闘鶏

2006年2月26日
薩摩示現流は幕末京都で恐れられた戦うためのみの喧嘩殺法。
いくら時を経てもこの地域には尚武の風習が蔓延った。
我が家の庭の端には土俵が作られこどもの遊び場であった
クモのことをコブと尊称をこめて呼ぶクモ合戦
腹部が見事な黒と黄色の縞模様のクモを20センチぐらいの
棒に左右に乗せ戦わせる
各家の庭はしには数匹のクモを飼ってるのは日常風景で
「強そうだ!」と常に敵前視察の視線で他の家を訪ねていたものだ。
鹿児島・加世田市は町おこしに使ってるが、わが西都・都於郡でも
もちろん盛んであった。
とりわけ闘鶏は農耕民族の休暇を癒すための楽しみで農家々で雄鳥を飼いやらせていた。
この文化のルーツがどうなってるかわからないが
日本を含め東南アジアで行われている伝統的な闘鶏
はNAKED HEELと呼ばれあくまでも本来の姿の
状態で行われる戦い。
鳥の脚にナイフをつけて戦わせる試合が 
アメリカを中心として拡まり中南米、東南アジアと  
多くの国々で盛んに行われて人々の楽しみとなって
いる。 
その中でもフィリピンは、世界で最も闘鶏に熱い国で
NATIONAL SPORT (国技)とさえ呼ばれて産業としても重要な位置を占めている。
昨日書いたフイリッピンはその後、戒厳令下となった。
アキノ元大統領がマルコス政権転覆を主導した86年当時のように、アキノ、ラモス両氏がアロヨ政権打倒の中核人物になろうかという情勢である。
 フィリピンでは昨年暮れから今年初めにかけ、03年にマニラ首都圏マカティ市で起きた反乱将兵によるホテル占拠事件で逮捕された将校らが拘置施設から相次いで逃亡。
背景に軍部内の反政府勢力による決起計画があるとの見方が出た。
今月20日に大統領府構内のゴミ箱で爆発が起きた際も「軍部の警告ではないか」とのうわさが流れた。
 軍部内の反政府勢力に影響力を持つとされる退役将官は今月初め日新聞とのインタビューで「(強硬派の)行動に加わったり、計画に参与する可能性のある軍人は軍部内の10〜15%。残りの60〜70%も事が起これば(強硬派に)従う可能性がある」と述べ、軍部内の反政府勢力が今後、政治的な動きを強める可能性を示唆。
庶民はその政治情勢化でも闘鶏を楽しんでることであろう。
毎年フィリピンの首都マニラでは、国際的な大会が
開かれアメリカをはじめ各国からさえの参加があるという。
この世界においても闘鶏種作出の本場であるのはアメリカ。
事情が変わり国内での動物保護団体の圧力により多くの州での闘鶏が禁止され鶏の移動、輸出さえも制限される状況になる中で
フィリピンにその場を移すアメリカの闘鶏家が次第に増えてきているそうだ。
アメリカの闘鶏家にとっては、フィリピンは、闘鶏天国の環境。 公認ギャンブルの反面強い鶏を作り出そうとする闘鶏家が様々な血統を交配して理想の鶏を生み出す努力をしているそうだ。 
以前のフィリピンでは、アメリカからの優秀な闘鶏種の輸入が特権階級に占められていたが80年代後半以降ほぼ自由な輸入が可能になると金持達の興味を強く惹くようになりそれが産業としても重要な位置を占め、さらにビジネスとしても魅力的な市場が
出来あがり今の繁栄に到った。       
フィリピンを訪れる日本人は、多く闘鶏に関しては、興味を持たない人達がほとんど。  
好奇心で闘鶏場に足を運んだとしてもその異様な光景
喧騒に驚きいくらかの賭けを楽しんで帰る。
フィリピンに移住者もそれほどの関心を惹かないがフィリピンで最も盛んで熱くなる楽しみは、まさに闘鶏そのもの。
日本での闘鶏の歴史は古い。
闘鶏神社は和歌山県田辺市にある。 
 社伝によると允恭天皇8年(423年)創建とあり、
『紀伊国続風土記』には、熊野別当18代 湛快(たんかい)のときに熊野三所権現を勧請したと記されているそうだ。
 熊野三山の別宮的な場所で、ここから本宮への中辺路は山中の道になるので、この宮に参詣し、三山を遥拝して引き返すことになる。
 正面奥には湛増(たんぞう。湛決の子。21代熊野別当)と弁慶(弁慶は湛増の子だと伝えられている)の銅像がある。
二人の前では二羽の鶏が闘っている。
これが闘鶏神社という一風変わった社名の由来 
古くは田辺の宮、新熊野権現(いまくまのごんげん)田辺の宮などと呼ばれていた闘鶏神社、
新熊野鶏合権現(いまくまのとりあわせごんげん)、
新熊野闘鶏権現社(いまくまのとうけいごんげんしゃ)などと称されるようになる。
闘鶏神社となったのは明治に入ってから。
神仏分離令によりそのように改名させた。
 闘鶏神社という社名は次のような故事から。
 源平の合戦も大詰めに入ったころ、熊野別当 湛増が平氏に味方するか源氏に味方するかを迷い、占いをたて、神意を問うことにした。
その占いとは、社前で赤白の鶏をたたかわせ、赤の鶏を平氏、白の鶏を源氏に見立てて勝ったほうに味方するというものであった。
赤白の鶏を相対峙させてみると、赤の鶏は白の鶏を見て逃げだした。これを見て、湛増は源氏に味方することを決めたという。
 この故事により闘鶏権現という呼び名が生まれた。
 湛増は200余艘に及ぶ熊野水軍を率いて壇の浦へ出陣。
平氏を壇の浦に沈めた。
 社殿背後の仮庵山(かりほやま)は 熊野が生んだ世界的博物学者・ 南方熊楠(みなかたくまぐす。1867〜1941)は仮庵山のことをクラガリ山と呼んでいた。
クラガリ山について熊楠は
「当県で平地にはちょっと見られぬ密林なり」
クラガリ山の老楠が伐採されたとき、熊楠は猛烈に講議しそれ以上の伐採は免れた。
 熊楠の妻は、闘鶏神社宮司であった田村宗造の四女・松枝(まつゑ)であり、そうした縁もあり、熊楠は、この闘鶏神社の森を「熊野植物研究の中心基礎点」とした。 
闘鶏家が一番始めにすることは、参戦する鶏を分類することである。
 それぞれの鶏の重量を測り、ga tre(軽量級)、ga tre noi(中級)、ga noi(重量級)の3グループに分ける。
軽量級はだいたい900グラム〜1.2キロ、中級は1.2キロ〜2キロ、重量級は2キロ〜4キロ。
 戦う相手は同じグループでも他グループでも良い。
私が聞いたのはそうではなかったが。
 サラブレッドを買う
 闘鶏にもサラブレッドと呼ばれる鶏がいる。Dong ThapやBen Tre(Goc Cong)が有名。
闘鶏は日本では平安時代、宮廷貴族から庶民の間にまで広く流行していたそうだ。
小豆島では「闘鶏保存会」の協力で今でも闘鶏をみせてくれるホテルがあるそうだ。
剣の聖人・宮本武蔵(1584?-1645)に布袋見闘鶏図の1幅がある。、
 紙本墨画71.2×32.8 重要美術品松永コレクション
大きな袋を背負った布袋が、杖に両手を置き、その上に顎を乗せて目の前の鶏を凝視する。
二羽の闘鶏は互いに向き合って頭を低く尾を高く上げ、いまにも飛びかかろうとする姿勢である。
彼は二刀流をあみ出して剣の奥義を極めたが、一方では自ら著した『五輪書』の中で「兵法の理にまかせて諸芸諸能の道となせば万事において我に師なし」と述べ、剣禅一如の精神の延長として剣画一如とも言うべき境地に立ち、「二天」の号を用いて花鳥図や道釈人物画に優れた作品を残した。
襖絵から掛幅の小品まで、十数点の水墨画の遺品が現存するが、それらはいずれも中国の宋元絵画の減筆体を基礎に置きながら、より速く、より鋭い筆致と、対象物を簡略化しながら適確に表現する描写力を兼ね備えている。いわば、武人としての生き方を、これ程端的に絵画表現に置き換え得た画家はいない。
 布袋の表情は一見笑っているようで容易に人を近づけない厳しさを秘め、二羽の鶏の姿も、激しい動きの前の一瞬の静を示し、いかにも武蔵らしい剣気をはらんだ緊張感あふれる作品である。
この作品の直接のモデルと考えられている伝梁楷(りょうかい)筆「鶏骨図(けいこつず)合わせて所蔵している松永コレクション。
我が宮崎の 山内 多門のは鶴図は県立美術館にある。
同じく闘鶏がある。
まさに宮崎の明治38年時期を描いている。
昨夜のことであるが時間と疲れで書けなかったのは午後8時から一時間ぐらいのこと。
果たしてそこで見たものを書いていいものやら。
闘鶏の壮絶なる場に遭遇した。
裸電球の中に見守る9名の視線の先には緑の1メートルぐらいの円の中で闘いあう大小の闘鶏
体は傷つきながらも盛んに首を使い押し合う。
これにもルールがあり、時間は80分らしい。
小さきほうが下鶏、上鶏なる大きい鶏。
ここには100羽を超えるであろう闘鶏が飼われている。
太陽光発電1500枚パネルに挑戦してるがこの闘鶏に似た気構えが迫られている。
深夜、実に美しき人に出会った。夢か現か幻か。
花子・隣のオバサンジャン!そんなはずはない。
どうにも、幻覚が正夢に変わってる・・・
起立し闘う勇気がまだあるんであろうや。この爺に、ご同輩。

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