パリの日本人
2006年3月13日太陽光業者の要請により都城から小林にNEDO事業のお客さん獲得の応援で回る。
晴天化であるが時期はずれの寒さ。あわててストーブのオイルを継ぎ足す事態。
クタクタでのご帰還後にメールを見ていたら、師匠からの昨日の読後のお話。俄然ハッスル。
田舎の宮崎で江戸通の人に問ういつもの言葉。
「羽田に着いたら?」
モノレールで浜松町
「その後の乗り物は」
都電も緑の電車で上野
「馬鹿だね〜船」
フネ?
「日の出桟橋から隅田川を登り浅草」
「浅草寺におまいりして花やしきはやり過ごし木馬館」
「ロンドンバスで上野のお山。」
言問い団子を思わす三色団子を頂き
美術館へ・・
特に国立西洋美術館で常設でお迎えしてくれる松方コレクション。
「一国、一時代、一作家に偏することなく、時代的にはルネッサンスから二十世紀までの美術を網羅している点に特徴がある。
絵画、彫刻、家具、じゅうたん、食器にまで及んでいる。彼が西洋美術の全てを日本に持ち帰って文化向上に尽くしたい念願があった」さらに里帰りした浮世絵。
ロダンの大作「地獄の門」を最初にブロンズに鋳造するように注文した松方幸次郎の収集品である。
父は松方正義で薩摩藩出身の元老・政治家。 島津久光に近習番として仕え、その関係で大久保利通とも親しかった。
松方正義は蔵相として財政制度の確立に貢献し、首相も2期つとめた人。
その三男が松方幸次郎(1865-1950)その人。、
アメリカ、フランスの留学から帰国後、父正義が総理大臣となり父の秘書官として政界入り。
松方内閣が1年余りで倒れると幸次郎も辞職し、川崎正蔵に見込まれて造船業に入り、川崎造船、神戸新聞、川崎車輌など多くの企業の創立、発展を導いた。
造船王たる松方幸次郎が収集したコレクションとして多数のロダン彫刻と2点のカリエールの絵画が所蔵されている。
これらの彫刻や絵画を松方コレクションに含めた背景には、フランスにおける美術品収集の顧問を務めていたレオンス・ベネディットの意図が働いていた。
リュクサンブール美術館やロダン美術館の館長を務めていたベネディットが、1920年代のフランス美術界から松方のために選択した作家には、ロダン、カリエールのほかアマン=ジャンやコッテ、メナール、ダルデやサン・マルソーなど19世紀末から20世紀初頭にかけての象徴主義の文脈に位置する作家たちが多く含まれ
ている。
今回の展覧会は、こうした性格を持つ松方コレクションが基点となっており、国立西洋美術館での開催にふさわしい内容と今次の展覧会のカタログは絶賛。
松方幸次郎がパリの美術館長ベネディットの紹介でロダンと知り合ったのは第一次大戦中のこと。
戦争で彫刻の材料の銅などの入手に困っていたロダンに幸次郎は自分が材料を供給すると申し出た
松方コレクションの膨大な美術品の中でもロダンの大作が目立つのは、ロダンが幸次郎のために作品を取りおいたからだ。
これほどの作品をどうやって日本に運ぶのかと目を丸くした画家の黒田清輝に幸次郎はいう。
「造船所のクレーンを輸送するのに比べれば、何の雑作もない」
ハル・松方・ライシャワー著「絹と武士 」 広中和歌子訳 文芸春秋 1987 刊にある話と新聞が伝える。
結局それらが日本に運ばれたのは、第二次大戦で仏政府に接収されていたコレクションが返還される1950年代末になる。
この松方コレクションのために仏政府との約束で創設された東京の国立西洋美術館で「ロダンとカリエール」展が開催中だ(6月4日まで)。
ロダンの「最後の幻影」、カリエールの「母性」など各国の美術館から2人の彫刻、絵画など約140点を集め、5テーマに分けての展観である
「ロダンの芸術は巨大な塊、岩あるいは巨石時代の墳墓のように見える」(カリエール)、
「カリエールは人物に『量感』を与えた。それにより、彼は先人の偉大なビジョンに結びつく」(ロダン)
深い親交と芸術的な共感で結ばれた2人はお互いをそう批評した
象徴主義美術を代表する2人の彫刻と絵画を対比すれば、人それぞれの発見がきっとあるだろう。
日本発のこの試みはパリのオルセー美術館に巡回する。
松方コレクションで結ばれたロダンと日本とのえにしも新世紀を迎えそうだ。
その功績はひとえにたった一人の情熱であった。
松方幸次郎川崎造船社長が社員二人を連れて英国に渡ったのは大正5年春。
ハイドパークに近い高級マンションに泊まり、時折、鈴木商店ロンドン支店を訪れ高畑誠一支店長と話し合った。
川崎造船は欧州に駐在員を置いていない。
支店は格好の情報収集の場であり、本社との連絡に都合がよかった。
「戦争はどうかね」と松方。
答える高畑。
「大英帝国艦隊が上海封鎖をすればドイツはすぐ手を上げる、とウワサしています」
ところが戦況は大戦勃発二年になるというのに、独海軍は潜航艇を駆使して各国商船を次々と血祭りに上げ、陸でも戦線はこう着状態。
戦争が長引くことは、それだけ武器を作る商人をうるおす。
事実、川造は船さえ建造しておけばもうかった。
進水した船がその日に値上がり、建造費トン当たり60円が400円近いバカ値になるというから笑いが止まらない。
ロンドンでの川崎製船舶の売込みを一手に引き受けていた高畑は7千?クラスの貨物船三隻の商談を松方に持ちかけた
「そろそろ売りましょうか」
松方の答えは
「いや待て。一年もすれば二倍になるから・・・・」
政府首脳との交渉もかけ引きも必要なかった。
待つだけ、それで儲かったのである。
浮世絵がパリにお目見えしたのは万国博が開かれた明治22年ごろである。
ある商人が浮世絵を複製した包み紙を作ったところ、これがバカ当たり。
浮世絵のもつ“東洋の神秘”が感覚の鋭いパリっ子に受け、たがてフランス画壇の印象派にも強い影響を与えた。
浮世絵ブームはアメリカへも飛び火。評判を聞いて金持たちがパリに集まり、争って買い求めた。
「フランスにある浮世絵を全部持っていかれる」と心配する画家。ベベルは私財を投げうって、金に糸目をつけない金持たちに対抗した。
ベベルは「エキゾチック」だけにひかれたアメリカふうコレクターではなかった。
例えば写楽。生涯に百数十枚しか描いていない絵師だが、ベベルはその希少価値よりも芸術性にほれ、写楽の90?までを収集した、という。
しかし、ドイツの空襲を逃れても、陸軍が攻め込んで来たらどうなるか。
イギリスへの疎開も考えたが、ババルは「生まれ故郷の日本に帰すのが本筋だろう」と思うようになる。
画商には絶対売らないという条件をつけて買い手を探した。
ベベルに気骨は松方に伝わった。山中商会のロンドン支店長岡田友次に、ベベルの浮世絵を買い戻す交渉を命じた。
買収価額ははっきりしないが、その数、実に7千996点。
アメリカ人が値を吊り上げていた時代だから、巨額だったろう。
松方はその浮世絵をせっせと川崎造船の倉庫に送り届けた。
浮世絵研究家の矢田三千男は川崎重工史にしるしている。
「浮世絵が錦を着て日本に帰る、というベベルの言葉ほど胸を打ったものはない---と松方さんが感激の面持ちで私に語ったことがあった。私は川崎の地下にある浮世絵の整理にかかったが、私は魅せられてしまい、放心の体でいく度も逸品に見入ったものだ」
長い間、せっかく集めた浮世絵は倉庫に眠っており、保管していたが、死蔵に対して当然のように批判が出てくる。
大正11年の株主総会で問題になったとき、松方は答えた。
「東洋一の小島国が世界に紹介されたのは一に浮世絵の賜物なのです。日本に偉い人は多いが、世界的大偉人といえば浮世絵師であります。浮世絵が外国にあって本家の日本にないことは、国辱と感じました。
私の家はボロ屋で雨が漏る時もあるし、冬は風が吹き込むので、もし一夜、不幸にして損なうようなことがあると私は天下の大罪人になります」
浮世絵に対する松方の心情がしみる答弁だった。
ベベルにこたえ、名品の散逸を防いだ松方を、矢田は
「西洋美術館のコレクッションより浮世絵収集の方が功績は大きいと思う」
といっている。
幸次郎が日本のために購入したのに、日本政府は美術品の輸入に対して十割の奢侈関税をかける措置を始めた。
また、ロダンの彫刻のいくつかが猥褻であるとして輸入禁止になっている。
幸次郎が怒って日本には持ち帰らないといっているうちに第二次大戦が始まり、まだ日本に送らずにあった
作品は敵国資産としてフランス政府に差し押さえられてしまった。
戦後、作品の返還運動が起きたとき、フランス側にあって返還するよう主張した1人が、
中国・日本美術の権威、ヴァディム・エリセーエフ。
父セルゲイ・エリセーエフは、、東京帝国大学に学んだ人。
ロシア革命の時フランスに亡命してソルボンヌ大学教授になり、1932年ハーバード大学に移って日本学を創設し今日の興隆を誇っている。
、ライシャワーの師となり、ライシャワーが博士論文に円仁を選んだことを推し、また外遊ののちハーバードで教えることを提案した人である。
ライシャワーは日本人であるハルを夫人とした。
ところで松方が最初に購入したのは大きな赤いクレーンを描いた造船所風景の油絵クレーンを描いた画家
サー・フランク・ブラングィンは松方の美術館設計を夢見ていた。
日仏間の協議で、フランスから返還した作品を収蔵・展示する美術館を日本政府が用意するという条件で返還が実現し、ル・コルビュジェ設計の国立西洋美術館が1958年に開館した。
、
華やかな舞台で松方が活躍していたころ、神戸の川崎造船は夜も昼もなかった。
「造船界の異常な活況で、造成奨励金の下付は停止された。またアメリカが鋼材の輸出を禁止したために難関に遭遇した。
しかし川造は手持ちの材料でフル生産。大正6年中に1千?以上の汽船70隻、計30万?を進水した。
さらにストックボードの建造が好調に進み、20隻 (11万5千?) を進水し、日本で進水した汽船の実に37.7%を占めるほどである。
一方戦艦「伊勢」の艤装工事も順調に進み、12月海軍に引き渡した」
ストックボートというのは同一船型 (9.100?の貨物船) の大量生産だから建造スピードを速める利点があった
そのころ、従業員2万1千500人。
三交代のフル操業だが、それでも極端な労働不足に陥ったという。
独潜航艇の無差別攻撃は日増しに強まった。
「ドイツ潜水艦の最新の設計図を盗め」
長引いた世界大戦もやっと大正7年に終結。
海軍首脳からこんな秘密指令が松方のもとへ、届いた。
連合軍はドイツ軍艦を終戦と共に一斉にダ捕。うち潜水艦7隻を日本に分配した。
ところが、最新鋭の大型機雷潜水艦と巡戦型は内部機関をことごとく爆破され、なんとしてもほしいドイツ技術の秘密がつかめない。
大戦中、独潜水艦の華々しい活躍は軍関係者の脳裏にしみついていた。6年から無差別攻撃をしかけ、大西洋、地中海を中心に出没し、深く、敏速に行動して各国の大型商船を血祭りに上げた。
対戦国のイギリス、フランス、イタリア、ギリシャは保有商船の半数近くを失い、中立国のノルウェーも47?という手痛い打撃。日本は7?に過ぎなかったが、それでも4〜6年にかけて、八阪丸 (10.933?、日本郵船) 宮崎丸 (7.891?、同) など25隻 (10万170?)の損害をこうむった。他に行方不明船が27隻 (1万4千?)。
これも大半が独Uボートの仕業であることは疑いもない。
「国のためならやりましょう」
松方は引き受けた。
潜水艦は川崎---という評判から、後に引けなかった。
川崎としてもその設計図はほしい。
川崎が潜水艇建造に着手したのは明治37年。
そのころ海軍がアメリカから輸入した「ホーランド型」は300?程度の小艇。
スタンダード式ガソリン機関と45?魚雷発射管1門を備え付けているが、乗員は4〜5人。
カメがはうようなスタイルから、人々は「ドンガメ」と呼んだ。
それを改良し、海軍の発議で国産潜水艇をつくる計画が持ち上がり、川崎に建造が命じられたのである。
米国からファマンら技師5人を招いて、同年11月「第六」「第七」潜水艇の建造に着手、一年半がかりで完成させた。
「米国大使館付武官井出大佐のもとで設計にかかったが、何分にも技術は未知の世界。技師たちは手さぐりだった。
公式試運転のとき艇長の中条少佐に頼んで乗艇させてもらったが、艇内の装備は今から見れば幼稚なものだった」 (山中三郎元専務の回想)
完成した「第六」は明治13年4月15日、岩国沖で沈没、佐久間艇長以下全員が艇と運命を共にしている。
手さぐりながら大正時代へ----。技術も中型潜水艇建造へ進んだ。
大正4年、イタリアのファイアット社とディーゼルエンジン製作の技術提携を結び、イタリアへ技師10人を派遣させた。
同社はドイツ海軍の「U-42」を建造中だった。
技術面での収穫は大きかったが、ファイアット型ディーゼル機関のの導入は潜水艇 (その後潜水艦) の機能を飛躍的に高めた。714?の「呂1」など優秀な潜水艇が次々に完成、海軍の新鋭艦のほとんどを川崎が独占した、という。
松方の自負もムリはなかった。ストックボートの建造が川崎の屋台骨を支えていたが、海軍王国をめざす軍からの受注もばく大。という意味で、ドイツの新技術を盗んで、他社をさらにリードしなければならない。
「ドイツ潜水艦の設計図を盗み出す」という海軍の特命を受けて、松方は大正10年4月、フランスに渡った。
パリは戦時中、鈴木の高畑ロンドン支店長と数度訪れ、地理にも詳しい。
ホテルに陣取って行動開始。が、各国の目が光っているので川造社長の肩書きは困る。スパイの条件はまず身分を隠すこと。そこで松方は手当たり次第に絵を買いあさる“東洋の大尽”の方で名前を売った。
松方は裏で鈴木など商社員を駆使して欧州各地の情報をせっせと収集。
「潜水艦設計の世界的権威であるテッヘル博士が戦犯を嫌ってオランダに亡命。設計事務所を開いている」
というのだ。テッヘル以外優秀な技術者が数人。早速商社員を派遣してあたらせたところ、各国の目が光っていて危険だが、見込みがあるという返事。
松方は「どんな方法ででも盗み出せ」と命じた。苦心の末、巡潜、機雷潜の復元設計図を入手するのだが、
どんな方法ででもというその手段とは----元専務の山中三郎は
「裏から手を回して入手に成功した。海軍が雀躍して喜んだのはいうまでもない」
としか回想していない。おそらく絵の買いあさりと同じように金に糸目をつけなかったのだろう。それに米
英ら強大国がお互い牽制しあっている。そのスキに札束にものをいわせたという推測が成り立つ。
次は技術者。松方はひそかにドイツの武器メーカー・クルップ社を訪れ、同社のゲルマニア、ウェザー両造船所のベテラン技術者と交渉し、まんまとスカウトに成功した。
しかし、招へいを決めたものの、各国は「日本は強大国になりすぎる。ドイツ技術の輸出だけは阻止する」と手厳しい。
そこで松方は技術者一行をジャワへ向かわせ、ほとぼりがさめてから神戸の川造に送り込んだ。
その後、海軍が招へいしたテッヘルが数ヶ月日本に滞在して、日本の技術者に潜水艦づくりをみっちり仕込んだ。
艇から艦時代へ。大正11年、同社が初めて製作したファイアット型ディーゼル二基を装備した「呂3、4号」
が進水。学んだドイツ技術の粋を集めた新鋭艦だ。
「潜水艦の川崎」の評価はこれで固まった。
「子供の間で、ドクタンという言葉がはやってねえ。外人を見たらドクタンちゅうてはやし立てるんですよ」
というのは郷土史家の荒尾親成。独探、つまりドイツスパイのこと。
父親が勤めていた神戸製鋼はそのころ、ロシアからの注文で野砲弾500万発をフル生産していた。
機密はことにうるさい。「外人を見たら疑え」という風潮からドクタンが流行したらしい。
荒尾ふうにいえば、松方幸次郎はさしずめニッタン。
「ドイツ潜水艦の設計図を盗み出す」という海軍の特命を受けて、松方は大正10年4月、フランスに渡った。
パリは戦時中、鈴木の高畑ロンドン支店長と数度訪れ、地理にも詳しい。
ホテルに陣取って行動開始。が、各国の目が光っているので川造社長の肩書きは困る。スパイの条件はまず身分を隠すこと。
そこで松方は手当たり次第に絵を買いあさる“東洋の大尽”の方で名前を売った。とにかく松方の買いっぷりは徹底していた。
「何十点もごそっと買って、ストックボートでもうけた金をばらまく。絵のほか彫刻、骨董品も自分で見ないで代理人に任せてしまう。それはおうような買い方だった。
代金の支払い、本社との連絡など私は川造の駐在員兼松方秘書みたいなもの」 (高畑の回想)
当然のように“目のないバカな収集家”というウワサが立つ。
しめたものだ。松方は裏で鈴木など商社員を駆使して欧州各地の情報をせっせと収集。
最新鋭のドイツ潜水艦の設計図は残っていなかった。
ダ捕した艦も重要部分を破壊されている。
平和が訪れた後も、軍備拡大に狂奔する強大国は競ってドイツ技術者を獲得しようとしていた。
書いてる人も疲れるが読んでる人もつかれる。
野ざらしの落語のサゲみたいだ。
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晴天化であるが時期はずれの寒さ。あわててストーブのオイルを継ぎ足す事態。
クタクタでのご帰還後にメールを見ていたら、師匠からの昨日の読後のお話。俄然ハッスル。
田舎の宮崎で江戸通の人に問ういつもの言葉。
「羽田に着いたら?」
モノレールで浜松町
「その後の乗り物は」
都電も緑の電車で上野
「馬鹿だね〜船」
フネ?
「日の出桟橋から隅田川を登り浅草」
「浅草寺におまいりして花やしきはやり過ごし木馬館」
「ロンドンバスで上野のお山。」
言問い団子を思わす三色団子を頂き
美術館へ・・
特に国立西洋美術館で常設でお迎えしてくれる松方コレクション。
「一国、一時代、一作家に偏することなく、時代的にはルネッサンスから二十世紀までの美術を網羅している点に特徴がある。
絵画、彫刻、家具、じゅうたん、食器にまで及んでいる。彼が西洋美術の全てを日本に持ち帰って文化向上に尽くしたい念願があった」さらに里帰りした浮世絵。
ロダンの大作「地獄の門」を最初にブロンズに鋳造するように注文した松方幸次郎の収集品である。
父は松方正義で薩摩藩出身の元老・政治家。 島津久光に近習番として仕え、その関係で大久保利通とも親しかった。
松方正義は蔵相として財政制度の確立に貢献し、首相も2期つとめた人。
その三男が松方幸次郎(1865-1950)その人。、
アメリカ、フランスの留学から帰国後、父正義が総理大臣となり父の秘書官として政界入り。
松方内閣が1年余りで倒れると幸次郎も辞職し、川崎正蔵に見込まれて造船業に入り、川崎造船、神戸新聞、川崎車輌など多くの企業の創立、発展を導いた。
造船王たる松方幸次郎が収集したコレクションとして多数のロダン彫刻と2点のカリエールの絵画が所蔵されている。
これらの彫刻や絵画を松方コレクションに含めた背景には、フランスにおける美術品収集の顧問を務めていたレオンス・ベネディットの意図が働いていた。
リュクサンブール美術館やロダン美術館の館長を務めていたベネディットが、1920年代のフランス美術界から松方のために選択した作家には、ロダン、カリエールのほかアマン=ジャンやコッテ、メナール、ダルデやサン・マルソーなど19世紀末から20世紀初頭にかけての象徴主義の文脈に位置する作家たちが多く含まれ
ている。
今回の展覧会は、こうした性格を持つ松方コレクションが基点となっており、国立西洋美術館での開催にふさわしい内容と今次の展覧会のカタログは絶賛。
松方幸次郎がパリの美術館長ベネディットの紹介でロダンと知り合ったのは第一次大戦中のこと。
戦争で彫刻の材料の銅などの入手に困っていたロダンに幸次郎は自分が材料を供給すると申し出た
松方コレクションの膨大な美術品の中でもロダンの大作が目立つのは、ロダンが幸次郎のために作品を取りおいたからだ。
これほどの作品をどうやって日本に運ぶのかと目を丸くした画家の黒田清輝に幸次郎はいう。
「造船所のクレーンを輸送するのに比べれば、何の雑作もない」
ハル・松方・ライシャワー著「絹と武士 」 広中和歌子訳 文芸春秋 1987 刊にある話と新聞が伝える。
結局それらが日本に運ばれたのは、第二次大戦で仏政府に接収されていたコレクションが返還される1950年代末になる。
この松方コレクションのために仏政府との約束で創設された東京の国立西洋美術館で「ロダンとカリエール」展が開催中だ(6月4日まで)。
ロダンの「最後の幻影」、カリエールの「母性」など各国の美術館から2人の彫刻、絵画など約140点を集め、5テーマに分けての展観である
「ロダンの芸術は巨大な塊、岩あるいは巨石時代の墳墓のように見える」(カリエール)、
「カリエールは人物に『量感』を与えた。それにより、彼は先人の偉大なビジョンに結びつく」(ロダン)
深い親交と芸術的な共感で結ばれた2人はお互いをそう批評した
象徴主義美術を代表する2人の彫刻と絵画を対比すれば、人それぞれの発見がきっとあるだろう。
日本発のこの試みはパリのオルセー美術館に巡回する。
松方コレクションで結ばれたロダンと日本とのえにしも新世紀を迎えそうだ。
その功績はひとえにたった一人の情熱であった。
松方幸次郎川崎造船社長が社員二人を連れて英国に渡ったのは大正5年春。
ハイドパークに近い高級マンションに泊まり、時折、鈴木商店ロンドン支店を訪れ高畑誠一支店長と話し合った。
川崎造船は欧州に駐在員を置いていない。
支店は格好の情報収集の場であり、本社との連絡に都合がよかった。
「戦争はどうかね」と松方。
答える高畑。
「大英帝国艦隊が上海封鎖をすればドイツはすぐ手を上げる、とウワサしています」
ところが戦況は大戦勃発二年になるというのに、独海軍は潜航艇を駆使して各国商船を次々と血祭りに上げ、陸でも戦線はこう着状態。
戦争が長引くことは、それだけ武器を作る商人をうるおす。
事実、川造は船さえ建造しておけばもうかった。
進水した船がその日に値上がり、建造費トン当たり60円が400円近いバカ値になるというから笑いが止まらない。
ロンドンでの川崎製船舶の売込みを一手に引き受けていた高畑は7千?クラスの貨物船三隻の商談を松方に持ちかけた
「そろそろ売りましょうか」
松方の答えは
「いや待て。一年もすれば二倍になるから・・・・」
政府首脳との交渉もかけ引きも必要なかった。
待つだけ、それで儲かったのである。
浮世絵がパリにお目見えしたのは万国博が開かれた明治22年ごろである。
ある商人が浮世絵を複製した包み紙を作ったところ、これがバカ当たり。
浮世絵のもつ“東洋の神秘”が感覚の鋭いパリっ子に受け、たがてフランス画壇の印象派にも強い影響を与えた。
浮世絵ブームはアメリカへも飛び火。評判を聞いて金持たちがパリに集まり、争って買い求めた。
「フランスにある浮世絵を全部持っていかれる」と心配する画家。ベベルは私財を投げうって、金に糸目をつけない金持たちに対抗した。
ベベルは「エキゾチック」だけにひかれたアメリカふうコレクターではなかった。
例えば写楽。生涯に百数十枚しか描いていない絵師だが、ベベルはその希少価値よりも芸術性にほれ、写楽の90?までを収集した、という。
しかし、ドイツの空襲を逃れても、陸軍が攻め込んで来たらどうなるか。
イギリスへの疎開も考えたが、ババルは「生まれ故郷の日本に帰すのが本筋だろう」と思うようになる。
画商には絶対売らないという条件をつけて買い手を探した。
ベベルに気骨は松方に伝わった。山中商会のロンドン支店長岡田友次に、ベベルの浮世絵を買い戻す交渉を命じた。
買収価額ははっきりしないが、その数、実に7千996点。
アメリカ人が値を吊り上げていた時代だから、巨額だったろう。
松方はその浮世絵をせっせと川崎造船の倉庫に送り届けた。
浮世絵研究家の矢田三千男は川崎重工史にしるしている。
「浮世絵が錦を着て日本に帰る、というベベルの言葉ほど胸を打ったものはない---と松方さんが感激の面持ちで私に語ったことがあった。私は川崎の地下にある浮世絵の整理にかかったが、私は魅せられてしまい、放心の体でいく度も逸品に見入ったものだ」
長い間、せっかく集めた浮世絵は倉庫に眠っており、保管していたが、死蔵に対して当然のように批判が出てくる。
大正11年の株主総会で問題になったとき、松方は答えた。
「東洋一の小島国が世界に紹介されたのは一に浮世絵の賜物なのです。日本に偉い人は多いが、世界的大偉人といえば浮世絵師であります。浮世絵が外国にあって本家の日本にないことは、国辱と感じました。
私の家はボロ屋で雨が漏る時もあるし、冬は風が吹き込むので、もし一夜、不幸にして損なうようなことがあると私は天下の大罪人になります」
浮世絵に対する松方の心情がしみる答弁だった。
ベベルにこたえ、名品の散逸を防いだ松方を、矢田は
「西洋美術館のコレクッションより浮世絵収集の方が功績は大きいと思う」
といっている。
幸次郎が日本のために購入したのに、日本政府は美術品の輸入に対して十割の奢侈関税をかける措置を始めた。
また、ロダンの彫刻のいくつかが猥褻であるとして輸入禁止になっている。
幸次郎が怒って日本には持ち帰らないといっているうちに第二次大戦が始まり、まだ日本に送らずにあった
作品は敵国資産としてフランス政府に差し押さえられてしまった。
戦後、作品の返還運動が起きたとき、フランス側にあって返還するよう主張した1人が、
中国・日本美術の権威、ヴァディム・エリセーエフ。
父セルゲイ・エリセーエフは、、東京帝国大学に学んだ人。
ロシア革命の時フランスに亡命してソルボンヌ大学教授になり、1932年ハーバード大学に移って日本学を創設し今日の興隆を誇っている。
、ライシャワーの師となり、ライシャワーが博士論文に円仁を選んだことを推し、また外遊ののちハーバードで教えることを提案した人である。
ライシャワーは日本人であるハルを夫人とした。
ところで松方が最初に購入したのは大きな赤いクレーンを描いた造船所風景の油絵クレーンを描いた画家
サー・フランク・ブラングィンは松方の美術館設計を夢見ていた。
日仏間の協議で、フランスから返還した作品を収蔵・展示する美術館を日本政府が用意するという条件で返還が実現し、ル・コルビュジェ設計の国立西洋美術館が1958年に開館した。
、
華やかな舞台で松方が活躍していたころ、神戸の川崎造船は夜も昼もなかった。
「造船界の異常な活況で、造成奨励金の下付は停止された。またアメリカが鋼材の輸出を禁止したために難関に遭遇した。
しかし川造は手持ちの材料でフル生産。大正6年中に1千?以上の汽船70隻、計30万?を進水した。
さらにストックボードの建造が好調に進み、20隻 (11万5千?) を進水し、日本で進水した汽船の実に37.7%を占めるほどである。
一方戦艦「伊勢」の艤装工事も順調に進み、12月海軍に引き渡した」
ストックボートというのは同一船型 (9.100?の貨物船) の大量生産だから建造スピードを速める利点があった
そのころ、従業員2万1千500人。
三交代のフル操業だが、それでも極端な労働不足に陥ったという。
独潜航艇の無差別攻撃は日増しに強まった。
「ドイツ潜水艦の最新の設計図を盗め」
長引いた世界大戦もやっと大正7年に終結。
海軍首脳からこんな秘密指令が松方のもとへ、届いた。
連合軍はドイツ軍艦を終戦と共に一斉にダ捕。うち潜水艦7隻を日本に分配した。
ところが、最新鋭の大型機雷潜水艦と巡戦型は内部機関をことごとく爆破され、なんとしてもほしいドイツ技術の秘密がつかめない。
大戦中、独潜水艦の華々しい活躍は軍関係者の脳裏にしみついていた。6年から無差別攻撃をしかけ、大西洋、地中海を中心に出没し、深く、敏速に行動して各国の大型商船を血祭りに上げた。
対戦国のイギリス、フランス、イタリア、ギリシャは保有商船の半数近くを失い、中立国のノルウェーも47?という手痛い打撃。日本は7?に過ぎなかったが、それでも4〜6年にかけて、八阪丸 (10.933?、日本郵船) 宮崎丸 (7.891?、同) など25隻 (10万170?)の損害をこうむった。他に行方不明船が27隻 (1万4千?)。
これも大半が独Uボートの仕業であることは疑いもない。
「国のためならやりましょう」
松方は引き受けた。
潜水艦は川崎---という評判から、後に引けなかった。
川崎としてもその設計図はほしい。
川崎が潜水艇建造に着手したのは明治37年。
そのころ海軍がアメリカから輸入した「ホーランド型」は300?程度の小艇。
スタンダード式ガソリン機関と45?魚雷発射管1門を備え付けているが、乗員は4〜5人。
カメがはうようなスタイルから、人々は「ドンガメ」と呼んだ。
それを改良し、海軍の発議で国産潜水艇をつくる計画が持ち上がり、川崎に建造が命じられたのである。
米国からファマンら技師5人を招いて、同年11月「第六」「第七」潜水艇の建造に着手、一年半がかりで完成させた。
「米国大使館付武官井出大佐のもとで設計にかかったが、何分にも技術は未知の世界。技師たちは手さぐりだった。
公式試運転のとき艇長の中条少佐に頼んで乗艇させてもらったが、艇内の装備は今から見れば幼稚なものだった」 (山中三郎元専務の回想)
完成した「第六」は明治13年4月15日、岩国沖で沈没、佐久間艇長以下全員が艇と運命を共にしている。
手さぐりながら大正時代へ----。技術も中型潜水艇建造へ進んだ。
大正4年、イタリアのファイアット社とディーゼルエンジン製作の技術提携を結び、イタリアへ技師10人を派遣させた。
同社はドイツ海軍の「U-42」を建造中だった。
技術面での収穫は大きかったが、ファイアット型ディーゼル機関のの導入は潜水艇 (その後潜水艦) の機能を飛躍的に高めた。714?の「呂1」など優秀な潜水艇が次々に完成、海軍の新鋭艦のほとんどを川崎が独占した、という。
松方の自負もムリはなかった。ストックボートの建造が川崎の屋台骨を支えていたが、海軍王国をめざす軍からの受注もばく大。という意味で、ドイツの新技術を盗んで、他社をさらにリードしなければならない。
「ドイツ潜水艦の設計図を盗み出す」という海軍の特命を受けて、松方は大正10年4月、フランスに渡った。
パリは戦時中、鈴木の高畑ロンドン支店長と数度訪れ、地理にも詳しい。
ホテルに陣取って行動開始。が、各国の目が光っているので川造社長の肩書きは困る。スパイの条件はまず身分を隠すこと。そこで松方は手当たり次第に絵を買いあさる“東洋の大尽”の方で名前を売った。
松方は裏で鈴木など商社員を駆使して欧州各地の情報をせっせと収集。
「潜水艦設計の世界的権威であるテッヘル博士が戦犯を嫌ってオランダに亡命。設計事務所を開いている」
というのだ。テッヘル以外優秀な技術者が数人。早速商社員を派遣してあたらせたところ、各国の目が光っていて危険だが、見込みがあるという返事。
松方は「どんな方法ででも盗み出せ」と命じた。苦心の末、巡潜、機雷潜の復元設計図を入手するのだが、
どんな方法ででもというその手段とは----元専務の山中三郎は
「裏から手を回して入手に成功した。海軍が雀躍して喜んだのはいうまでもない」
としか回想していない。おそらく絵の買いあさりと同じように金に糸目をつけなかったのだろう。それに米
英ら強大国がお互い牽制しあっている。そのスキに札束にものをいわせたという推測が成り立つ。
次は技術者。松方はひそかにドイツの武器メーカー・クルップ社を訪れ、同社のゲルマニア、ウェザー両造船所のベテラン技術者と交渉し、まんまとスカウトに成功した。
しかし、招へいを決めたものの、各国は「日本は強大国になりすぎる。ドイツ技術の輸出だけは阻止する」と手厳しい。
そこで松方は技術者一行をジャワへ向かわせ、ほとぼりがさめてから神戸の川造に送り込んだ。
その後、海軍が招へいしたテッヘルが数ヶ月日本に滞在して、日本の技術者に潜水艦づくりをみっちり仕込んだ。
艇から艦時代へ。大正11年、同社が初めて製作したファイアット型ディーゼル二基を装備した「呂3、4号」
が進水。学んだドイツ技術の粋を集めた新鋭艦だ。
「潜水艦の川崎」の評価はこれで固まった。
「子供の間で、ドクタンという言葉がはやってねえ。外人を見たらドクタンちゅうてはやし立てるんですよ」
というのは郷土史家の荒尾親成。独探、つまりドイツスパイのこと。
父親が勤めていた神戸製鋼はそのころ、ロシアからの注文で野砲弾500万発をフル生産していた。
機密はことにうるさい。「外人を見たら疑え」という風潮からドクタンが流行したらしい。
荒尾ふうにいえば、松方幸次郎はさしずめニッタン。
「ドイツ潜水艦の設計図を盗み出す」という海軍の特命を受けて、松方は大正10年4月、フランスに渡った。
パリは戦時中、鈴木の高畑ロンドン支店長と数度訪れ、地理にも詳しい。
ホテルに陣取って行動開始。が、各国の目が光っているので川造社長の肩書きは困る。スパイの条件はまず身分を隠すこと。
そこで松方は手当たり次第に絵を買いあさる“東洋の大尽”の方で名前を売った。とにかく松方の買いっぷりは徹底していた。
「何十点もごそっと買って、ストックボートでもうけた金をばらまく。絵のほか彫刻、骨董品も自分で見ないで代理人に任せてしまう。それはおうような買い方だった。
代金の支払い、本社との連絡など私は川造の駐在員兼松方秘書みたいなもの」 (高畑の回想)
当然のように“目のないバカな収集家”というウワサが立つ。
しめたものだ。松方は裏で鈴木など商社員を駆使して欧州各地の情報をせっせと収集。
最新鋭のドイツ潜水艦の設計図は残っていなかった。
ダ捕した艦も重要部分を破壊されている。
平和が訪れた後も、軍備拡大に狂奔する強大国は競ってドイツ技術者を獲得しようとしていた。
書いてる人も疲れるが読んでる人もつかれる。
野ざらしの落語のサゲみたいだ。
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