いやおうにも、お国をさとさる五輪の輪 せきやん
イタリア北部の街トリノから日の丸の威信が示される。
初めて見たる地図帳をものめずらしく眺める小学生の私に
長靴の形に似たる国の異国の空を眺めたく思いをはせたものだ。
当時長靴が貴重なるものであったため
興味半分より畏怖の目で異国をしのんだ。
日独伊で世界を相手に戦った友好国。
年端を重ね知識もつき、ローマやフィレンツエ、ベネチャ、富豪メチア家さらに映画での「苦い米」や「自転車泥棒」「ローマの休日」でしか知識がなかった私に1970年よりイタリアから発信する塩野七生の諸著書は、理解を深めた。
ウフィツイ美術館(ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、
ラファイエルロのルネンサンス三巨頭の作品をはじめ、
ボッティチェルリの「春 プリマヴェーラ」「ヴィーナス誕生」の二枚はここにある。
美術作品、映画はよくこのくにを知りえた。
この国は北と南の抗争の歴史でもあり、現在もその風土の克服は中々ではない。
塩野の著作から自らを投影させる。
駅前のホテルから街を歩き始めるとアーケードがまっすぐにのびている。交差する道も広く、かなり遠くまで見通せる。
五輪向けの一時的な表情とは別に、街の素顔の方は、すっきりとしているようだった。
見果てぬ異国の地はいまだそのままの大いなる幻影・
中世以降、諸州・諸都市が分立していたこの長靴形の半島に「イタリア王国」ができたのは、日本の幕末にあたる1861年のことだった。
祖国の統一と解放をめざす運動の結果、トリノに最初の首都が置かれた。
今は、フィアットなどの自動車産業や機械工業の中心地となっている。
美術の国はデザインのくに。
ジョージアローの車思想が凝縮した117クーペはわたしの愛した唯一の車であった。
記すべき多さと睡魔との闘いにダウン気味。
今もなお、この国の北と南はなじんでいないという。
それぞれに、重い歴史を背負っているのだろう。
祖国統一の象徴の地トリノで、20回目の冬季五輪が開幕されたァ
冬季種目は縁とおい宮崎だが 華麗なるフギァー競技のメインは
華やかしき美の競演。伊東みどりのころに比べ実に見事なる肢体。ようやく世界に追いついた日本を感じるトリノだ。
さぞかしNHKの視聴率を上げることであろう。
せきやん日記の過去の記事
イタリア映画
2004年10月16日 TrackBack
イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティの作品。
無防備都市 のロベルト・ロッセリーニは「カサブランカ・ガス灯」
主演の我らのイングリッド・バーグマンさえ虜にする監督で嫉妬する。
他の国の人が作るとローマの休日とか旅愁とかになるイタリアが舞台となる映画。
イタリア映画の作品群、
郵便配達は二度ベルを鳴らす
Ossessione
(1943年/イタリア/141分/白黒)
出演=クララ・カラマイ、マッシモ・ジロッティ、フアン・デ・ランダ
ジャン・ルノワールにケイン原作の仏語訳を渡されて映画化が実現した、初監督作品。イタリア北部の国道沿いで夫と軽食堂を営む
ジョヴァンナ(カラマイ)は、新しく雇われた若い放浪者ジーノ(ジロッティ)に強く惹かれる。一度駆け落ちに失敗するも、偶然
の再会を機に二人で夫を殺害するまでに至る。激しく求め合う男女の不安・嫉妬・疑念を、二大スターが見事に演じている。"ネオ
レアリズモ"という言葉を生んだ歴史的作品。
山猫
Il Gattopardo
(1963年/イタリア=フランス/187分/テクニカラー)
出演=バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ
シチリアのパルマ公爵ランペドゥーサの小説が原作。19世紀末、イタリア統一戦争の時代。貴族階級の没落を平然と眺めるサリーナ
公爵(ランカスター)と、対比的に未来に向って明るい若きアンジェリカ(カルディナーレ)とタンクレディ(ドロン)。時代の推
移とそれに背を向けて生きる者が描かれる。圧巻は大舞踏会のシーン。実際のシチリア貴族をエキストラに起用した、まさにヴィス
コンティにしか撮れない映像絵巻。
ベニスに死す
Morte a Venezia
(1971年/イタリア=フランス/133分/テクニカラー)
出演=ダーク・ボガード、シルヴァーナ・マンガノ、ビョルン・アンドレセン
トーマス・マンの同名小説が原作。主人公は小説家から大作曲家(ボガート)に変わっているが、そもそもマンはマーラーをモデル
にしたとも言われる。ベニスに静養に来た老作曲家が、ギリシア彫刻のようなポーランドの美少年(アンドレセン)に心を奪われる
。美を求める者の恍惚と苦悩、歓喜と絶望が究極の耽美主義で描かれる。重厚なマーラーの交響曲第5番が全編に使用されている映画史屈指の名作。
共同監督作品
栄光の日々
Giorni di gloria
(1945年/イタリア/70分/白黒)
レジスタンス組織からの注文を受けて作った共同監督ドキュメンタリーで、ヴィスコンティがイタリアのレジスタンス運動や戦争そ
のものを扱った唯一の作品である。1943年9月から1945年春までの映像をマルチェッロ・パリエーロと共に監督をしたが、ヴィスコ
ンティが撮ったのはカレッタの処刑やピエトロ・カルーゾの裁判のシーンと言われる。イタリア公開後、長らく失われており、1970
年に発見され、復元。日本初公開。
夏の嵐
Senso
(1954年/イタリア/121分/テクニカラー)
出演=アリダ・ヴァッリ、ファーリー・グレンジャー、マッシモ・ジロッティ
ヴィスコンティ初の歴史物。オーストリアからの解放戦争が迫る、激動のヴェネツィア。フェニーチェ歌劇場で若いオーストリア士
官(グレンジャー)に出会った伯爵夫人(ヴァッリ)はその虜となっていく。欺瞞と苦悶の果て、彼女は復讐を考え始める。歴史の
変革期、官能的な陶酔と残酷な覚醒がブルックナーの音楽を背景に描かれる。演劇的な様式美とリアリズムの融合が見事な、圧倒的
な映像美を誇る初期の傑作。
若者のすべて
Rocco e i suoi fratelli
(1960年/イタリア=フランス/177分/白黒)
出演=アラン・ドロン、レナート・サルヴァトーリ、アニー・ジラルド
イタリアで興行的に成功した最初の作品。南部からミラノに移住したパロンディ一家の5人兄弟は、それぞれ別の運命をたどる。次
男シモーネ(サルヴァトーリ)はプロボクサーを目指し、三男ロッコ(ドロン)はクリーニング店で地道に働く。娼婦ナディア(ジ
ラルド)の登場で二人の間に軋轢が生まれ、家族は崩壊し始める。ヴィスコンティのドロンへの思い入れはかなりのもので、他の俳
優では撮らなかったと語っている。 [コメントする]
日伊に繋がる太陽光発電
2004年10月16日 TrackBack
イタリア年というのがあるらしいがそれに因んでということもなかろうが宮崎日伊協会主催により日伊科学技術交流会が15〜16日開催された。
宮崎県立美術館のフォーラム会場には「貴金属とナノテクノロジーの開発と生活文化・芸術との接点」が主要テーマであったが
私も先般のナノテクの考え方の整理と郷里、伊東マンショに惹かれ出席した。
同時通訳が何ともおもがゆく国際会議に慣れてないのでゆっくりとした時間が流れる。
笑いを撮る場面が特に違和感を感じる。
遅れて笑うのも同じ時間の共有にしては、どうかなという感じである。
信長の頃の420年前に訪欧使節は13才の使節団・団長の伊東マンショは西都市都於郡、の生まれで8年をかけローマに使えした。
、旭化成は81年前にイタリアの化学者カザレ−博士を招聘して世界ではじめてアンモニア合成に成功した
このように宮崎とイタリアの由緒ある歴史・技術交流は私たちの知らないところで関係があった。
なにも日独伊三国同盟なるキナ臭いムッソリーニは登場しないだろうし、革命者グラムシもない時代であろうから安心である。
わが国における電気事業界、化学工業界の先駆者である、
野口 遵(のぐち したがう)は、石川の人
市役所隣りの野口記念館としてその名を残している。
1923年(大正12年)、世界で初めてカザレー式アンモニア合成法の工業化に成功し、宮崎・延岡の地に、20世紀をリードする産業基地の建設を開始して、現在の工業都市「延岡」の礎が出来た。
延岡市の初代市長である仲田又次郎氏は、翁の追懐録のなかで、
「野口 遵翁は、延岡市新興の母である」と、その偉大なる事業の
足跡を称えた。
昭和史の財閥の名に燦然と輝く人々の名に同列してる。
野口 遵
日産コンツェルン の元石油資源開発会長 鮎川義介
電力会の偉人・電力王の元東邦電力社長 松永安左エ門、
昭和電工会長 石川一郎、元伊藤忠商事会長 伊藤忠兵衛
日本化薬会長 原安三郎、
借用して記すと次のようである。
野口 遵(したがう)、工業の先駆者であり、旭化成の創立者。
明治6年金沢市に生まれ、小学校から大学まで東京に学び、明治29年、東京帝国大学電気工学科を卒業。
在学時より、国家の産業基盤を支えるものとして、水力発電に高い関心をもっており、明治39年、鹿児島県に水力発電を建設、その電力を利用して、かねてより研究を進めていたカーバイドを企業化。
さらにドイツからカーバイドを原料とした石灰窒素肥料製造技術を導入。
日本窒素肥料株式会社を設立、熊本県でカーバイドから石灰窒素、硫安にいたる一貫生産を開始した。
その後、新潟や熊本での水力発電所の建設、大阪や熊本県鏡町での工場施設などにより一応の事業基盤を確立した大正10年、翁
は欧州視察に赴き、イタリアのカザレ―博士のアンモニア合成法の特許を獲得しました。
帰国後、野口翁は、かねてより開発を進めていた五ヶ瀬川の電力を利用すべく、また、地元の強い誘致運動もあって、この延岡で
アンモニアと硫安の事業化を図ることを決定、
大正12年、生産を開始しました。これが旭化成の発祥です。
続いて、アンモニアの高度利用として「ベンベルグ」や火薬、さらには苛性ソーダやレーヨンなどの製造を始め、現在の旭化成延岡地区の基礎を築いてきました。
翁の事業意欲はとどまるところを知らず、昭和2年 大陸に進出、鴨緑江などで百数十万キロワットにおよぶ発電を行い、興南を
中心とした、肥料50万トン規模の一大コンビナートを建設しました。
しかしながら、永年の苦労がたたったのか、満州、海南島などに活躍中の昭和15年、ついに病に倒れました。そして昭和19年
1月15日、療養中の静岡県韮山において、享年72才をもって逝去されました。
多年にわたる実業界への功績に対し、昭和17年、勲一等瑞宝章が授けられています。
どうにも一般の参加者はなく私も発言したものである。
・・・・・・
思うに連れ「自転車泥棒」とか「苦い米」で心の簸だ、物悲しさは共通である。
イタリア北部のポー川流いきの水田地帯からして日本人にあうようだ。
ミニマリズムなる不必要な物は買わないも感情でよくわかる。
・・・・・・・・・
♪♪ 八と瀬のたびを 船出して 遠くローマに使えせし
海を渡りし 可憐なる 伊東マンショ名も高し
偉大なりや 伊東マンショ 嗚呼偉大なり 少年や
思わず口ずさむ、うたの披露である。
チャッカリ太陽光発電も披露しましてAPAイタリア支店が実現したら・・・さぁ〜大変だ。
仕事もちゃんとやりまして、3時間に渡り説明をした人々。
不動産の社長さんをご紹介いただいた。
訪れていただいた皆様!
九州地区ブログ順位アップ!
がんばれ!の元気下さい!
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イタリア北部の街トリノから日の丸の威信が示される。
初めて見たる地図帳をものめずらしく眺める小学生の私に
長靴の形に似たる国の異国の空を眺めたく思いをはせたものだ。
当時長靴が貴重なるものであったため
興味半分より畏怖の目で異国をしのんだ。
日独伊で世界を相手に戦った友好国。
年端を重ね知識もつき、ローマやフィレンツエ、ベネチャ、富豪メチア家さらに映画での「苦い米」や「自転車泥棒」「ローマの休日」でしか知識がなかった私に1970年よりイタリアから発信する塩野七生の諸著書は、理解を深めた。
ウフィツイ美術館(ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、
ラファイエルロのルネンサンス三巨頭の作品をはじめ、
ボッティチェルリの「春 プリマヴェーラ」「ヴィーナス誕生」の二枚はここにある。
美術作品、映画はよくこのくにを知りえた。
この国は北と南の抗争の歴史でもあり、現在もその風土の克服は中々ではない。
塩野の著作から自らを投影させる。
駅前のホテルから街を歩き始めるとアーケードがまっすぐにのびている。交差する道も広く、かなり遠くまで見通せる。
五輪向けの一時的な表情とは別に、街の素顔の方は、すっきりとしているようだった。
見果てぬ異国の地はいまだそのままの大いなる幻影・
中世以降、諸州・諸都市が分立していたこの長靴形の半島に「イタリア王国」ができたのは、日本の幕末にあたる1861年のことだった。
祖国の統一と解放をめざす運動の結果、トリノに最初の首都が置かれた。
今は、フィアットなどの自動車産業や機械工業の中心地となっている。
美術の国はデザインのくに。
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記すべき多さと睡魔との闘いにダウン気味。
今もなお、この国の北と南はなじんでいないという。
それぞれに、重い歴史を背負っているのだろう。
祖国統一の象徴の地トリノで、20回目の冬季五輪が開幕されたァ
冬季種目は縁とおい宮崎だが 華麗なるフギァー競技のメインは
華やかしき美の競演。伊東みどりのころに比べ実に見事なる肢体。ようやく世界に追いついた日本を感じるトリノだ。
さぞかしNHKの視聴率を上げることであろう。
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イタリア映画
2004年10月16日 TrackBack
イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティの作品。
無防備都市 のロベルト・ロッセリーニは「カサブランカ・ガス灯」
主演の我らのイングリッド・バーグマンさえ虜にする監督で嫉妬する。
他の国の人が作るとローマの休日とか旅愁とかになるイタリアが舞台となる映画。
イタリア映画の作品群、
郵便配達は二度ベルを鳴らす
Ossessione
(1943年/イタリア/141分/白黒)
出演=クララ・カラマイ、マッシモ・ジロッティ、フアン・デ・ランダ
ジャン・ルノワールにケイン原作の仏語訳を渡されて映画化が実現した、初監督作品。イタリア北部の国道沿いで夫と軽食堂を営む
ジョヴァンナ(カラマイ)は、新しく雇われた若い放浪者ジーノ(ジロッティ)に強く惹かれる。一度駆け落ちに失敗するも、偶然
の再会を機に二人で夫を殺害するまでに至る。激しく求め合う男女の不安・嫉妬・疑念を、二大スターが見事に演じている。"ネオ
レアリズモ"という言葉を生んだ歴史的作品。
山猫
Il Gattopardo
(1963年/イタリア=フランス/187分/テクニカラー)
出演=バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ
シチリアのパルマ公爵ランペドゥーサの小説が原作。19世紀末、イタリア統一戦争の時代。貴族階級の没落を平然と眺めるサリーナ
公爵(ランカスター)と、対比的に未来に向って明るい若きアンジェリカ(カルディナーレ)とタンクレディ(ドロン)。時代の推
移とそれに背を向けて生きる者が描かれる。圧巻は大舞踏会のシーン。実際のシチリア貴族をエキストラに起用した、まさにヴィス
コンティにしか撮れない映像絵巻。
ベニスに死す
Morte a Venezia
(1971年/イタリア=フランス/133分/テクニカラー)
出演=ダーク・ボガード、シルヴァーナ・マンガノ、ビョルン・アンドレセン
トーマス・マンの同名小説が原作。主人公は小説家から大作曲家(ボガート)に変わっているが、そもそもマンはマーラーをモデル
にしたとも言われる。ベニスに静養に来た老作曲家が、ギリシア彫刻のようなポーランドの美少年(アンドレセン)に心を奪われる
。美を求める者の恍惚と苦悩、歓喜と絶望が究極の耽美主義で描かれる。重厚なマーラーの交響曲第5番が全編に使用されている映画史屈指の名作。
共同監督作品
栄光の日々
Giorni di gloria
(1945年/イタリア/70分/白黒)
レジスタンス組織からの注文を受けて作った共同監督ドキュメンタリーで、ヴィスコンティがイタリアのレジスタンス運動や戦争そ
のものを扱った唯一の作品である。1943年9月から1945年春までの映像をマルチェッロ・パリエーロと共に監督をしたが、ヴィスコ
ンティが撮ったのはカレッタの処刑やピエトロ・カルーゾの裁判のシーンと言われる。イタリア公開後、長らく失われており、1970
年に発見され、復元。日本初公開。
夏の嵐
Senso
(1954年/イタリア/121分/テクニカラー)
出演=アリダ・ヴァッリ、ファーリー・グレンジャー、マッシモ・ジロッティ
ヴィスコンティ初の歴史物。オーストリアからの解放戦争が迫る、激動のヴェネツィア。フェニーチェ歌劇場で若いオーストリア士
官(グレンジャー)に出会った伯爵夫人(ヴァッリ)はその虜となっていく。欺瞞と苦悶の果て、彼女は復讐を考え始める。歴史の
変革期、官能的な陶酔と残酷な覚醒がブルックナーの音楽を背景に描かれる。演劇的な様式美とリアリズムの融合が見事な、圧倒的
な映像美を誇る初期の傑作。
若者のすべて
Rocco e i suoi fratelli
(1960年/イタリア=フランス/177分/白黒)
出演=アラン・ドロン、レナート・サルヴァトーリ、アニー・ジラルド
イタリアで興行的に成功した最初の作品。南部からミラノに移住したパロンディ一家の5人兄弟は、それぞれ別の運命をたどる。次
男シモーネ(サルヴァトーリ)はプロボクサーを目指し、三男ロッコ(ドロン)はクリーニング店で地道に働く。娼婦ナディア(ジ
ラルド)の登場で二人の間に軋轢が生まれ、家族は崩壊し始める。ヴィスコンティのドロンへの思い入れはかなりのもので、他の俳
優では撮らなかったと語っている。 [コメントする]
日伊に繋がる太陽光発電
2004年10月16日 TrackBack
イタリア年というのがあるらしいがそれに因んでということもなかろうが宮崎日伊協会主催により日伊科学技術交流会が15〜16日開催された。
宮崎県立美術館のフォーラム会場には「貴金属とナノテクノロジーの開発と生活文化・芸術との接点」が主要テーマであったが
私も先般のナノテクの考え方の整理と郷里、伊東マンショに惹かれ出席した。
同時通訳が何ともおもがゆく国際会議に慣れてないのでゆっくりとした時間が流れる。
笑いを撮る場面が特に違和感を感じる。
遅れて笑うのも同じ時間の共有にしては、どうかなという感じである。
信長の頃の420年前に訪欧使節は13才の使節団・団長の伊東マンショは西都市都於郡、の生まれで8年をかけローマに使えした。
、旭化成は81年前にイタリアの化学者カザレ−博士を招聘して世界ではじめてアンモニア合成に成功した
このように宮崎とイタリアの由緒ある歴史・技術交流は私たちの知らないところで関係があった。
なにも日独伊三国同盟なるキナ臭いムッソリーニは登場しないだろうし、革命者グラムシもない時代であろうから安心である。
わが国における電気事業界、化学工業界の先駆者である、
野口 遵(のぐち したがう)は、石川の人
市役所隣りの野口記念館としてその名を残している。
1923年(大正12年)、世界で初めてカザレー式アンモニア合成法の工業化に成功し、宮崎・延岡の地に、20世紀をリードする産業基地の建設を開始して、現在の工業都市「延岡」の礎が出来た。
延岡市の初代市長である仲田又次郎氏は、翁の追懐録のなかで、
「野口 遵翁は、延岡市新興の母である」と、その偉大なる事業の
足跡を称えた。
昭和史の財閥の名に燦然と輝く人々の名に同列してる。
野口 遵
日産コンツェルン の元石油資源開発会長 鮎川義介
電力会の偉人・電力王の元東邦電力社長 松永安左エ門、
昭和電工会長 石川一郎、元伊藤忠商事会長 伊藤忠兵衛
日本化薬会長 原安三郎、
借用して記すと次のようである。
野口 遵(したがう)、工業の先駆者であり、旭化成の創立者。
明治6年金沢市に生まれ、小学校から大学まで東京に学び、明治29年、東京帝国大学電気工学科を卒業。
在学時より、国家の産業基盤を支えるものとして、水力発電に高い関心をもっており、明治39年、鹿児島県に水力発電を建設、その電力を利用して、かねてより研究を進めていたカーバイドを企業化。
さらにドイツからカーバイドを原料とした石灰窒素肥料製造技術を導入。
日本窒素肥料株式会社を設立、熊本県でカーバイドから石灰窒素、硫安にいたる一貫生産を開始した。
その後、新潟や熊本での水力発電所の建設、大阪や熊本県鏡町での工場施設などにより一応の事業基盤を確立した大正10年、翁
は欧州視察に赴き、イタリアのカザレ―博士のアンモニア合成法の特許を獲得しました。
帰国後、野口翁は、かねてより開発を進めていた五ヶ瀬川の電力を利用すべく、また、地元の強い誘致運動もあって、この延岡で
アンモニアと硫安の事業化を図ることを決定、
大正12年、生産を開始しました。これが旭化成の発祥です。
続いて、アンモニアの高度利用として「ベンベルグ」や火薬、さらには苛性ソーダやレーヨンなどの製造を始め、現在の旭化成延岡地区の基礎を築いてきました。
翁の事業意欲はとどまるところを知らず、昭和2年 大陸に進出、鴨緑江などで百数十万キロワットにおよぶ発電を行い、興南を
中心とした、肥料50万トン規模の一大コンビナートを建設しました。
しかしながら、永年の苦労がたたったのか、満州、海南島などに活躍中の昭和15年、ついに病に倒れました。そして昭和19年
1月15日、療養中の静岡県韮山において、享年72才をもって逝去されました。
多年にわたる実業界への功績に対し、昭和17年、勲一等瑞宝章が授けられています。
どうにも一般の参加者はなく私も発言したものである。
・・・・・・
思うに連れ「自転車泥棒」とか「苦い米」で心の簸だ、物悲しさは共通である。
イタリア北部のポー川流いきの水田地帯からして日本人にあうようだ。
ミニマリズムなる不必要な物は買わないも感情でよくわかる。
・・・・・・・・・
♪♪ 八と瀬のたびを 船出して 遠くローマに使えせし
海を渡りし 可憐なる 伊東マンショ名も高し
偉大なりや 伊東マンショ 嗚呼偉大なり 少年や
思わず口ずさむ、うたの披露である。
チャッカリ太陽光発電も披露しましてAPAイタリア支店が実現したら・・・さぁ〜大変だ。
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