鯉およぐ国
2006年5月1日いや〜世界にもまれなる行事こいのぼりの泳ぐ季節になったようである。
一年中で、一番清々しい季節。この国に生まれた喜び。
それが昨日から急に暑い!
S先生と協議し延岡からのお客さんを向かえた一日。
クローズ・アップ現代19時30分〜20時消え行く日本の風景には、小泉・竹中の推し進めてきたグローバル化、やスタンダード化の結果が写し取られた。
若い人が村から出て行き、共同性が維持できず、全てをコストで図る、田舎切捨て行政のためである。
日本人の美意識、勤勉で実直さが消えていくことでもある。
教育基本法の改正で愛国心をうえつけるのはいいが、何か手順は違ってませんかといいたい。
民族の誇りを失う事は日本の原風景が消えてゆくことに政治は気づかない。
里山や、漁村やいわゆる田舎の山村が無人化となり、この10年で5000もの集落が消えたという。
藤岡和賀夫は必死に記録に残している。
この人のことは書いている。
http://diarynote.jp/d/36488/_0_530.html
村のパワーが共同体維持のための無償労働力の提供として「結い」として確立されていた。
田植えや稲刈り、道普請、家の立替、全て「結い」の無償労働力でまかなわれていた。
そこにはホリエモンのいう何でも金で買える社会は無かった。
生きる日本の姿があった。生活を維持することが意識することなく愛国心につながっているのである。
自然が維持管理され豊かな水資源の維持でもあったし、自然災害から地域を守った。
全ての田舎が荒れ放題の現況とはまったく違う日本人の民族性が培われていた。
そこに都市に住む人が立ち上がった。
青森の岡村慶子は都市に住む人の力と地元の共生で茅葺屋根を復活させた。
無人化した、秋田八峰町の手遣坂地区には無人のままであるが復活した茅葺屋根がある。
南会津町水引町には7軒が茅葺屋根として残る。
700万円かかる茅葺屋根の葺き替えのために断念した無念の人
町役場からの補助金がなくなったためでもある。
日本の原風景の消滅は日本人の精神がガラガラと崩れていく課程でもある。
春を迎えた今は冬に備えてのマキの準備と住んでる人は、手のかかる田舎の厳しき現状を言う。
夏は涼しいが冬の雪下ろしが結いが無いためできない。と泣き泣き訴える。
すべてが六本木ヒルズかの同一化していく風景が果たして豊かな社会なんでであろうか。
ノスタルジーやボランテアでは限界である。
生きるには経済性が成立しないと人は逃げる。
職人の町が消えるのも同じ事情からである。
新聞からである。
政策研究大学院大学の橋本久義教授は経産省の課長時代から毎週木曜日に出かけてきた。
19年間で訪ねた工場は2910を数えた
町工場の見学回数とし」で、優れた経営者には共通点があるという。
「金で買えないものはない」とうそぶく経営者は当然論外である。
?人徳がある。
町工場なので経営者が悪ければ、すぐに従業員が辞めてしまう。「暴走族出身者を教育し、一人前の工員に育て上げるぐらいは当然」
?。謙虚さがある。
そうでなければ、社員の能力をきちんと評価できない。「埋もれている能力を見つける嗅覚を磨く
?社外の人を徹底的に大切にする。
発注先の技術者、地域の大学教授が無給で協力してくれる。「あの人のためならば、とひと肌脱がせてしまう」
なんでも横文字の時代に、「資本主義を語る」岩井克人著、講談社で説明している。
カンパニーの語源は中世イタリア語でコンパーニャ。
コンは「共にする」、パーニャは「パン」。
同じ釜の飯を食うものという意味だ
洋の東西を問わず同じことのようだ。
仲間が「会社の空気はおいしい」といえる雰囲気をトップが作れるかどうか
わがアパデン宮崎はどうであろうや。
もっとも人間ゆえに沈んでるときは論評から避けてほしい。
米国を代表する経済学者で青春時代に酷評した「不確実性の時代」などの著作で知られる米ハーバード大名誉教授、
ジョン・K・ガルブレイスの四月二十九日夜、の訃報。
もうダメデある。志ん朝亡き後の楽しみの一人三遊亭円弥 師匠が4月29日、肝臓がんのため死去、69歳だったそうな。
昭和33年、八代目春風亭柳枝に入門。翌年、六代目三遊亭円生門下に移り、昭和47年に真打ち。
落ち着いた味わい明治期より伝わる三遊派の人情話を豊富な持ちネタで、寄席の客をうならせた
う〜んなんど・・もう!円窓師匠のような華はないが竹の水仙などの納得ものは逆によかった。
今年3月20日、東京・新宿の末広亭での「子別れ」が最後の高座になったそうな。チキショウ!
落語のことを語れば1年でも書ける。
昭和の爆笑王三平師匠はねぎし三平堂で会える。この建物のオープンを知る人は少ない。
1995年11月30日にオープン・・シタんだ!
なぜって!だって入館第一号者を知ってるからである。
何を隠そう九州からのおのぼりさんがその人です。
えっ?まっさか?
そうです.せきやんさんが入館第一号者なんです。
ところでその三平堂の二階に上がる部分にあるのが等身大のサトー・ハチローの写真。
三平堂がオープンするその前日あの「誰かさんが誰かさんが、赤い実をみつけた」のハゼの樹のサトハチロー記念館が財産わけのため閉館した。
同時に訪れた私は戸惑ったものであった。もちろん傍にある子規堂に入ったが樋口一葉記念館は知らない。
この当時はタクシー基本料金でいける、かっぱ町道具街の池波正太郎記念館は無かった
もちろん近くの笹の雪の豆腐で一杯はやった。
ところでそのハチローの同人誌 が600号で終刊なんだそうな。 父・作家の佐藤紅緑は「神武以来の極道息子」とハチローを評した。16歳で西条八十に師事。
詩人サトウハチロー(1903〜1973)が童謡詩人の育成を目指して49年前に創刊した同人誌「木曜手帖」が、6月に出す第600号をもって終刊するそうだ。
同誌は「天城越え」などで知られる作詞家の吉岡治さん(72)らを輩出したが、8人の編集者が60〜70代となり、作業が難しくなっていた。
発行人の宮中雲子さん(70)(東京都荒川区)は「若手が自由に書ける場として、サトウ先生が残してくれた貴重な財産でした」と語っている。
詩人サトウハチローが創刊した同人誌「木曜手帖」は、毎週木曜日に詩の勉強会を開いていたハチローが、会員の発表の場として1957年4月に創刊。以後、ほぼ毎月発行されてきた。
ハチローは当時、既存の童謡に対して「詩の内容が単純」などと不満を持ち、「子供時代から文学性豊かな詩に親しんでこそ、感受性が磨かれる」という信念から、表現力を持つ童謡詩の書き手の育成を夢見ていた。
率先垂範の意味も込め、同誌では、弟子たちに交じってハチローも積極的に自作を発表していた。
同誌から育った門下生には、吉岡さんや、ミュージカル「マイ・フェア・レディ」「屋根の上のヴァイオリン弾き」の訳詞を担当した若谷和子さんらがいる。
「さざんかの宿」「命くれない」なども手がけた吉岡さんは、ガリ版印刷所に勤めていた縁で、木曜手帖の創刊まではハチローと門下生たちの作品をわら半紙でガリ版印刷していた。
木曜手帖創刊後、16号まで投稿を続け、「字体まで先生そっくりになった」という吉岡さん。
「童謡の世界にハチローは2人も要らないと感じた」と歌謡界に移り、ヒットを連発したが、「それでも、ぼくの歌詞の根っこにはハチローの教えがある」と懐かしむ。
73年には、主宰者のハチローが死去。
第200号発行の直前で、「校正は終わったのかい」と最期まで気にかけていたという。
この4月25日に598号が発行され、宮中さんらは自身の童謡詩「いつでもわたしを鬼にして」など約90編を掲載した。5月25日発行の599号を経て、最終号を6月25日に刊行する予定だ。
宮中さんは「ハチローの愛した童謡詩の世界を伝え続けたい」と、仲間と一緒にインターネットでの詩の発表を検討している。
新会社法がきょう施行された。有限会社はこの世から消え、全てが株式会社に収斂される。資本金ゼロでも会社を興せるなど創業しやすくする。
橋本3条件を満たす創業者を目指してアパデン宮崎もチャレンジする。
昨日の英雄。巨人軍二岡智宏のように。
何しろあの華奢な肉体のどこにパワーがあるので労。
満塁本塁打――破壊力がこれに勝る一振りはない。まんるい
日本プロ野球の通算最多はもちろん巨人・王貞治の15本
868本ものホームランを量産した人にしてこうだ。
王さんにして15本だから難しさが知れる。ましてや満塁本塁打を続けて打つなどは難事中の難事。王さんも含め、
日本でそれを果たした打者はいなかった
ところが何と、昨夜の東京ドーム、巨人―中日戦で巨人の二岡智宏選手が史上初の2打席連続満塁アーチを含む3本塁打、10打点という快挙に喝采。
華の満塁本塁打物語に二岡が新たに華々しく1ページを書き加えた。
私どももいただいた勇気を太陽光発電建設に生かしたい。
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一年中で、一番清々しい季節。この国に生まれた喜び。
それが昨日から急に暑い!
S先生と協議し延岡からのお客さんを向かえた一日。
クローズ・アップ現代19時30分〜20時消え行く日本の風景には、小泉・竹中の推し進めてきたグローバル化、やスタンダード化の結果が写し取られた。
若い人が村から出て行き、共同性が維持できず、全てをコストで図る、田舎切捨て行政のためである。
日本人の美意識、勤勉で実直さが消えていくことでもある。
教育基本法の改正で愛国心をうえつけるのはいいが、何か手順は違ってませんかといいたい。
民族の誇りを失う事は日本の原風景が消えてゆくことに政治は気づかない。
里山や、漁村やいわゆる田舎の山村が無人化となり、この10年で5000もの集落が消えたという。
藤岡和賀夫は必死に記録に残している。
この人のことは書いている。
http://diarynote.jp/d/36488/_0_530.html
村のパワーが共同体維持のための無償労働力の提供として「結い」として確立されていた。
田植えや稲刈り、道普請、家の立替、全て「結い」の無償労働力でまかなわれていた。
そこにはホリエモンのいう何でも金で買える社会は無かった。
生きる日本の姿があった。生活を維持することが意識することなく愛国心につながっているのである。
自然が維持管理され豊かな水資源の維持でもあったし、自然災害から地域を守った。
全ての田舎が荒れ放題の現況とはまったく違う日本人の民族性が培われていた。
そこに都市に住む人が立ち上がった。
青森の岡村慶子は都市に住む人の力と地元の共生で茅葺屋根を復活させた。
無人化した、秋田八峰町の手遣坂地区には無人のままであるが復活した茅葺屋根がある。
南会津町水引町には7軒が茅葺屋根として残る。
700万円かかる茅葺屋根の葺き替えのために断念した無念の人
町役場からの補助金がなくなったためでもある。
日本の原風景の消滅は日本人の精神がガラガラと崩れていく課程でもある。
春を迎えた今は冬に備えてのマキの準備と住んでる人は、手のかかる田舎の厳しき現状を言う。
夏は涼しいが冬の雪下ろしが結いが無いためできない。と泣き泣き訴える。
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ノスタルジーやボランテアでは限界である。
生きるには経済性が成立しないと人は逃げる。
職人の町が消えるのも同じ事情からである。
新聞からである。
政策研究大学院大学の橋本久義教授は経産省の課長時代から毎週木曜日に出かけてきた。
19年間で訪ねた工場は2910を数えた
町工場の見学回数とし」で、優れた経営者には共通点があるという。
「金で買えないものはない」とうそぶく経営者は当然論外である。
?人徳がある。
町工場なので経営者が悪ければ、すぐに従業員が辞めてしまう。「暴走族出身者を教育し、一人前の工員に育て上げるぐらいは当然」
?。謙虚さがある。
そうでなければ、社員の能力をきちんと評価できない。「埋もれている能力を見つける嗅覚を磨く
?社外の人を徹底的に大切にする。
発注先の技術者、地域の大学教授が無給で協力してくれる。「あの人のためならば、とひと肌脱がせてしまう」
なんでも横文字の時代に、「資本主義を語る」岩井克人著、講談社で説明している。
カンパニーの語源は中世イタリア語でコンパーニャ。
コンは「共にする」、パーニャは「パン」。
同じ釜の飯を食うものという意味だ
洋の東西を問わず同じことのようだ。
仲間が「会社の空気はおいしい」といえる雰囲気をトップが作れるかどうか
わがアパデン宮崎はどうであろうや。
もっとも人間ゆえに沈んでるときは論評から避けてほしい。
米国を代表する経済学者で青春時代に酷評した「不確実性の時代」などの著作で知られる米ハーバード大名誉教授、
ジョン・K・ガルブレイスの四月二十九日夜、の訃報。
もうダメデある。志ん朝亡き後の楽しみの一人三遊亭円弥 師匠が4月29日、肝臓がんのため死去、69歳だったそうな。
昭和33年、八代目春風亭柳枝に入門。翌年、六代目三遊亭円生門下に移り、昭和47年に真打ち。
落ち着いた味わい明治期より伝わる三遊派の人情話を豊富な持ちネタで、寄席の客をうならせた
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昭和の爆笑王三平師匠はねぎし三平堂で会える。この建物のオープンを知る人は少ない。
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なぜって!だって入館第一号者を知ってるからである。
何を隠そう九州からのおのぼりさんがその人です。
えっ?まっさか?
そうです.せきやんさんが入館第一号者なんです。
ところでその三平堂の二階に上がる部分にあるのが等身大のサトー・ハチローの写真。
三平堂がオープンするその前日あの「誰かさんが誰かさんが、赤い実をみつけた」のハゼの樹のサトハチロー記念館が財産わけのため閉館した。
同時に訪れた私は戸惑ったものであった。もちろん傍にある子規堂に入ったが樋口一葉記念館は知らない。
この当時はタクシー基本料金でいける、かっぱ町道具街の池波正太郎記念館は無かった
もちろん近くの笹の雪の豆腐で一杯はやった。
ところでそのハチローの同人誌 が600号で終刊なんだそうな。 父・作家の佐藤紅緑は「神武以来の極道息子」とハチローを評した。16歳で西条八十に師事。
詩人サトウハチロー(1903〜1973)が童謡詩人の育成を目指して49年前に創刊した同人誌「木曜手帖」が、6月に出す第600号をもって終刊するそうだ。
同誌は「天城越え」などで知られる作詞家の吉岡治さん(72)らを輩出したが、8人の編集者が60〜70代となり、作業が難しくなっていた。
発行人の宮中雲子さん(70)(東京都荒川区)は「若手が自由に書ける場として、サトウ先生が残してくれた貴重な財産でした」と語っている。
詩人サトウハチローが創刊した同人誌「木曜手帖」は、毎週木曜日に詩の勉強会を開いていたハチローが、会員の発表の場として1957年4月に創刊。以後、ほぼ毎月発行されてきた。
ハチローは当時、既存の童謡に対して「詩の内容が単純」などと不満を持ち、「子供時代から文学性豊かな詩に親しんでこそ、感受性が磨かれる」という信念から、表現力を持つ童謡詩の書き手の育成を夢見ていた。
率先垂範の意味も込め、同誌では、弟子たちに交じってハチローも積極的に自作を発表していた。
同誌から育った門下生には、吉岡さんや、ミュージカル「マイ・フェア・レディ」「屋根の上のヴァイオリン弾き」の訳詞を担当した若谷和子さんらがいる。
「さざんかの宿」「命くれない」なども手がけた吉岡さんは、ガリ版印刷所に勤めていた縁で、木曜手帖の創刊まではハチローと門下生たちの作品をわら半紙でガリ版印刷していた。
木曜手帖創刊後、16号まで投稿を続け、「字体まで先生そっくりになった」という吉岡さん。
「童謡の世界にハチローは2人も要らないと感じた」と歌謡界に移り、ヒットを連発したが、「それでも、ぼくの歌詞の根っこにはハチローの教えがある」と懐かしむ。
73年には、主宰者のハチローが死去。
第200号発行の直前で、「校正は終わったのかい」と最期まで気にかけていたという。
この4月25日に598号が発行され、宮中さんらは自身の童謡詩「いつでもわたしを鬼にして」など約90編を掲載した。5月25日発行の599号を経て、最終号を6月25日に刊行する予定だ。
宮中さんは「ハチローの愛した童謡詩の世界を伝え続けたい」と、仲間と一緒にインターネットでの詩の発表を検討している。
新会社法がきょう施行された。有限会社はこの世から消え、全てが株式会社に収斂される。資本金ゼロでも会社を興せるなど創業しやすくする。
橋本3条件を満たす創業者を目指してアパデン宮崎もチャレンジする。
昨日の英雄。巨人軍二岡智宏のように。
何しろあの華奢な肉体のどこにパワーがあるので労。
満塁本塁打――破壊力がこれに勝る一振りはない。まんるい
日本プロ野球の通算最多はもちろん巨人・王貞治の15本
868本ものホームランを量産した人にしてこうだ。
王さんにして15本だから難しさが知れる。ましてや満塁本塁打を続けて打つなどは難事中の難事。王さんも含め、
日本でそれを果たした打者はいなかった
ところが何と、昨夜の東京ドーム、巨人―中日戦で巨人の二岡智宏選手が史上初の2打席連続満塁アーチを含む3本塁打、10打点という快挙に喝采。
華の満塁本塁打物語に二岡が新たに華々しく1ページを書き加えた。
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