NHKの世界遺産の放映にはまだ見ぬ世界各国の至宝に感動の連続である。
宮崎にも埋もれていた国宝級の史跡、人間国宝が今年の注目となるやも知れぬ。
新成人に沸く新宮崎市に高岡、田野町とともに佐土原町が加わった初めての行事である。
新宮崎市では唯一の城下町が佐土原町である。
佐土原城跡が昨年国指定史跡となり、町民も城にまつわる文化財講座や展示会に興味を示しはじめている。
佐土原城は一般には知られていないが歴史好事家は垂涎の的の秘密を秘めている。
一躍脚光を浴びるようになったのは9年前の発掘調査からである。
それより全国の城郭研究家が注目する城の一つとなった。
地元紙から引用してご紹介しますと次のとおり。
 本丸跡の発掘調査で天守台の石垣が出土。
ここまではふつうのことである。
ところが金ぱくを施した鯱ほこ瓦をはじめ、桐きりや菊の紋が刻印された鬼瓦なども見つかった。
こうした遺構・遺物は日向史を書き換える可能性を秘めたものである。
 桐や菊紋は豊臣秀吉が権力の象徴としたもので、1591(天正十九)年に使用禁止令を出す一方、
特別な城に限ってこの紋瓦を使うことを認めた。
それは近畿・中国に配した直属の武将たちの城であり、徳川家康を包囲する関東周辺の城だった。
その流れでみれば、佐土原城は薩摩押さえの城と位置付けられる、
石垣は、秀吉配下の技術者集団でなければ築けなかった高度の技術であったともいう。
金ぱくの鯱ほこ瓦も安土桃山時代のもので、豊臣政権の崩壊とともに消滅。
 佐土原は飫肥、米良、薩摩三街道の結節点にある。
その地を見下ろす丘陵に高さ十メートルと推定される二層の天守がそびえ、最上層には黄金色に輝く一対のしゃちほこがあった。
その風景を思い描くだけでも限りない歴史ロマンをかき立てられる。
伊東氏崩壊後 薩摩分家が領主で、辺境の山城にすぎないと思われた佐土原城が実は「秀吉の城」であり、
薩摩本家に備える前線基地であったという新説が持ち上がり、関係者に衝撃を与えた。
 もっとも、文献研究の立場から異論もある。
1603(慶長八)年に城内をくまなく巡検した記録には天守のことが全く書かれていないことなどから、秀吉時代には天守がなかった可能性もあるとの指摘だ。
 石垣の状況などから、天守は二度築かれ、いずれも破壊されたとみている町。、
今のところ城郭考古学上も文献上も仮説の域を出ない。
 佐土原城、中でも天守をめぐる歴史はミステリーに包まれている。
その謎を解き明かすために、本格的な発掘調査を新宮崎市が引き継げるかどうか。
津村宮崎市長に戸敷佐土原町長が有力候補として立候補した。
成り行きしだいでは一挙にすすむやも知れない。
我が師匠が今日来て言われるには、太陽光のエネルギー普及にこの人をあげられ期待される。市長選での津村危うし。
9年前の発掘は天守台跡の北東側1/4にとどまっている。
山城を構成する松尾丸や南ノ城など他の主要施設は手付かずのままだ。
 国指定史跡は保存計画を立て、管理報告書をまとめなければならない。
現状では不確定な部分が多く、どこをどう保存修復すべきなのか、その歴史的意義は何なのか、仮説から一歩を進めることが難しい。発掘はその欠けた所を補う重要な作業である。
 佐土原城の歴史的評価は、もとより「秀吉の城」であったかどうか、という点だけで決まるものではない。
中世から戦国時代を経て江戸末期まで、一貫して日向史の中核的な役割を果たしてきた、
その長い歴史の不明部分を実証的に埋めていくことが大切だ。
私の説は3つばかりある。
神話の海幸・山幸をよりどころとした景行天皇の皇宮の由緒あるところゆえとみる。
実際は本城があった都於郡であるが本城をここに移していた。
島津の伊東制覇の真の狙いは皇族の発祥地たる海幸の皇宮のあったこの地・都於郡の制圧での権威付けにあるとの説を私がとっているからである。
皇宮跡となれば百姓の出の出自に悩む「秀吉の城」があっても不思議ではない。
次は小田原の北条征伐後の九州制覇の豊臣軍大将の豊臣秀長
が島津三兄弟との戦に勝利し、ここに天下統一がなったところ故とみる仮説を立ててみた。
その恩顧が大阪城炎上の西軍総大将は真田幸村等でなくこの佐土原島津家が努めた事実もあるからだ。
昭和になっても皇族貴子降嫁はこの島津家である。
歴史作家・城雪穂に書いてもらいたい歴史小説のネタとしてゆづってもよい。
建物の国宝級のお話はこれぐらいにして次は
人間国宝のお話である。
鵜戸神宮が琵琶の起源は先日1/5かいた。
 源氏、平家の盛衰を伝える平家物語。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色
盛者必衰のことわりをあらわす。」。
病魔で倒れNHKで復帰の高座に三平師匠がかけ忘れられない噺。
うら寂しい音色。物語の伴奏楽器として生まれたのが平家琵琶だ。
三平師匠はベラ〜ンとこの琵琶の部分も演じてた。
 琵琶の起源はペルシャで奈良時代に中国から渡ってきた。
平安中期、寺にかかわる盲僧が弾き始め、琵琶法師と呼ばれた。
現在、わが国では
平家琵琶、
盲僧琵琶、盲僧が経文を唱えるときの
楽琵琶、雅楽で用いる
薩摩琵琶は地方で派生した
筑前琵琶も同じである。
の五種がある。
 永田法順さん(70)=延岡市・長久山浄満寺住職=は、檀家回りを今も続けている琵琶法師。
琵琶法師は全国で永田さん一人だけになった。
盲僧琵琶は携帯しなければならないため、楽琵琶などに比べると小型。
筑前琵琶の系統で笹琵琶とも呼
小さいながら高音を出せるのが特徴の一つ。
音楽を奏でるのが主目的ではなく、経文や祭文を唱えるときの伴奏楽器なので、力強く撥はねることができる
。永田さんは二歳のとき緑内障を患い失明、十二歳で仏門に入った。指から血の出るほど厳しく基本を習った。
 その永田さんのCD、写真集などをセットした全集が、文化庁主催の二〇〇五年度芸術祭賞レコード部門で大賞を受賞した。「琵琶盲僧・永田法順を記録する会(川野楠己代表)」の制作。受賞の理由は優れた音楽性、民俗学的な希少価値。
 永田さんは薬師寺管長が礼遇するほどの人格者。
古希祝いの演奏会で、国立民俗博物館名誉教授たちが「次は人間国宝に」の声を上げたという。
武満徹作曲に取り入れるなど琵琶が見直されてきている時代でもあるらしい。
なにも中国の12樂坊に東洋音楽を求める必要もない。
昨日から快晴の宮崎。70KWの太陽光発電の建設は続く。
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