の民であるわれわれフランス人は、この武士道の民のなかに、多くの似かよった点を認めるようにつとむべきであろう。かつ、真の日本とは、世界最高の列のなかにあるこの国の12世紀の偉大な画家たちであり、隆信(藤原)であり、この国の音楽であって、談じてその版画に属するものではない」と。
「鉄の琴に合わせて歌われたその歌は、死者の歌、英雄の歌、深淵なるアジアのもっとも深淵なる象徴の一つにほかならない!」と。
それがどうであろうアングロサクソンの守銭奴化した世界秩序に巻き込まれ消えうせている底浅き国。
培われてきた世界唯一の男系皇室のいとも簡単なる変更。
憲法改正の現実化との薄っぺらな現代日本人。
そのころでさえまだ指導者にヒンがあった。道をわきまえていた。列強からサゲすがれながらも。
三島の「檄」
「日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくしてなんの軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ・・・・」

死を賭してまでその復活を振起しなければならなかったこの「日本」、幻視者・三島の心中にあってはすでに死に絶えていた「祖国」は、逆にフランスにあっては、いまや最も理解されうる一概念である点に思いをいたさなければならないであろう

『一個の民族にとって、嵐のなかで最も確かな星とはみずからの使命にたいする忠誠である』
日本には、日本でなくしては果たしえない使命というものがあるはずです。それは日本民族がその建国の始めよりして連綿と培ってきたなにものかであるはずです。これに飽くまで忠実であろうとする民族意思のうえに国の統一と再建がなされねばなりません。
大阪より雲上人のお方を向かえ、レクチャーを受けた。
工法一つかえるにしろこのエネルギーを使う世界企業の真髄を見る思いで怖く身が震える。
身に余る光栄なる畏怖心。
それにしても器の差がこんなにあるものか。
「耐震」誤魔化しの情けない職人のおはなしにも及ぶ。
この国の行く末をも語った。
日ごとの精進が問われている。
廉価の太陽光発電の普及。
ようやく太陽光発電525枚パネル=70KWの架台が決まる。
施工はアパデン宮崎!堂々と粛々と名誉ある工事に取り組む。
三島由紀夫の憂国のパワーを頂きながら。
ガンバ!せきやん。

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