再建

2005年12月19日
訳あってハンドルを持ってなくて営業をこなしている。
よっていろんな方々のお力を得ており他力のありがたさに手を合わせている。
その環境の中でたゆまず休まず職人さんの仕事を取ってきた。
その状態ゆえ常に謙虚に人に接するという姿勢であり、見えないものが見えてくる。
そのことはさらに、悪しき性格を直す副次効果をも生んでいる。
南のかなた90KMにキッチリ13時につけたのも緊急にお願いしたにもかかわらず即決で運んでいただけた。
実に感謝に耐えない。○○さんのお陰さまである
帰りは1020円で宮崎までJRである。
ポーツマス条約100年
小村寿太郎生誕150年
の案内板が立っている。
日露戦争勝利のポーツマス条約を結んだときの全権大使が日向・宮崎の人小村寿太郎外務大臣であった。
城山三郎「ポーツマスの旗」での作品に昇華した、
ところでこの駅であるがよくもハレンチなことをしている。
伊東マンショの像のことである。
歴史は為政者が書き換えるのが常だが近代史での市長・日南市民自らではいただけない。
中世日向・宮崎の地は幾多の戦いを経て伊東氏が支配してきた。
都城やえびの、加久藤そして日南串間、北は門川延岡をも含む一大勢力であった。
今日の宮崎県の範囲にほぼ近い。
勝手の支配者のお城跡にどこもかしこも県庁ができたのだが、
宮崎と札幌のみ県庁がお城の跡に無いのである
明治維新期では耳川のほとりに県庁があり、美々津県のみで現在の範囲の宮崎県は存在しなかった。
川越進をリーダーとする鹿児島からの分離運動で現在の宮崎県ができたのである。
このときの伊東氏の領地が宮崎県の地域を決めたと私は考察する。
西都市・都於郡に本城があり、48城で支配地を経営してた。
伊東マンショはこの地で生まれた。
ローマの地にも「トノクリ」の文字が読み取れる記述がある。
その後島津に攻められ落城、妻の出たる大分の大友宗麟を頼った。
伊東マンショも大分まで逃げた。
それからローマに立つのである。
ところで小田原・北条を滅ぼした秀吉は九州の支配者・島津を攻めた、
その戦の功を認め日南・飫肥の地に伊東家の領地を再興させた。
西都・大分に没落・日南で再興の伊東家の変遷である。
かって大河ドラマの「西郷隆盛」を西田敏行が演じたことがあった。
その第一回目がこの駅から報じられた。
この像をである。
NHKはつまるところ歴史の捏造に加担したことになろう。
像の碑文は言う。
「郷土が生んだ伊東マンショ13歳(天正10年正月1542年)のとき
遺欧使節主席正使として長崎を出各地において歓待を受けローマ法王にも謁見を許され8年余後に帰朝した。
このとき活版印刷機と活字。各種西洋楽器、観象観測機、測量機海図とかの文物を我が国にもたらした、
マアショは伊東家の出でその母の町の上夫人墓は藩主の墓地に眠る。
京都聚楽第で関白秀吉の前で演奏をしたといわれる古典楽器を復元し国際交流会館小村記念館展示するにあわせここに像を建設する。 平成4年3月日南市
                       田中等製作
像は高鍋町の田中さんのようであるが納入作品一覧にのっけてないのはどうにも解せない。
とにかくこの地からの像の撤去は緊急である。
過ちは正されなければならない。
土曜日着工した70KWの太陽光発電の建設がスタッフ不足で心もとない状況である。
あまりにも多くの人々が意見を持ちすぎ、組織の規律が乱れているゆえである。規律の弛緩は組織を滅ぼす。
多忙ゆえ放置していたのが今日を迎えた。
統一した行動に無かったゆえである。
分散したのががいけなかった。
離合集散は世の習い。
再度一からのやり直し。
過ちを直すことにたじろぐ事なかれ!

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