いや〜この寒さには南国人はダメでしょうよ桜の下での宴会
武士を捨て風流の道に走った北面の武士西行法師。
人生も順風満帆春の頃。満開のたとえようもない桜の美しさに感動しながらも、だからこそ死を想う西行の直感たる壮絶な無常観
願はくは花の下にて春死なむ
そのきさらぎの望月のころ
時代の寵児、北森鴻はこの西行法師をお手本にしている嫌いがある。
1961年山口県生駒澤大学文学部歴史学科卒が頷ける作品群。
1995年に『狂乱廿四孝』で鮎川哲也賞を受賞しデビュー。1999年に『花の下にて春死なむ』で推理作家協会賞を受賞している。
「桜の森の満開の下」ほか「花の下にて春死なむ」(連作短篇集の表題作) ビアバー「香菜里屋」シリーズ第1弾。
第52回日本推理作家協会賞(短篇および連作短篇集部門)受賞作品。シリーズ第2弾『桜宵』が4月に文庫になる予定。
桜にまつわる作品はかかせない物がある。
国語教科書で読んだ記憶がある。
作品自体長くないのでちょうど収まりもよかった。
梶井基次郎「桜の樹の下には」
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。
何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。
俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。
しかしいま、やっとわかるときが来た。
桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
作品集『檸檬』に収められた「桜の樹の下で」は、文庫本で3ページちょっと。とても短い小説。
なのに、強烈なイメージが残っている。
桜の樹が根っこに人間の屍を抱えている映像が頭の中に浮かぶからである。
桜の花びらと水に浮かぶ無数の薄羽かげろうの死骸を重ね合わせる描写も余韻を深める。
31歳で鬼籍に入った梶井基次郎。病に冒され、常に死を間近に感じていた
桜と屍のイメージを結びつけ、のちのちの作品にも大きな影響を与えたこの掌編小説。
傑作ミステリーと言ってもいいのではなかろうか。
この世の物とも思えない満開の情景の醸し出す桜の優美さがその下には死体というまったく異なるものを対置させ、美の秘密たる
醜悪な存在を隠している。
桜の樹が朽ち腐乱した人間の死体から養分を吸い取っているから、あれほど桜が美しくなる。
中学生たる私は庭先の桜が満開になるとションベンをちびったものだった。
日本人の処生感美しいものもいずれは崩れ去るという先輩たちが培ってきた無常観。
華やかさの陰、オモテとウラの日本民族
みよ!花の下におけるうごめく本能の姿。恥ずかしいのでアルコールで弁解してるだけ。
桜の花の下では人間は狂いやすい。
白っぽさのピンクより赤味の強い桜の下には死体が埋まってるなどとも言う。
その視点で観察するとヨ〜クわかる。
木から直接花が噴き出すという感じで、たの花にない咲き方。
ひとつずつでは気づかぬが視線が全体にわたると、不意打ちのように爆発的に萌えている。
根元近くの太い幹からも直接花が吹きだしている。
一年間溜めに溜めた過剰を一気に消尽しつくすかのような、爆発的な生命の萌え。
狂い咲きと言う言葉が有るが、まさに狂っているかのようだ。
狂気は生命の原動力ではあるまいか。
ニヒイズムでは坂口安吾
「桜の森の満開の下」がある。
篠田正浩監督は映画作品「桜の森の満開の下」(1975)として 若山富三郎(山賊)岩下志麻(女で映像化した。
女が持つ「美にひそむ狂気と残虐性」を桜になぞらえて描き出している。
かくして、50の人生からしてげに女は怖い
別れ際の「トモダチでいてね。」
なにいってるの!平成つべこべ草のブログでも 追体験をさせて泣く泣く読んだものであった。
今年は、桜の「森」には行けなかった。
早朝の光で、近くの桜並木を撮って来た。
狂気は撮り込めただろうか・・・。
・・・大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、
絶景だなどとは誰も思いませんでした。
・・・桜の林の花の下に人の姿が無ければ
怖しいばかりです。
・・・
彼は初めて桜の森の満開の下に坐っていました。
いつまでもそこに坐っていることができます。
彼はもう帰るところがないのですから。
桜の森の満開の下の秘密は誰にも今もわかりません。
あるいは「孤独」というものであったかもしれません。
なぜなら、
男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。
彼自らが孤独自体でありました。・・・
さくらの美しさはほかの花の美しさとは違う。
そのうつくしさは形や色の向こうからくる。
この世のものにしては美しすぎる
先人たちはそのさくらの向こうに「彼岸」を重ねてた。
思いもかけず花吹雪の下にたたづんで陶酔感に包まれたらだれもが「この世でない」何かを感じる一瞬がだれにもあろう。
「さくら」がなぜ日本人にとって特別な花なのか、
「 パラ」や「梅」「花菖蒲」の美しさとは何がちがうのか?
他の国の人が満開の桜を見たり花吹雪の光景を目の当たりにしても、そこに人生のはかなさや、底にひそむ死の影を思う人は少な
いと言う。
自然一般に対する感受性は日本人の民族性とも言え、日本人を日本人たらしめている。
古来、西行を始め多くの歌人や作家が、現代でも映画、演劇は桜を題材や背景にしてきた。
桜の華やかさの中に死の影を見る芸術家は多く、鑑賞する凡人のわれわれでさえそれを受け入れている。
桜には常に死の影が漂う。
こうしてこうすりゃこうなるものと知りつつこうしてこうなった。
江戸期の人、都々逸坊扇歌の作という
愚かの誹りを承知で人はときに、誰の目にも誤りと映る道を選ぶ。色恋ならばそれもよかろう
が大量殺戮テロとなるとチョト趣が違う。
9,11自爆テロを太平洋戦争の教訓をかじり学んだ日本人はアレ?これかつての日本の専売特許ジャン!
「神風特攻隊」は290回程行われたそうで、出撃機数は2370機を数えた。
撃沈せしめた敵艦船は護衛空母3隻、駆逐艦13隻など。その他多くの艦艇に損傷を与えたが、その多くはすぐに戦線に復帰している。戦時広報の「臨時ニュースを申し上げます。」と臨場感豊かに民族性を高揚させただけである。
、戦闘機一機の特攻では艦艇は沈まない。
そこで登場するのが「人間魚雷回天」
回天は93式改3型魚雷という高性能な酸素魚雷を改造し、頭部に1,500kg の炸薬を充填した一人乗りのまさに人間魚雷。脱出装置
はなく、エンジンも一度駆動すると再駆動不可という、仕様であった。
尤もそれは初期のことで我がみやざきの美々津や青島における回天は板ッキレさえ本体を形成していたフシがある。
「人間魚雷回天」もまた有名な特攻兵器。。
「回天」は岐阜県益田郡川西村(現:下呂町)出身の黒木博司大尉と滋賀県大津市の仁科関夫中尉によって考案されたもの。
終戦までに420機が製造され、回天搭乗員89人と訓練中に殉職した15人、さらに母潜水艦の乗組員810人が亡くなった
華々しいのは9,11の草分け、一人乗りの自爆式戦闘機「桜花」である。
開発者は謎の部分はあるが山口県熊毛郡室津村出身の数奇なる人生を送った大田正一である。
「桜花」というのは1.2トンの爆薬とロケットエンジンを積んだグライダー状の特攻機
「桜花」は昭和19年8月考案された。
一式陸上攻撃機の胴体下に吊るされて敵艦隊上空まで運ばれ、操縦する人間が移乗して母機から切り離されるやロケット推進の補助を得て滑空しながら敵艦に体当たりするイラク自爆テロの先駆をなす。
私案協力は東大航空研究所、三菱名古屋発動機製作所だ
NHK「巧妙が辻」の司馬遼太郎が絶世のご時候のようであるがわれらの世代はミステリーの雄、松本清張。
ライフワークたる昭和史発掘には黒幕謀略の限りの戦後の真相が暴かれた。
記憶に間違いなければ松本清張の「球形の荒野」には戸籍を無くして国際放浪者がかげながら家族を見守るところが描かれていた。まさに大田正一がそれである。
実を詰まらされる思いである。
大正 1年 8月23日 山口県熊毛郡室津村出身
昭和20年 8月15日 大東亜戦争終戦
昭和20年 8月18日 神ノ池基地を零戦で発進鹿島灘で自殺未遂
漁船に救助され宮城県、鳴子陸軍病院に入院
昭和20年 9月 5日 七二二航空隊司令発「海軍軍人死亡の件報告」
大田正一「死亡認定」
昭和22年 月 日 北海道で樺太からの引揚者に混じり新戸籍を作成
昭和22年 月 日 「青木 薫」を名乗り神ノ池に居住
昭和22〜24年頃 日本各地を転々と移動
昭和24年 6月 日 「北海道へ行く」と外出したまま行方不明
昭和31年11月20日 呉地方復員部「内地死没者名簿」作成
大田正一「航空殉職」「戸籍抹消済」と記載
昭和51年 月 日 「横山道雄」を名乗り大阪に居住
平成 6年12月 7日 京都バプティスト病院にて病死(無国)
大田正一は、戦後家族を捨て名前を変えながら、身を隠すように全国各地を転々とした。
精神を患って病院に隔離され、看取る家族も無く死んだという
なぜか。
終戦後、戦争犯罪人を罰罪の一つに「人道に対する罪」があった。特攻計画の中枢にいたある軍令部参謀は、大西中将の自決により全責任を大西中将に負わせ、自分は安全圏に身を置いた。 その参謀は「桜花」計画の全貌を秘匿するるため、大田正一に「戦争犯罪に時効は無い」と脅していた形跡がある。 自決を試みて未遂に終わり全国を逃げ回る大田正一には、「人道の罪」「戦争犯罪の時効」の定義を調査する精神的余裕がなく、相談
相手は無かったのだろうか。
その軍令部参謀は戦後、自衛隊を経て参議院に当選したその人である。
源田 実は広島県加計町(現安芸太田町)日本海軍の航空参謀。戦後は航空幕僚長、参議院議員を4期勤める。
若き頃戦犯者として不投票頭目の筆頭に上げ標的としていたのを思い出す。
第二次世界大戦において源田は真珠湾攻撃、インド洋海戦、南太平洋海戦等で航空作戦を参謀として参加して勝利に導いた。
愛媛県松山基地の第343海軍航空隊を指揮し、、翌1945年(昭和20年)の3月19日、来襲した米機動部隊の300機あまりの艦上機を迎え撃ち、このうち57機を撃墜、これに対し味方の空戦での損失は16機という戦果をあげて初陣を飾っている。
『剣』と名づけられたこの部隊は、本土爆撃に飛来したB29にも多大な損害を与え、終戦に至るまでの防空戦で奮戦した。
漫画ブームの当節で言うと『剣』部隊の活躍は昭和38年にちばてつやの「紫電改のタカ」や同年に劇場公開された東宝映画『太平洋の翼』でも描かれ、「源田司令」は「山本五十六長官」のように太平洋戦争の英雄であった。
「大鑑主義」でなく「航空主兵」論を唱えた先見性。
この頃、国民の寄付による軍への飛行機の献納が盛んに行われ宮崎からも寄贈されている。
、源田は日本各地で行われた献納式のパイロットを勤めた。彼が率いる三機編隊による巴宙返り、編隊宙返りは各地で人気を博し、「源田サーカス」と愛称された。
実はかれこそが回天の二番煎じ「桜花」の開発者のフシがある。
裁かれぬものと裁きを恐れ逃げ回ったもの。
この世には語りつくせぬ真実が横たわっている。
敷島の大和心を人問はば
朝日に匂ふ山桜花
花びらが雪のように咲き乱れこれから数日後には雪のように降る様が見れる。
、美しいと思うと同時にいいようのない不安はかなささに包まれる。
日本人の死生観や無常観をいやおうにも感じさせら図にはおれない。
7人の安楽死が咎められているが医療行為ではないのか。
2年にわたり植物人間の母ツユ子を思わずにはいられない。
寒風の中畑地帯の作業現場の取り壊し。電気屋稼業がわかってきている。
1500枚パネルの完成に向けてのささやかな応援で今一歩の状態である。
こちらは作業工程から美しさにかけている。
訪れていただいた皆様!
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人生も順風満帆春の頃。満開のたとえようもない桜の美しさに感動しながらも、だからこそ死を想う西行の直感たる壮絶な無常観
願はくは花の下にて春死なむ
そのきさらぎの望月のころ
時代の寵児、北森鴻はこの西行法師をお手本にしている嫌いがある。
1961年山口県生駒澤大学文学部歴史学科卒が頷ける作品群。
1995年に『狂乱廿四孝』で鮎川哲也賞を受賞しデビュー。1999年に『花の下にて春死なむ』で推理作家協会賞を受賞している。
「桜の森の満開の下」ほか「花の下にて春死なむ」(連作短篇集の表題作) ビアバー「香菜里屋」シリーズ第1弾。
第52回日本推理作家協会賞(短篇および連作短篇集部門)受賞作品。シリーズ第2弾『桜宵』が4月に文庫になる予定。
桜にまつわる作品はかかせない物がある。
国語教科書で読んだ記憶がある。
作品自体長くないのでちょうど収まりもよかった。
梶井基次郎「桜の樹の下には」
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。
何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。
俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。
しかしいま、やっとわかるときが来た。
桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
作品集『檸檬』に収められた「桜の樹の下で」は、文庫本で3ページちょっと。とても短い小説。
なのに、強烈なイメージが残っている。
桜の樹が根っこに人間の屍を抱えている映像が頭の中に浮かぶからである。
桜の花びらと水に浮かぶ無数の薄羽かげろうの死骸を重ね合わせる描写も余韻を深める。
31歳で鬼籍に入った梶井基次郎。病に冒され、常に死を間近に感じていた
桜と屍のイメージを結びつけ、のちのちの作品にも大きな影響を与えたこの掌編小説。
傑作ミステリーと言ってもいいのではなかろうか。
この世の物とも思えない満開の情景の醸し出す桜の優美さがその下には死体というまったく異なるものを対置させ、美の秘密たる
醜悪な存在を隠している。
桜の樹が朽ち腐乱した人間の死体から養分を吸い取っているから、あれほど桜が美しくなる。
中学生たる私は庭先の桜が満開になるとションベンをちびったものだった。
日本人の処生感美しいものもいずれは崩れ去るという先輩たちが培ってきた無常観。
華やかさの陰、オモテとウラの日本民族
みよ!花の下におけるうごめく本能の姿。恥ずかしいのでアルコールで弁解してるだけ。
桜の花の下では人間は狂いやすい。
白っぽさのピンクより赤味の強い桜の下には死体が埋まってるなどとも言う。
その視点で観察するとヨ〜クわかる。
木から直接花が噴き出すという感じで、たの花にない咲き方。
ひとつずつでは気づかぬが視線が全体にわたると、不意打ちのように爆発的に萌えている。
根元近くの太い幹からも直接花が吹きだしている。
一年間溜めに溜めた過剰を一気に消尽しつくすかのような、爆発的な生命の萌え。
狂い咲きと言う言葉が有るが、まさに狂っているかのようだ。
狂気は生命の原動力ではあるまいか。
ニヒイズムでは坂口安吾
「桜の森の満開の下」がある。
篠田正浩監督は映画作品「桜の森の満開の下」(1975)として 若山富三郎(山賊)岩下志麻(女で映像化した。
女が持つ「美にひそむ狂気と残虐性」を桜になぞらえて描き出している。
かくして、50の人生からしてげに女は怖い
別れ際の「トモダチでいてね。」
なにいってるの!平成つべこべ草のブログでも 追体験をさせて泣く泣く読んだものであった。
今年は、桜の「森」には行けなかった。
早朝の光で、近くの桜並木を撮って来た。
狂気は撮り込めただろうか・・・。
・・・大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、
絶景だなどとは誰も思いませんでした。
・・・桜の林の花の下に人の姿が無ければ
怖しいばかりです。
・・・
彼は初めて桜の森の満開の下に坐っていました。
いつまでもそこに坐っていることができます。
彼はもう帰るところがないのですから。
桜の森の満開の下の秘密は誰にも今もわかりません。
あるいは「孤独」というものであったかもしれません。
なぜなら、
男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。
彼自らが孤独自体でありました。・・・
さくらの美しさはほかの花の美しさとは違う。
そのうつくしさは形や色の向こうからくる。
この世のものにしては美しすぎる
先人たちはそのさくらの向こうに「彼岸」を重ねてた。
思いもかけず花吹雪の下にたたづんで陶酔感に包まれたらだれもが「この世でない」何かを感じる一瞬がだれにもあろう。
「さくら」がなぜ日本人にとって特別な花なのか、
「 パラ」や「梅」「花菖蒲」の美しさとは何がちがうのか?
他の国の人が満開の桜を見たり花吹雪の光景を目の当たりにしても、そこに人生のはかなさや、底にひそむ死の影を思う人は少な
いと言う。
自然一般に対する感受性は日本人の民族性とも言え、日本人を日本人たらしめている。
古来、西行を始め多くの歌人や作家が、現代でも映画、演劇は桜を題材や背景にしてきた。
桜の華やかさの中に死の影を見る芸術家は多く、鑑賞する凡人のわれわれでさえそれを受け入れている。
桜には常に死の影が漂う。
こうしてこうすりゃこうなるものと知りつつこうしてこうなった。
江戸期の人、都々逸坊扇歌の作という
愚かの誹りを承知で人はときに、誰の目にも誤りと映る道を選ぶ。色恋ならばそれもよかろう
が大量殺戮テロとなるとチョト趣が違う。
9,11自爆テロを太平洋戦争の教訓をかじり学んだ日本人はアレ?これかつての日本の専売特許ジャン!
「神風特攻隊」は290回程行われたそうで、出撃機数は2370機を数えた。
撃沈せしめた敵艦船は護衛空母3隻、駆逐艦13隻など。その他多くの艦艇に損傷を与えたが、その多くはすぐに戦線に復帰している。戦時広報の「臨時ニュースを申し上げます。」と臨場感豊かに民族性を高揚させただけである。
、戦闘機一機の特攻では艦艇は沈まない。
そこで登場するのが「人間魚雷回天」
回天は93式改3型魚雷という高性能な酸素魚雷を改造し、頭部に1,500kg の炸薬を充填した一人乗りのまさに人間魚雷。脱出装置
はなく、エンジンも一度駆動すると再駆動不可という、仕様であった。
尤もそれは初期のことで我がみやざきの美々津や青島における回天は板ッキレさえ本体を形成していたフシがある。
「人間魚雷回天」もまた有名な特攻兵器。。
「回天」は岐阜県益田郡川西村(現:下呂町)出身の黒木博司大尉と滋賀県大津市の仁科関夫中尉によって考案されたもの。
終戦までに420機が製造され、回天搭乗員89人と訓練中に殉職した15人、さらに母潜水艦の乗組員810人が亡くなった
華々しいのは9,11の草分け、一人乗りの自爆式戦闘機「桜花」である。
開発者は謎の部分はあるが山口県熊毛郡室津村出身の数奇なる人生を送った大田正一である。
「桜花」というのは1.2トンの爆薬とロケットエンジンを積んだグライダー状の特攻機
「桜花」は昭和19年8月考案された。
一式陸上攻撃機の胴体下に吊るされて敵艦隊上空まで運ばれ、操縦する人間が移乗して母機から切り離されるやロケット推進の補助を得て滑空しながら敵艦に体当たりするイラク自爆テロの先駆をなす。
私案協力は東大航空研究所、三菱名古屋発動機製作所だ
NHK「巧妙が辻」の司馬遼太郎が絶世のご時候のようであるがわれらの世代はミステリーの雄、松本清張。
ライフワークたる昭和史発掘には黒幕謀略の限りの戦後の真相が暴かれた。
記憶に間違いなければ松本清張の「球形の荒野」には戸籍を無くして国際放浪者がかげながら家族を見守るところが描かれていた。まさに大田正一がそれである。
実を詰まらされる思いである。
大正 1年 8月23日 山口県熊毛郡室津村出身
昭和20年 8月15日 大東亜戦争終戦
昭和20年 8月18日 神ノ池基地を零戦で発進鹿島灘で自殺未遂
漁船に救助され宮城県、鳴子陸軍病院に入院
昭和20年 9月 5日 七二二航空隊司令発「海軍軍人死亡の件報告」
大田正一「死亡認定」
昭和22年 月 日 北海道で樺太からの引揚者に混じり新戸籍を作成
昭和22年 月 日 「青木 薫」を名乗り神ノ池に居住
昭和22〜24年頃 日本各地を転々と移動
昭和24年 6月 日 「北海道へ行く」と外出したまま行方不明
昭和31年11月20日 呉地方復員部「内地死没者名簿」作成
大田正一「航空殉職」「戸籍抹消済」と記載
昭和51年 月 日 「横山道雄」を名乗り大阪に居住
平成 6年12月 7日 京都バプティスト病院にて病死(無国)
大田正一は、戦後家族を捨て名前を変えながら、身を隠すように全国各地を転々とした。
精神を患って病院に隔離され、看取る家族も無く死んだという
なぜか。
終戦後、戦争犯罪人を罰罪の一つに「人道に対する罪」があった。特攻計画の中枢にいたある軍令部参謀は、大西中将の自決により全責任を大西中将に負わせ、自分は安全圏に身を置いた。 その参謀は「桜花」計画の全貌を秘匿するるため、大田正一に「戦争犯罪に時効は無い」と脅していた形跡がある。 自決を試みて未遂に終わり全国を逃げ回る大田正一には、「人道の罪」「戦争犯罪の時効」の定義を調査する精神的余裕がなく、相談
相手は無かったのだろうか。
その軍令部参謀は戦後、自衛隊を経て参議院に当選したその人である。
源田 実は広島県加計町(現安芸太田町)日本海軍の航空参謀。戦後は航空幕僚長、参議院議員を4期勤める。
若き頃戦犯者として不投票頭目の筆頭に上げ標的としていたのを思い出す。
第二次世界大戦において源田は真珠湾攻撃、インド洋海戦、南太平洋海戦等で航空作戦を参謀として参加して勝利に導いた。
愛媛県松山基地の第343海軍航空隊を指揮し、、翌1945年(昭和20年)の3月19日、来襲した米機動部隊の300機あまりの艦上機を迎え撃ち、このうち57機を撃墜、これに対し味方の空戦での損失は16機という戦果をあげて初陣を飾っている。
『剣』と名づけられたこの部隊は、本土爆撃に飛来したB29にも多大な損害を与え、終戦に至るまでの防空戦で奮戦した。
漫画ブームの当節で言うと『剣』部隊の活躍は昭和38年にちばてつやの「紫電改のタカ」や同年に劇場公開された東宝映画『太平洋の翼』でも描かれ、「源田司令」は「山本五十六長官」のように太平洋戦争の英雄であった。
「大鑑主義」でなく「航空主兵」論を唱えた先見性。
この頃、国民の寄付による軍への飛行機の献納が盛んに行われ宮崎からも寄贈されている。
、源田は日本各地で行われた献納式のパイロットを勤めた。彼が率いる三機編隊による巴宙返り、編隊宙返りは各地で人気を博し、「源田サーカス」と愛称された。
実はかれこそが回天の二番煎じ「桜花」の開発者のフシがある。
裁かれぬものと裁きを恐れ逃げ回ったもの。
この世には語りつくせぬ真実が横たわっている。
敷島の大和心を人問はば
朝日に匂ふ山桜花
花びらが雪のように咲き乱れこれから数日後には雪のように降る様が見れる。
、美しいと思うと同時にいいようのない不安はかなささに包まれる。
日本人の死生観や無常観をいやおうにも感じさせら図にはおれない。
7人の安楽死が咎められているが医療行為ではないのか。
2年にわたり植物人間の母ツユ子を思わずにはいられない。
寒風の中畑地帯の作業現場の取り壊し。電気屋稼業がわかってきている。
1500枚パネルの完成に向けてのささやかな応援で今一歩の状態である。
こちらは作業工程から美しさにかけている。
訪れていただいた皆様!
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